ep.36
ミアは急いで封を開け、想定よりも早く戻れそうだという一文を見つけた途端、待ちわびたようにすぐさまペンを取って返事を書いた。
だったのだが、書き終えたものを読み返すうちに、顔が熱くなってきた。
勢いに任せて書いた文章。楽しさばかりが先走っていて文面は子供みたいだ。慌ててふたつ折りにした手紙を引き出しへとしまい込んだ。
それを、朝の部屋支度に訪れていたヘッラは見逃さなかった。
「……あーっ、姫様? 今、何を隠されたのですかー?」
その声は悪戯っ子のようで、口元には明らかな笑みを浮かべる。咄嗟に視線を逸らしたミアは、机の上に肘を置いて澄ましたふりをする。
「べ、別に。なにも隠してないわ。ちょっと書き損じただけよ」
「ふうん、書き損じですかあ……なるほどなるほど。あまりに大切な返事だから、ですかね?」
ヘッラはにっこりと笑うと、ミアの後ろに立ち、髪の毛を櫛で揃えながら続けた。
「きっとアワ様も、姫様と同じ気持ちでいらっしゃいますよ」
ヘッラの優しさに、ミアは何も言わずに、けれど耳の先が赤くなるのを自覚しながら、再びペンを手に取った。
ひとまず一息。小さく息を吐いてから、気を取り直して、もう一度——
今度は落ち着いた筆運びで、思いが文となって繋がった。
最後に一言、こんな一節を書いて締めた。
『車椅子を新調しました。アロスはそれを、もはや神器だ、と言っています』
その手紙の返事もすぐに届いた。内容はこう記されていた。
『神器に認定された車椅子には、ぜひ称号を授けてあげてください』
彼らしい密やかな冗談だった。自分でも気づかぬうちに口元が緩んでしまう。
そして、またすぐに返事を書こうとペンを手に取ったその時、ふと窓の外を見やった。雲の切れ間からこぼれる光のなかに、また雪が舞っていた。
季節を違えた雪。
何となく、ただの寒気ではないような気がした。何か、不吉な予兆……。凍った足の感覚が、それを告げているようだった。
不意にアワと初めて会った日のことを思い出す。
彼はどうして、あんなにも魔女の呪いについて詳しいのだろうか。
あの日、凍った足を目にした時も、さほど驚くこともなく対処してくれた。それは、あたかも初めてではないかのように映った。
あの日、一瞬覗かせた鋭い視線。怒りにも似た殺気のこもった眼差しだった。
あの時、彼は私の瞳に何を見ていたのだろうか。
そんなことを考えていると、凍りついた足が軋んで、何かあまりよくない知らせが届くような不安に襲われた。
扉が叩かれて、はっとした。
「姫様、よろしいですか」
アロスの声だ。期待してしまった。声の主が、アワだったらよかったのにと。
扉が開くと、アロスは手にした封書を掲げた。
「アルベルサより、使者が直接お越しになりました。文書でございます」
「誰から?」
問いに、アロスはわずかに声を落とした。
「ジナイーダ様でございます」
ミアの口から溜息がこぼれた。
「誰宛て?」
「アワ様です」
聞いた瞬間、ただわかりやすいほどの表情だけでミアは呆れ返ってみせた。
「中身は?」
「前回と似通った文面でした。ごく丁寧な体裁で綴られてはいますが」
「内容は同じ?」
「……はい。恋文かと」
「捨ててちょうだい」
即座に言い切った言葉は歯切れが良く、あっさりとした、それは実に気持ちが良いものだった。
「かしこまりました。そのように」
アロスは封書を袖に戻してから一礼した。
これで三度目である。領国の姫からアワへ宛てた私信は。
中身を確認するのはアロスが警戒を強めている証でもあった。何かの陰謀の可能性もある。領国から寄せられた噂の数々——数日前に訪れた使者にも、アワの所在は伏せていた。教えれば何かが起こる、アロスの直感がそう告げていた。
むろん、破棄を命ずるのは、ミアの独断と偏見によるものでしかなかったが。
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その日、彼女とはいうと——発狂していた。
自身の部屋の床一面に、たくさんの宝飾品が散乱していた。宝石箱の中身を派手にぶちまけたのだ。
磨き抜かれた大理石の上で煌めくルビーの指輪は、どこか冷たい。だがそんなものですら、今のジナイーダにとっては物足りない。
全身を駆け巡る、燃えるような苛立ち。しかしその瞳だけは氷のように冷えていた。
砕けた香水瓶の香りが甘く漂うなか、感情を押し殺して肩を上下に震わせる。
「——何を、ぼーっと見てるの⁈ 早く片付けなさい! 見せ物ではなくてよっ!」
怒鳴られた侍女がひるみながら膝をつくと、すかさずジナイーダは呼び鈴を乱暴に鳴らした。
「——従者を呼んでちょうだい! 今すぐよ!」
苛立ちの矛先は、ただひとつ。アワから返事がない。それが何よりも腹立たしかった。おかしいわ。アワ様の性格からして、返事もしないなんてあるはずない。
背後の壁に体を預け腕を組んだ。忌々しげに唇を噛んでいる自分に気がついて驚いた。
このわたくしが、焦り? 考えれば考えるほどに胸の奥が騒がしい。
「……あの雌ギツネの仕業に決まってるわ」
思い浮かんだのは、あの薄ら笑いを浮かべるミアの顔だった。
ドン、と扉を押し開け、ジナイーダは部屋を飛び出した。
「お兄様はまだですの? 領都を出てから、ずいぶんと日にちが経ってる気がするけど」
駆けつけた従者は一度、立ち止まり、たじろぎながら頭を下げた。すぐにジナイーダと足並みをそろえる。
「そろそろ戻られるかと思われますが、正確にはお答えできません。何でも——北方の視察隊からの連絡が途絶えたとの情報を耳にしました」
「そう、じゃあ……何かわかったらすぐに知らせなさい。お兄様には話があるの」
長く伸びたジナイーダのまつ毛が伏せられる。その内なる心には、決して諦める気配などは見えない。
——こうなったら。お兄様の手を借りるまでですわ。
まだ完全に夜ではないが、夜はすぐそこまで来ていた。
ジナイーダはひとり、門へと急ぐ。
アナトリーの隊が戻ってきたという報せに、胸が高鳴っていた。
空は沈んでいた。王宮の門前には冷たい風が吹き込み、ちらつく雪が薄く積もり始めていた。
白い吐息を弾ませながら石畳を駆け抜けた。
やっと——帰ってきた。
まだらに雪の積もる地面に、軽やかなジナイーダの足跡が付いていく。立ち止まると、寒さで自然と背を丸める。胸元を押さえて息を整えた。冷たい風がコートの内側へと忍び込み、前を思わず閉じた。
「やっと……お兄様が。これで、アワ様を——」
門は、重たい音を響かせながらゆっくりと開いた。
吹き込む風の向こうから、馬が雪を踏みしめる音が聞こえてくる。
先頭には、アナトリーの姿が。馬上の彼は変わらず真っ直ぐだったが、その顔にはいつもの余裕も、冗談めいた笑みもなかった。
他の者たちも皆、無言だった。人数も少ない。たったの三騎だけ。それはまるで亡霊のよう。
それと、奇妙なことに全員がこの寒空の下、上着一つ羽織ってすらいなかった。誰ひとり、寒さを防ぐものを纏っていない。
雪に濡れた肩が、黙して語らぬものを背負う。
だが、ジナイーダは気にも留めない。気持ちが先走っていた。袖を握りしめながら朗らかな声を張る。
「お兄様! お帰りなさいませ。——大変お待ちしておりましたわ!」




