ep.39
息を切らした男は、ミアとアロスの姿を確かめると口を開く。
「……領国の姫ジナイーダ様とご婚約される予定だった男が、死にました」
一拍置き、さらに言葉を重ねる。
「それと、ジナイーダ様がミア様との面会を強く望んでおられます。本日の夕刻前には、こちらに到着するとのことです」
「——今日の夕刻前だと?」
アロスが大きく声を上げた。
「——それは間違いないか?」
こちらの返答もなしにやって来る。ましてや領国の身分で。その足取りの速さが、ただ事ではないことを物語っていた。
しかも、政商アールネは、王国の裏で渦巻く陰謀に幾度となくその名が挙がってきた人物。
それが急に死んだ。
『夕刻前には来ます』
その言葉通りだった。
外は底冷えの気配が満ちていた。薄い雪片が斜陽に照らされてはゆっくり舞い落ちる。門前には複数の馬車が並び、蒸気のような白い息を馬が吐く。
予定通りの到着だったが、突然の訪問に使用人たちは慌ただしく駆け回っていた。領国の客人は二十を優に超えていた。
——応接室にはふたりだけ。
従者も退けられ、ミアとジナイーダはテーブルに向かい合って座る。その横では、暖炉の炎が煌々と燃える。
まず最初に、車椅子を目にしてジナイーダは驚いた。アワの魔法で病気は治っているものと思い込んでいた。
咄嗟に見下すような視線を投げたが、即座に元に戻す。背筋をまっすぐに伸ばし、不自由をもろともしないミアの堂々たる姿が、その視線を許さなかった。目には暖炉の火が映っている。
一方ミアはとはいうと、ジナイーダの右手に嵌められた不自然な手袋が目に付いていた。紺色の手袋が小さく震えている。視線を向けると、彼女の瞳のなかで、言い知れぬ怯えが見えた。
こうして会うのは一年ぶりかしら……と少し冷静に考える。——少し背が伸びたような気がする。顔つきも以前より端正で大人びた? ——でも、顔色は悪く覇気がない。私の車椅子姿に動揺しているのかしら。
ミアは、昔の調子で微笑を作った。
「久しぶりね、ジナイーダ。突然の訪問、嬉しいわ」
語尾に、ごく薄い棘を忍ばせて。
言われて、はっとしたジナイーダも、いつもの仮面を取り戻すように口角を上げる。
「ええ、ですわね。——干し芋みたいに干からびていらっしゃるかと思っていましたけれど、お元気そうで何より。安心いたしましたわ」
言葉とは裏腹に、表情は暗い。膝上で重ねた右手は、行き場を失っているようだった。
暖炉の火がぱち、と弾ける。
ミアは、そんな落ち込んだジナイーダを気遣い静かに口を開いた。政略結婚で、尚且つ、高齢の婚約者が急死したことを、本当に『残念』と言っていいのかは謎ではあったが。
「今回の件、残念だったわね——」
死因は、不慮の事故だと聞いていた。
ジナイーダの視線が、するりと右手へ落ちる。
左手を重ねた紺の手袋が再びガタガタと震え出した。わたくしじゃない。——違う。死んだのは、わたくしのせいじゃない。
アールネを刺したのはジナイーダの右手だったが、それは意図するところではなかった。あの瞬間、手はひとりでに動いた。そして、手にしたナイフは氷の刃と化し胸を貫いたのだ。
それからというもの、右手は借り物のようだった。青白く血色が悪く、触れたものの感覚がない。それに、一番の恐怖は、またあの時のように手が勝手に走り出すこと。
ジナイーダは指先に力を込め、大丈夫、と、自分の心に言い聞かせる。
「ど、どうってことなくてよ。お年を召した方でしたから」
平静を貼りつけた声だった。
控えめに扉が叩かれた。スラティハール家の使用人が身を屈めて入ってくる。銀盆に載せられた茶器が、音を立てぬよう卓へそっと置かれ、湯気が立ち昇り、甘い香りと一緒にほどけた。小さく一礼して、使用人は音もなく退いた。
「遠路をよく来てくれたわ。まずは温まって——」
ミアの言葉が止まる。
ジナイーダの様子があきらかに変だ。
吹き出した汗で額を湿らせ、膝上で固く指を組んだ右手を、必死に上から左手で押さえてつけていた。それと、お茶に向いた視線は焦点が合っていない。
