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魔女と足なし姫  作者: Y.Itoda
第七章 雪崩
38/63

ep.37

 彼女の声が、凍てついた空気にヒビを立てる。

 虚しく響いた。くたびれた馬の吐く息と、馬蹄の音だけが。

 ジナイーダが駆け寄ると、アナトリーは無言のまま、馬を降りこともなく声を荒げる。


「——近づくな!」


 唇を震わせながら言い放たれた声。顔は、憤怒と恐怖に怯えたような形相だった。それはとても、聞き慣れた兄の声ではなかった。

 初めて兄を、恐ろしい、とすら感じた。

 ジナイーダは、ぽかんと目を見開いていた。

 馬の一団は一切立ち止まることなく、横を通り過ぎて行く。その時に流れた風が鼻先をかすめ、冷たさに思わず瞬きをする。

 誰も彼女に言葉をかける者はいなかった。長靴が雪を踏んだまま、硬直して微動だにしない。

 強く風が吹いて裾を(あお)った。


「え……なに?」


 戸惑いの声だけが、雪のなかに降り積もる。



 翌朝のジナイーダの機嫌は、昨日よりも悪かった。

 使用人が出す朝のスープは「ぬるい!」と突き返し、侍女には無理難題な刺繍(ししゅう)の仕立て直しを命じ、さらには手鏡の置き場所が違うと、棚の小物を払い落とし、暴言を吐いては、誰彼かまわず当たり散らす。その様子に、侍女たちは互いに目を見交わすばかりだった。

 理由ははっきりしていた。

 夜、夢を見たのだ。胸の底に残るモヤモヤした不快感。それはとても後味の悪い、幼い記憶の夢。

 まだジナイーダが小さかった頃——

 母と兄と三人で、寝室のベッドに並んでいた。厚手の毛布に包まれながら、母が読んでくれたのは、おとぎ話の本だった。

 ふたりの淡い黄色の髪色は母譲りだ。母の声は優しい。けれど、ジナイーダはずっと気づいていた。母の視線は本の活字をなぞりながらも、その心の奥で、別の何かを見ているようだった。自分たちのために語ってはいる。でも、心はここにはいない。そんな気がしてならなかった。

 語られるのは、銀の髪と氷の瞳を持つ魔女の話。その魔女は、人間の青年と恋に落ちた。けれど魔女の力を恐れた人々は、彼女を世界から追い出そうとする。最終的に、青年は人間側に付き魔女を裏切る。

 なぜなのだろう。

 幼いジナイーダには、青年が裏切った理由が、ただただ不思議で、理不尽で、胸が痛んだ。きっと、どうにもならない事情があったのだ。そう思いたかった。

 物語は情け容赦ない。最後は、そんな身勝手な世界もろとも、魔女は怒りに呑まれ、世界を凍てつかせる。

 そして、本を閉じた母が漏らした言葉は、物語以上に忘れがたいものだった。


「……マーフォリア家の者は、氷の魔女のようにしたたかに生きなさい」


 怖かったのは魔女の怒りではなく、母の声だった。

 あの目。冷ややかな瞳には悲しみを映していた。あれがきっと、氷の魔女の目。

 ジナイーダは、夢を振り返りながら扉の前で足を止めた。両脇には近衛がふたり立っている。


「お兄様に、話がありますの。開けてちょうだい」


 ひとりの衛士が躊躇(ためら)いがちに口を開く。


「申し訳ありません。アナトリー様は、今は誰も通すな、との仰せです。……例外なく、とのご命令で」

「——何を言っているの?」と、思わず声が大きくなる。

「あなたたちの耳は節穴(ふしあな)でして? わたくしが、開けなさい、と言っているのよ?」


 衛士たちは頑として動かない。静寂漂う廊下に、ジナイーダのヒールの音だけが強く響いた。

 苛立ちを抑えきれず、ずかずかと廊下を歩く。お兄様が、わたくしを拒むなんて。

 そんなこと、今までなかった。お兄様は……いつも、どんなときも、わたくしの味方のはずだ。

 歩きながら、夢の続きを思い出していた。

 母に言われたあの言葉に、恐怖で涙を(こら)えたあの時——隣に座っていた兄が、そっと背中に手を回してくれた。あの優しい手の温もりは今でも忘れない。

 ジナイーダの足は自然と止まった。吸い込まれるように視線を向けた窓の外では、雪がまた舞っていた。雪は音もなく静かに降り積もっている。

 あの頃も、こんなふうに冬が始まったのだった。

 やがて、母は——

 ヴェルディナ王家の血を引くという名目で、遠くの地へと移された。そしてそれから、一度も戻ることはなかった。

 その後、残された兄と妹は背を寄せ合い、肩を並べて、ここまで歩いてきたのだ。

 厳しい風の日も、凍えるような夜も。

 ふたりでいる限り、何も怖くはなかった。

 なのに。

 どうして——?

