ep.4
「この前、音楽会を開いたの。わたくしの演奏のあと、皆が口を揃えて言ったわ。『精霊が降りたようだった』って」
ジナイーダは、ふふ、と微笑んでから、「大げさよね」と言葉を並べた。
ピアノを弾くジナイーダの指先を、かつてミアは羨んだ。けれど今、その音は聞こえない。
「絵の展示会も開いたの。風景画が評議員に買われたのよ。趣味で描いたのに。……才能って、どう隠しても滲み出るものね」
ミアは黙り込む。これも私への当てつけだ。
「あなたも昔は、何か……ご趣味を。刺繍だったかしら? あら、ごんなさい。三日坊主で続かなかったと聞いてたこと忘れてたわ」
意地悪な笑み。もう、うんざりだった。
ジナイーダは、ああ、と何か思い出したように声を上げ話を続ける。
「この前、趣味の悪い白薔薇を全部、真紅に植え替えさせたわ。ミアも昔は似たような無理を言ってたでしょう?」
ミアは微かに眉を動かした。けれど心の中でだけ思った。そこまでやってない。私はただ、薔薇を新たに植え足しただけだ。
「それから、ついに蒸気機関車が走り出したの。あと駅前には大広場を整備して、劇場と迎賓館も建てたわ。天井のシャンデリア、覚えてる? ——まあ、今は見ることもないでしょうけれど」
皮肉よりも驚きの声だった。ジナイーダに、ほんとうに、どうしてあなたは沈んでいるの? と、瞳でいわれているように。
「そういえば、辺境の地、エリディオ国へ鉄道を通す話……難航しているのだとか。ミアのご構想だったわよね?」
淡々と重ねる話題のひとつひとつが、まるで冷たい雨粒のようにミアを打った。
「あとね——」
ジナイーダの言葉は止まらなかった。栄光と自慢、将来の夢、尽きることのない話に、時折ちらりとミアを見るその目に、苛立ちと諦めの影が混じり始めた。
やがて、深くため息をひとつ吐き、立ち上がる。
「行くわ。ご機嫌よう、ミア姫殿下」
足音が消えた後、部屋に戻ってきたのは、深い沈黙だけだった。
ミアはただ黙っていた。薄く震える指先だけが、生の証だった。
ジナイーダの背を見送りながら、ふと、思っていた。
——軽蔑している。なのに、どこか、似ている。
私も、ああだった。かつては。
その思いが、喉元に突き上げるような吐き気を呼んだ。
寝台の覆い布を無造作にかき払うと、ばさり、と重たい布が崩れ落ち、凍りついた両足に目をやった。ああ、これは私への罰だ。
かつての傲慢が、いま目の前に形を変えて立っているのだ。
扉が静かに閉まった後、しばらくして廊下の向こうから声がした。男の従者の低い問いかけと、それに応じるジナイーダの、澄んだ冷笑が耳を打った。
「いかがでしたか、ジナイーダ様」
「とんだ無駄足だったわ。ヴェルディナ王国も、もう終わりね」
遠ざかってゆく気配に、遠のいていく足音。そして玄関の扉の重い開閉音がして、砂利をかむ音が誰かの足もとを伝って微かに耳へ届く。やがて馬の蹄が、凍えた地面を踏みしめた。
車輪が空気を割って進んでいく。ひとつ、またひとつ、音を引きずりながら。その音が完全に消えた時、初めて息が吸えた。
ミアは目を閉じ、胸に手を当てた。鼓動は微かで頼りない。もう来ない。もう大丈夫。何度も、唇の裏で呟いた。
けれどその言葉は、まるで凍った空気のなかで砕けるだけだった。
その時、勢いよく扉が叩かれた。
「姫様、失礼します!」
アロスだった。普段は滅多に見せぬ慌てぶりで、息を切らしながら部屋へ飛び込んでくる。
ミアは目を見張った。冷静沈着のアロスが、これほどまでに。
「どうしたの?」
アロスは言葉を選ぶ余裕もなく、あえぎながら言った。
「姫様……ご存知でしょうか。魔術師のことを」
「魔術師?」
「はい。辺境に住まう魔術師です。エリディオ国の——」
魔術師。ミアはその言葉を反芻したが、とうとうアロスの頭までおかしくなってしまったのかと疑った。自分のせいで。
「……アロス。あなたまで正気を失ったの?」
そう言いかけた声は、なぜか自分でも頼りなかった。けれどアロスは真剣な眼差しのまま続けた。
「噂です。辺境の魔術師が魔法を使って民の病を癒していると。手のほどこしようがないとされた病さえ——」
「魔法だなんて……おとぎ話の中の出来事でしょ? 詐欺まがいの戯言よ」
そう口では言いながら、ミアの視線は自然と自らの足へと落ちた。白く凍てついた膝から下を見つめていた。
冷たい光を帯びた肌。ひとつも血の気を帯びていない。これが病とは、どうしても思えなかった。
これは……呪いか、あるいは、もっと名を与えようのないもの。いや、それこそ魔法のようなものでないと説明がつかない。
……そう。これはきっと。
奇跡でも、偽物でも、何でもいい。藁にもすがりたい。
断る理由など、ひとつもなかった。
「……連れてきて。どこにいるの? その魔術師を——早く」
翌日だった。辺境の魔術師がやって来たのは。
日は高く昇っていたが、今日もこの部屋には光は届かない。外界を冷たい板で隔てている。
