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魔女と足なし姫  作者: Y.Itoda
第六章 本当に大切なもの
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ep.34

「ね、ね! すごいでしょ! パルのおかげだよ!」


 我が子の成長をまじまじとギースは見た。


「ああ……ありがとな。父さん、久しぶりに食べたよ」


 そう言ってから最後の一口を食べ終えると、ゆっくりと思い腰を上げた。

 足下の空になった酒瓶が視界に入って、思わずふっと笑いがこぼれた。


「……俺は、何をやってたんだろうな」


 そう呟いて、ひとつ前へ歩を進めた。俺は何か、大切なことを履き違えていたのかもしれないな。


「よし、もう一個買いに行くか!」


 ひとつ声を上げると、娘の顔が輝く。


「えっ、ほんとに⁈ じゃあ、今度はお母さんとペトの分も買ってあげようよ!」


 彼女が学校に行かない本当の理由。


 ——学校に行かなければ、お金がかからない。

 ——そしたら、お父さんが遠くまで働きに出なくても済む。

 ——そしたら、ずっと家族で一緒にいられる。


 その小さな胸にあったのは、幼いなりの思いやりだった。

 ギースは吹き出すようにして笑う。


「おい、パル。じーちゃんの分も忘れてるぞ?」


 笑ったのはパルも同じだった。


「忘れてた!」


 西の空にゆっくりと伸びていくふたりの影に、林檎の影がそっと覗かせていた。



 スラティハールの屋敷に戻ったミアは庭にいた。

 虫の音が樹々の間を渡り、風と共に夏の名残が駆け巡る。


「お待たせしました、姫様」


 車椅子に座るミアの隣に来ると、アロスの視線が自然と落ちた。いつもは布の影に潜んでいるはずの凍った足が、今夜はスカートの裾から無防備に(さら)されていた。

 ミアは目の前に視線を()えたまま、髪をなびく風を感じている。


「いかがですか? お身体の具合は……」

「大丈夫よ。症状は悪化してないわ」

「そうですか」と言ってアロスは視線を戻した。

「それは、何よりです。ただ……くれぐれもご無理はなさらぬように」


 ミアは自分の足に触れた。


「不思議ね」と言って頬を緩ませる。


 生き(ながら)えた。あれだけ死にたいと思っていたのに。

 思わず小さく息が漏れた。

 私はまだ……彼と離れた、あの春の終わりのまま、またひとつ季節を巡ろうとしてる。


「アワのおかげね」


 アロスは、声を立てずに頷いた。


「本当に……不思議な若者ですな」


 噛みしめるように敬意を(にじ)ませる。


「なぜ彼だけが、あのような魔法を使えるのでしょうか」

「不思議ね」


 ふっとアロスは笑った。


「長生きはしてみるものですな」

「あら、アロスにはまだまだ長生きしてもらうつもりよ?」


 ミアはふとアロスを見やり、懐からそっと小さな包みを取り出した。それは淡い色の紙に丁寧に包まれ、どこか贈る側の気持ちまで透けて見えるようだった。


「……これ、あなたに」


 差し出された包みを受け取りながら、アロスの眉が微かに揺れる。


「このようなものを、私のような者に……」


 柔らかい声で、ミアは包みを開けるように促した。言葉には少しだけ照れ臭さも混じる。

 アロスが慎重に包みを解くと、新しい眼鏡が姿を見せた。それは、かつてミアが壊してしまったあの眼鏡にどこか似ていて——けれど形は少しだけ違う。縁取りは細く、光を受けて優しい丸みを帯びていた。

 手にしたとたん、それがただの贈り物ではないとわかる。ミアの時間と想い、そして言葉にならない感謝が、そこに宿っていた。


「今日は、ララポルトでは特別な日なんでしょう?」

「そのようなことを、姫様が……」

「いつもありがとう。それと、ずっと謝りたかったの。昔、あなたの大切な眼鏡を壊してしまったこと。ごめんなさい」


 アロスはしばらく黙ったまま、かけていた眼鏡を外し、目元に指を当てた。


「……困ったものですなあ」


 声はわずかに震えていた。


「年を取ると、涙腺まで言うことをきかなくなる」

「大袈裟ね」


 と、ミアは微笑み、アロスはそっと新しい眼鏡を見つめ、深く息をついた。


「死ぬまで使わせていただきます」

「だから、大袈裟だってば」


 ふたりは、夜の虫の音に紛れるように、静かに笑った。

 沈黙の後、ミアの言葉が夜気に吸い込まれた。


「お母様も……この景色を眺めていたのかしら?」


 昔日(せきじつ)(いつく)しむようにアロスは遠くの方を眺めた。


「はい。ローラ様は、自然に親しみ深い方でした」

「ずっと気になってたの」ミアの視線がアロスに向く。「……私は、お母様に、愛されていたの?」


 それは夜空に見える消えかけた星の尾のように、小さな少女の問いだった。


「——もちろんでございます」


 アロスは真っ直ぐにミアを見た。言葉は力強い。


「私はこの目で見届けて参りました。姫様がお生まれになってから、ローラ様がその生を終えられるその日まで。どれほど深く、姫様を慈しんでおられたか——痛いほどに、伝わっておりました」