 空は薄く白んでいた。遠くの塔がかすんで見えた。



---



 また返事が届いた。

 いつものように(かしこ)まらず、彼女らしい素朴な文面からは、紙の向こうの暮らしぶりや声色が、文章の端々から目に浮かぶようだった。

 今回は、ひとつの知らせも添えられていた。エリディオ国との鉄道の話が具体的に動き出したとある。それと、王子がやけに堅物で、わざわざ挨拶に顔を見せたが、その所作が教本のようで笑ってしまった、と書かれている。


『あまりに真面目な顔をされると、こちらまで間違ったことをしている気がしてしまいます』


 と(つづ)られた一節には、彼女の悪戯っぽい性格が溢れていた。

 最後に一言、『また林檎のパイを焼きます。できれば、帰ってきたときに一緒に味見してください』と記されていた。

 目を伏せたアワは手紙を机に置いた。


「そろそろ帰った方がいいんじゃねぇの?」


 窓際の椅子に座っていたテテポの言葉は鋭い。

 外では雪が舞っていた。今日もまた、辺りは一面の雪景色だ。きっと、もう秋はやってこないのだろう。遠くの白く染まる鉱山には煙がかかり、ゆっくりと走っていくトロッコが見える。


「そうだな」


 アワもテテポ同様の不安を感じていた。

 治療はもうとっくに終わっていた。炭鉱事故で負傷した数人の応急処置も済み、帰還の準備はとっくに整っていたはずだった。それでも、なぜかバトラー伯爵家を出るきっかけが見つからない。

 毎日のように豪勢な食事と菓子が並び、伯爵の妻や娘が次々と「ここが痛いの」「熱が引かないの」と診察を求めてきた。挙げ句の果てには、懐いた幼い娘に頼まれ、誕生日会で一緒に歌を歌う羽目にまでなった。


「なあ、アワ。大丈夫か? この状況」

「わかってる」


 これはあからさまな時間稼ぎだ。断ることが苦手なアワにつけ込んだ……扉が叩かれ、名前を呼ばれたアワは返事をした。

 現れたのはバトラー伯爵だった。

 男は痩身の体に上質な絹の服を着こなす。終始ちらつかせるにこやかな口元が、詐欺師に見えてきた。


「いやいや、アワ様。お加減はいかがでしょうか? まだまだ、この地には癒しの空気がございますので、ぜひごゆるりと」


 その話振りは、常に丁寧すぎるほどの品を装い、何もかもが順調であるかのように聞こえる。


「ありがたいお申し出ですが、そろそろララポルトに戻りたいです。鉄道の運行再開は、いつ頃になりますか?」


 バトラー伯爵の目が一瞬、揺れた。


「申し訳ありません。……なにぶん事故の影響がございまして。まだ調整に時間を要している次第でございます」


 曖昧な物言い。裏には、明らかに何かを隠している。この件についての伯爵の態度は、ずっとこの一点張りだった。

 それとわかったことがあった。鉄鉱山はアルベルサ領国と深い関係があることを。そして背後に付くは男は、政商のアールネ。


「そうですか……」と、声をこぼしたアワは窓の外に視線を移した。


 そこへ、ひとりの従者がやって来て、伯爵に耳打ちをした。


「——な、なんと」


 バトラー伯爵の顔が強張った。平静を装うためか白い髪の毛を無造作にかき上げた。


「ジナイーダ姫様が、ついに……」


 口にした瞬間、アワと目が合って、しまった、と言わんばかりに、いつもの作り笑いが戻っていた。不自然なほど、わざとらしい笑みで。

 ここノルヴァンゲルはヴェルディナ王国の地。なのに領国の姫の話題が語られる始末。

 奇妙でしかない。



---



 その時、王宮内の中庭にいたジナイーダは、大きくため息を吐き捨て、普段なら癒しのはずの噴水の水音にすら苛立ちを覚えていた。

 その噴水の向こう、湿り気を帯びた気配を引きずりながら近づいてくる老臣が視界に入った。ジナイーダは本能的な嫌悪から視線を逸らすが、ヴォルフはわざとらしく晴れやかな声で「これはこれは、ジナイーダ様」と呼びかけてきた。

 いつもなら腰を折り、恭しく頭を垂れるはずの男が、この時ばかりは背筋をぴんと張り、誇示するような笑みさえ浮かべている。にたにたと、その嫌味ったらしい顔に、今すぐ唾を吐きかけてやりたい衝動がこみ上げた。

 そして次の瞬間、ヴォルフの言葉を耳にしたジナイーダは絶叫する。


「——な、なんですって!!」

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