ep.41
その夜、スラティハール家の屋敷に駆け込んだアワを、ほとんど飛びかかるような勢いでヘッラは迎え入れた。
「アワ様——!」
震えた声と表情から、すぐに事の大きさを察することができた。
頬にはまだ乾ききらない涙の跡が残り、まぶたは赤く腫れている。ヘッラはそのまま状況を説明するが、感情が先走っていて、うまく言葉になっていない。
アワは声を落として彼女を宥めながら耳を傾けた。
そして予感は、確信に変わる。
馬を走らせるうち、すでにただならぬ気配を感じていた。屋敷へと続く道には、馬車が行き交った無数の轍が雪をかき乱し、玄関前には複数の馬の蹄の跡が、嵐のように押し寄せたことを物語っていた。
「わかりました」
アワはそれ以上を問わず、小さく頷いた。
外は、屋敷のなかとは打って変わって静かだった。月の光と、窓から漏れる灯りだけが降り積もった雪を照らしていた。吐く息が凍りつきそうなほど、辺りは冷えきっている。
「夜行の貨物列車の関係者には、お祖父様の使いの者から話が通っているはずです」
まだ彼女の声は震えていたが、少しだけ落ち着きを取り戻した様子だった。
「——アワ様、お気をつけて……どうか姫様をよろしくお願いします……!」
返事の代わりに、アワは静かに微笑んだ。安心させるための、いつも通りの表情だった。
そして馬の手綱を握ると、まるで躊躇などなかったように駆け出した。
貨物列車は峠を越えた。大きく揺れると、車輪の軋む音が冷えた鉄に反響する。視界の先には、何もない。窓の外の、ただ広がる暗闇を見て呆然とするだけだ。
列車の最後尾。その隅でアワは毛布に包まり身を寄せていた。
「……なあ、アワ。しっかり寝とけよ?」
隣で丸くなったテテポが、小声で呟いた。
「三日も、寝ずに走り続けたんだろ……おまえ、壊れちまうぞ」
アワは目を開ける。視線を宙に浮かせたまま答えた。
「そうだな」
ノルヴァンゲルの地で危機を予期したアワは、自ら馬を走らせララポルトに辿り着いた。
曇ったアワの瞳に映る雪の闇を見つめながら、テテポは声をかけた。
「……悪かったな」
アワが横目で見る。「何が?」
「ジナイーダのことだ。おれがもっと、あいつの性格を考えていれば……こんなことにはならなかったかもしれないだろ?」
軽く笑ってから「そんなの関係ないだろ」とアワは首を振った。
「きっとふたりはこうなる運命だったんだ」
そう言いながらそのまま視線を流し、テテポの顔を覗き込む。
「テテポがそんな心配するとはね。まさか、泣いたりしないよな?」
「は? 泣くかよ!」
動揺したその様子に、わざとらしく感心したような素振りでアワは目を丸くする。
「高飛車な女は、臭いから嫌だって逃げてたのにな」
「うっ……」テテポの口がひくひくと引きつっている。
「うるせえ! あいつらの香水が——甘ったるくて鼻が曲がるんだよ!」
そう言いながらも、テテポの耳の先はほんのり赤い。
「……ふうん」とアワはどこか呆れたように笑うと、窓の外に視線を戻した。
「また会えるといいな」
列車が大きく揺れる音を挟んでテテポは答える。
「そうだな」
「鼻、ちゃんと鍛えておけよ」
テテポは、ぷいと顔を背けた。
「鍛えるか、そんなもん!」
冗談を言いながらもアワの胸の内は、膨れ上がった感情を無理やり押し殺していた。テテポもその気持ちには気づいている。
まさか、アルベルサがこのような強行手段に出てくるとは思ってもいなかった。頭では冷静を保っている。でも、胸を締め付けてくる焦りが引かない。
ミアは無事なのだろうか。今すぐにでも馬を飛ばしたい衝動に駆られる。だが、今はただ列車に揺られ、時間に身を委ねるほかない。
ふと、以前ミアに誓った、あの時の言葉が脳裏をよぎる。
ピンチの時はいつでも駆けつける、そう誓ったはずだった。