ヘッラは、静かにミアの身支度を整えていた。櫛を通す手は穏やかで、そっと支えるような動きだった。どこか遠くで小さな鳥が歌っている。
ミアの耳の奥にも、外の音は遠慮なく届いていた。木の葉がそよぎ、庭を渡る風の気配。近くを流れる小川の、頼りない水音が、時折この静けさに彩りを添えた。
「……今日はとても清々しい天気です。お見えになる方も、素敵な方だとよろしいですね」
返事はなかったが、ヘッラは気にしたふうもなく、ミアの髪を指でほぐすように梳いていく。
ミアはベッドの上で足を投げ出し、ただまっすぐ前を見ていた。足には、薄手の毛布がかかっている。
意識はどこか遠くの方へと向いていた。
本当に来るのだろうか。見知らぬ国に、見知らぬ人。エリディオ国。ララポルトの、もっと南……森と海に囲まれた場所。期待と不安が入り混じる。
「ヘッラ……行ったことは?」
小さく漏れ出した声。聞いた自分に少し驚いていた。どうしても拭えない焦燥感。それでも、どこかで何か芽吹くものを感じていた。
「エリディオ国ですよね? ……いいえ、私は。でも、母が話してくれたことがあります」
ヘッラは「お恥ずかしい話ですが」と言って袖口を指で触った。
「なんでも母は、エリディオ国の人に淡い想いを抱いたみたいなのです……その頃はララポルトとの交流も盛んだったそうで」
ミアは黙って耳を傾けていた。
「すごく静かな人だったけど、言葉には不思議な力があったと今でも照れながら話してきます。黒色の髪と瞳の妖艶さは街中の乙女を魅了していたのだとか」
そこからは、嬉しそうな口ぶりだった。
「母はその人の話す故郷の景色が忘れられないみたいです」
ミアの胸の内に、どこか懐かしい絵本の挿絵のような光景が浮かんだ。かつて、夜毎に母が語ってくれたことを思い出す。
「エリディオ国は広大な森に囲まれ、川、湖、美しい緑と、カラフルな花々、そして輝く海も見える——」
ミアの声が言葉を少し遮った。
「自然と共に生活をしているのよね」
「あ、失礼しましたっ。そのくらい姫様もご存じでしたよね?」
自然と調和するように建てられた家々、苔むす石壁や水のせせらぎに寄り添う小道。森には色とりどりの小鳥が群れ飛び、枝を離れたその羽ばたきの後に、薄く虹が差すことがあるのだと聞いた。
白いライオンが森を駆け、翼をもつ馬が空を渡ってくる光景も、あの国では語り草だという。
「……ほんとうなのかしら」
「どうでしょう? ぜひ一度は、目にしてみたいものです」
ミアはふと、幼い頃の記憶をたぐった。王都の市場で目にした、白く螺旋を描く一本の角。高価な品として並び見たのはそれきりだったが、その光は今も脳裏に焼きついている。
幻だったのではと思うほど静かで澄んだ輝きだった。その名は、たしか——ユニコーンだ。
「……私も。見てみたい」
ぽつりと落ちた言葉に、ヘッラが微笑んだ気配がした。
そんな夢うつつに浸っていた時だった。それはまるで、童話の物語の余韻が、まだ空気のなかに残っているかのよう——空気がすっと変わった。
誰かがそっと石を投げ、水面に波紋が広がる、そんは透明な振動が肌をなぞった。
「姫様、よろしいでしょうか」
アロスの声と共に、扉が開くと、青年がいた。
その佇まいは、童話の一頁から抜け出した幻影だ。背をまっすぐに伸ばし、静かな足音で部屋に入ってくる。
平民の服を纏ってはいるものの、それが彼の輪郭を濁らせることはなかった。ぬばたまのような黒い髪を後ろでひとつに束ね、肩で揺らしながら影を引き連れて歩いてくる。
森の深奥にひっそりと眠っていたものが、月の光に導かれて姿を現したのだ。
ミアは一瞬、呼吸を忘れた。
それほどに、この青年の持つ気配はこの世のものと思えなかった。人の世に馴染まない。けれど、それを拒む理由も見つからなかった。
ミアはただ見つめていた。
ずっと前から彼の登場を知っていたかのように。
「お初にお目にかかります。アワ、と申します」
ミアは反射的に目を向けた。
一瞬にして、その瞳に囚われた。底知れぬ闇をたたえるようでいて黒く澄みきっている。
純粋——そう、まるで水の底に光が沈んでいるようだった。
何故か、身体が動かなかった。声も、出ない。
これは、始まりなのだと直感する。
良いものか悪いものか、それすら判然としない。
ただ、何かが変わる。もう戻れないのだ。
アロスとヘッラの大きな声で、ミアははっとする。
「アワ様、何をなさるのですか!」
「やめてください!」
声はほとんど同時だった。
けれどミアの耳には、どこか遠くの出来事のようにしか響かなかった。
彼の右手が、静かに宙へと伸び、その指先から、ほとばしる。青白く、静かな光。そこに見え隠れするのは、仄かな怒り? いや殺気だろうか。
ふいに広がった魔法陣が、柔らかく、脈打つ輪が幾重にも重なりながら、空気のなかに浮かび上がっていく。
——美しい。
ああ、なんて神秘的なのだろう。
それと、どこか懐かしい。
ミアの心は呟く。
もし——このまま命を奪われるのだとしても、それはそれで、構わない。
そんな思いすらした。