ミアはあくまで穏やかに声をかけた。
「……大丈夫?」
屋敷は来客を迎える準備に追われていた。バタバタと客間へ人を通し、薪を足し、茶を用意する。小走りで往来するヘッラもそのひとりだった。
そのなかで、アロスもまた落ち着きがなかった。足早に動き回り、領国の一行がここまで押しかけた理由を探っていた。
茶を運んで戻ってきた若い女中に声をかけた。
「姫様の様子は?」
「お変わりは、なさそうでしたが……」
女が手に持つ銀の盆が光を反射した。その瞬間、アロスは何かを思う。胸のどこかに小さな棘が引っかかった。それは今まで追ってきた報告の数々。黒ずくめの男。広場の火事。エリディオ国の幻獣。闇取引。——そして、政商アールネ。
ばらばらに散っていた欠片が、いま一枚の絵柄として浮かび上がってきた気がした。嫌な予感がする。
「——茶は、何を出した?」
突拍子もない問いに、女中が目を瞬く。
「え? あの……領国の特産の葉だと。『霜露茶』を、と要人の方から……」
「アルベルサの——茶葉を?」
「はい。お持ち込みでございましたので」
悪寒が冷たい水のように背を走る。
「——ヘッラを呼べ」
アロスは駆けつけたヘッラに声を落として早口に命じると、言葉を切る。
「行け、ヘッラ——外で使いの者を待たせてある」
彼女がはっと頷くのを待たずして、アロスは応接室へと急ぐ。角を抜けた先で声がした。行く手に立ちはだかる影——その顔を見た瞬間、アロスは足を止めた。
「急ぎ、どうされた? アロスよ」
行く手を阻むこの男は……紛れもなく、領国の老臣。
「そこをどけ、ヴォルフ」
老臣は、にたにたと笑みを浮かべていた。
「相変わらず感の鋭い男じゃの」
ふたりは幾度となく衝突を繰り返してきた因縁の間柄だった。
「そう声を荒げるな。こちらとて、穏便にことを進めたいのだ。少々、予定は狂ったがのう。……結果、ジナイーダ姫を手懐けることができて良かったが」
「穏便、だと?」アロスの目が細まり、一気に敵意が露わになる。「やはり貴様か、ヴォルフ。裏で手を引く馬鹿者は。——我が王国の姫に、何を仕掛けた?」
その一言で、老臣の肩がぴくりと震えた。
「従者風情が……勝手な思い込みで吠えるなよ。アロス……」
声に張りはない。見下されて悔しいのか、かすれた喉を無理に震わせているだけだ。
「そこをどけ!」
アロスが前に出るが、老臣も一歩も引かなかった。
「ま、待たれい!」
声は吐き捨てられ唾が飛び、顔には恐れの色。震える手で握った杖を前に突き出すようにして虚勢だけで道を塞ぐ。
この、気の小さい老臣の、この虚勢。その動揺に、事の大きさを察したアロスは、腰の鞘から剣を抜いた。
「どけ、ヴォルフ」
ぞくりとする刃音に、老臣は思わず後ずさりした。
「わ、わしを斬るのか? そんなことをして、ど、どうなるかわかっておるのか⁈」
目を見開き、怯えた目でアロスの剣先を見つめる。
その時、場の空気が凍りついた。
「……騒がしいぞ」
背後から聞こえた低く落ち着いた声に、アロスは反射的に振り向いた。
声の主は、領国の王子、アナトリー・マーフォリアだった。
その整った姿に、アロスはひと筋の安堵を覚えた。中立の者がいた。それに、ヴォルフとは犬猿の仲であるこの男ならば、今は味方のはず——そう思った。
だが、その錯覚は一瞬で砕かれた。
眼前に、銀の刃が閃いた。
剣が抜かれた音はなかった。間合いも、予兆すらなかった。
ただ次の瞬間、剣は空気を裂き、アロスの脇腹から深く貫いていた。
「……な、ぜ……」
唇が震え、声にならない問いが漏れる。
見上げたアナトリーの瞳は、もはや人間のものではなかった。その目に、感情はない。
そこに宿っていたのは、底の知れない静寂だけだった。
アロスの体は、足元から重力が這い寄るように崩れていく。
膝が落ち、床に倒れ込む瞬間——眼鏡が滑り落ちた。
ひときわ乾いた音を立てて床に跳ねた。