なのに、自分は……。
アワは膝に手を置いたまま、まぶたを伏せた。
やがて、風の音に紛れて、微かな寝息が車内に落ちる。
それは、嵐が来るまでの、束の間の静寂だった。
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石で囲まれた狭い空間には窓ひとつなく、今が昼か夜かさえわからなかった。湿りを帯びた空気に古びた黴の匂い。閉ざされたそこはまるで——
一年前、死を望んで誰にも会わず、じっと天井を見つめていた自らの部屋を彷彿とさせた。
ミアは、アルベルサ領国の城、その地下にある牢獄に幽閉されていた。
石畳の上に無造作に転がされ、吐く息は白く、かじかんだ手の指先が痛い。背には冷たさが染みつき、裾は埃を吸って重たく湿る。
耳障りな鼠の足音すらも、今のミアにとっては、もはや気に留める気力さえ残っていなかった。
鉄格子の扉の外から硬い靴音が反響する。金属が擦れる音と共に、重々しい扉が開いた。
ふたりの兵士が現れる。片方は笑っていた。もう一方は眉をひそめたまま、彼女の氷の脚に視線を落とす。
「……不気味だな」
「何だよこの脚。さすがに悪霊が取り憑いてるって噂、冗談じゃなかったんじゃないか?」
「私利私欲で、敵国の姫の命を直接、手をかけるなんて、どこまで破天荒身なんだよ、この悪魔は!」
嘲りと嫌悪がないまぜになった声が、牢の天井に冷たく跳ね返る。
兵士は一度、足元に木の盆を置いた。パンの欠片と、白い豆を煮たもの。だが王国の姫は動かなかった。
目も虚ろで焦点が合っていない。
兵士は数秒だけ待ち、それから舌打ちをした。
「——けっ……さっさと食えよ。お前に今、死なれちゃ俺たちが困るんだよ!」
吐き捨てるように言い、足音を響かせて去っていく。扉が閉まると、再び薄闇と静けさが戻った。
ミアの両手は自由だが、脚は当然のごとく動かすことはできない。
喉が渇いている。腹は空いている。それでも、口を開く気にはなれなかった。
かつて自ら命を絶とうとした夜のことを思い出す。
同じだった。
あの時も、ただ終わってしまえばいいと願っていた。誰にも必要とされず、誰も信じず、愛される資格などないと決めつけていた。
そして今も、ただ死を待つのみ。
これから起こるだろう恐怖すら絶望に消えた。
王女であるはずの自分が、何故このような扱いを受けねばならないのか。
段々と意識が遠のいていくなかで、ミアは自身でも気づかぬまま過去の記憶をひとつずつ拾い上げていた。
暖炉の前で泣き出した侍女の顔。耳を塞いだ料理人の背。宴で浴びせた冷笑と、貴族たちのひきつった沈黙。
どれも、今では奇妙なほど鮮やかだった。
どうして自分はあの時、笑っていたのだろう。威圧すれば、何かを手に入れられるとでも思っていたのか。
目の奥が熱を帯びる。けれど涙は出なかった。
むしろ、ふいに込み上げてきたのは、奇妙な笑いだった。
愚かだ。なんて浅ましい人間だったのだろう、自分は。
まるで他人の人生を眺めるように、それらの光景を反芻しながら、ミアはわずかに肩を震わせた。
寒さのせいか、それとも気が触れたか。
かつん、かつん、と鳴り響く杖を打つ音が聞こえてきた。乾いたその不気味な音は、辺りを蔓延る腐敗を増幅させ、やがて鉄格子の前で鳴り止んだ。
「おやおや。笑い声とは、ずいぶんとご機嫌がよろしいようで。……ミア姫殿下」
ミアは応えなかった。
「死罪が確定しているとはいえ、困りますのでな。何も食べてくださらないのでは。命が尽きては断罪の場が成立しない」
領国の老臣ヴォルフは、扉の前で首を振って、さも残念そうに息をついた。
「ミア姫殿下、お分かりでしょうか? しっかりと皆の前で、姫君を断罪せねばならんのです。さすれば、直に王都も落ちるでしょう」