「……教えて。お母様のこと」


 それは永らく疑問に思っていたこと。寂寞(せきばく)の想いは、風の止んだ夜に灯をともす。


「はい……よろこんで」


 一度伏せたアロスの目には、敬意と誇り、それと哀惜(あいせき)が滲んでいた。


「私が側近を仰せつかったのは、ローラ様が十二の年です。——姫様そっくりと申せば、伝わりやすいかと」


 浮かんだ笑みは、まるで記憶のなかの春風が、頬を撫でていくかのようだった。

 アロスは静かに語り始める。

 当時のローラは、好奇心に満ちた娘だった。よく言えばおてんば、悪く言えば、誰にも手を焼かせる存在だった。

 ただその一方で、幼い頃から聡明な才を示し、成長するにつれて自らの爵位に恥じぬ品格と見識を備えた貴族として、周囲から一目置かれるようになっていった。なかでもエリディオ国との平定交渉では、まだ若き身でありながら前線に立ち、言葉による歩み寄りを何よりも尊んだ。『争いを避けるために、対話があるのです』と語るその姿に、多くの者が心を動かされた。

 その理念は、やがて現陛下の信条とも重なり合い——ふたりは結ばれた。そしてミアが生まれた。

 夜半の月は煌々(こうこう)と王冠のごとく、木々を金色に照らしていた。虫の音が途絶えると辺りは一瞬にして静まり返った。


「やはり幼くて記憶にございませんか? 姫様。かつてこの屋敷で過ごされた頃のことを」


 浮かぶのは断片的な記憶だけだ。それも王都で過ごしたものばかり。


「そうね。私の記憶には厳しかったお母様ばかりね」


 優しい母など本当にいたのだろうか。それは十二歳の頃に母が亡くなってから、心のどこかでずっと答えの出ない問いでもある。


「病で自らの最期を悟ってからのローラ様は、確かに、姫様への接し方が厳しくなられました。しかしそれは、時間がないと知ったからこそ、愛し子に何かひとつでも、多くを遺そうとされたのです。優しく抱くことよりも、傷つけてでも残さねばならないものがある。母として、ただそれだけを選ばれたのです」


 その声には、長い歳月を見届けてきた者だけが持つ、(ゆる)しと証の気配があった。


「誰よりもローラ様は姫様の未来を信じておられました。我が子が、ひとりでも歩いてゆけるように、と。……最後の、その一瞬まで」


 風が木々の枝葉を揺らした。葉が騒めき、風に吹かれてミアの頭上に落ちてきた。

 その葉っぱを手にした時だった。薄っすらと思い浮かんでくるものがあった。

 それは昔のこと。

 まだ背の低かったミアの頭に、ひらりと落ちた葉を、母が取ってくれたことがある。その時も、木々は今と同じようにさわさわと揺れていた。

 取ってもなお、頭上に落ちてくる木の葉を目にしてローラは笑っていた。


『あなたは木にも愛されているのね』


 声は葉擦れの音よりも優しくて、今でも耳の奥に残っている。


『お母様には、木の声がわかるの?』


 ミアが訊くと、もちろんよ、とローラは頷いた。


『私にも、聞けるようになる?』


 ローラは穏やかな笑みを浮かべている。


『もちろん。優しく話しかけてみるのよ』


 それはほんの短い会話だったが、ミアにとっては確かな魔法だった。

 触れた葉よりもそっと、母は我が子の手を包んでいた。

 アロスが微笑を添える。


「姫様が生まれ、ララポルトで過ごされた六年間は、間違いなく……ローラ様にとっての祝福でした」


 母は愛してくれていた。

 何でだろ。今になって、お母様の辛かった時期が、見て取れるように映像が浮かぶ。

 我が子を残して去っていく母の想い。

 気づけば、ミアの頬をひと粒の涙が濡らしていた。その雫は、小宵(こよい)の星明かりを映してきらりと光った。

 ふと、以前アワが話していた言葉を思い出す。


『——どうして、人は星に想いを()せるのか』


 答えを探すように空を見ると、どの星よりも凛と輝く一番星を見つけた。

 アワ。きっと、それは——


『皆んなそれぞれの、想いが込められているからではないかしら』


 過去も今も未来も全部ひっくるめて。

 アワ。あなたが言ったように、誰にとっても、あの光はただの星じゃないのだ。

 ミアは、瞬くその星に想いを託す。


「……まだまだ、死ねないわね」


 隣のアロスも見上げて同じ星を追った。


「当然でございます、姫様」


 ふたりの視界に、ひとつ、またひとつと葉っぱが舞い落ちてくる。それは母がかつてくれた教えのように、今、ふわりと胸の奥で一枚一枚、積み重なっていく。

 いつか聞いた木々の声。あの時、包まれた温もり。そして今、沸々と、新たな意思が芽吹いた気がした。

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