ep.32
アワの押す車椅子が動きを緩めたのと同時に、ミアの目にその姿が映った。
——クリナだった。
肩で息をし、頬を紅潮させながら広場の方から走ってきたらしい。目の下には薄く影が落ち、その表情には、抑えようのない切迫が見て取れた。
「どうしたの?」ミアが問うより早く、クリナは首を横に振った。
その仕草は言葉よりも重い。
「パルがどこにも見当たらないんです!」
ひょっとして、さっきの、あの言い争いを聞いていたのでは——考えていたら生温い風が頬を撫でた。
嫌な予感。ミアは遠くの空を見た。
「急ぎましょう。手分けして探しましょう」
夕立がきそうだ。
雨が降ってきた。突然だった。ぽつりと頭の先に触れたかと思えば、すぐにざあっと濡れた。空は分厚い雲に覆われ、遠くで雷鳴がゴロゴロと地響のように聴こえる。
なだらかな丘の先にある樹木に囲まれた森にある、ひとつの影。
「おーい、生きてっかー?」
テテポは下に向かって呼びかけた。もちろん生きていることはわかっていて、わざと訊いている。
返事はない。
斜面の下では少女が息をひそめていた。雨で泥濘んだ足元を滑らせて落ちたのだろう。
すすり泣くような声だけが耳に届いた。
「へっ、大丈夫そうだな」
それほど急ではない傾斜を難なく下りていくと、びしょ濡れで泥だらけの小さな背中がうずくまっていた。
「あーあ。派手にやっちまったみたいだな〜」
ぬれそぼった服のまま、パルは足を押さえていた。挫いて歩けなかった。地面に打ちつけた箇所からは、血が滲んでいて、顔も泥だらけだった。
こわばった様子の少女に、テテポは優しく声をかけた。
「ちょっと待ってろよ」
そして指先を軽やかに弾いた瞬間、空気が静まった。汚れた感情を洗い流すように、ふわりと水の魔法が浮かび上がった。
パルはまじまじと見つめていた。水の粒が集まるひとつひとつを。
どこからともなく現れた雫は、愉快に身体を弾せながら光を帯びて渦を描く。絵本のなかの音楽隊みたいだ。今にも、このまま音を奏でそうな勢いだった。気づけば、雨に沈んだ灰色の景色が、乳白の光を帯びていた。
すごい。
これがテテポの魔法。
痛みが少しずつ引いていくのがわかる。水に包み込まれた足が、じんわりと温かい。それは湯のような熱ではなく、もっと優しい温もりだ。
テテポは鼻の頭をぐいっと擦り、にやりと笑って見てきた。
「おれ、けっこうすげーだろ?」
丘の上に戻る頃には、さっきまでの雨は嘘みたいに止んでいた。
「おう、どうした? 今日はずいぶんと落ち込んでるじゃねーか?」
今日初めて会ったみたいな訊き方だった。テテポはいつもと変わらぬ調子で、白い歯を見せてにっと笑った。
パルはというと、何も言わず隣に腰を下ろし膝を抱えていた。
目の前では、雨上がりの生い茂った草木が揺れていた。
「……災難だったな」
テテポは空を仰いだ。
パルの気持ちは、無理に探らずとも伝わってきていた。頭のなかのものも、ぼんやりと情景が浮かんだ。……夫婦喧嘩。
テテポがため息をつくと、「別にそんなんじゃないよ」とパルは頭を振ってから話した。
「自分がいなかったらうまくいくのかなって、ちょっとだけ、思っただけだよ」
声はただの独り言のように、風のなかにさらわれた。
「ま、そんなに気にすんなって。大人は大人で、それぞれ皆んな悩みがあるんだからよ。勝手にやらせとけばいいんだよ」
「で、でも」
「親なんて皆んな、子供のためにとか言って、自分のために心配してんだからよ。何でもかんでも言う通りにさせたがる生き物だろ?」
「まあ、たしかに……」と、パルは考えた。
思い返してみれば、『こうしたほうがいいよね』『あなたのために一生懸命やってるのに』『お母さんが一番パルのことをわかっている』とお母さんは言って、どんどん先回りしていつも勝手に決めてしまう。
「テテポも悩みあるの?」
少しだけテテポは困った表情をする。
「当たり前だ」
と、言うとパルが顔を上げる。その瞳からは驚きと安堵が見えた。
その理由は、以前テテポが冗談めかして言ったひと言だった。
『千年以上は生きてるかもな』
それ以来パルのなかで、テテポは途方もない仙人のような存在となっていた。だからこそ新鮮だった。悩む、と言った言葉が心を軽くしたのだ。
「すごい年寄りも悩むんだね」
「誰が年寄りだ、バカ」
テテポはぴんと耳を立てて、むっとした顔でパルを睨んで笑った。尻尾もわずかに跳ねた。
「やっぱり、わたしが学校に行けばいいのかな?」
パルが通学をためらっているのには、人の多さが苦手という理由のほかに、もう一つ——別の理由があった。
「どうだかな」
と言いながらテテポはそれを汲み取って、パルが学校に行かない本当の理由について考えていた。
「自分の思ったことをやればいいんじゃないか?」
草の上に視線を落としたままパルは呟いた。
「だけど……」
「考えすぎなんじゃねーか?」
しばらく黙っていたテテポは、ため息交じりに訊いた。
「なあ、パル。何かやりたいこととかないのか?」
パルの頬にこびりついた泥を、側の水溜まりが夕暮れ色に染めながら映し返していた。
「うん……アワのお兄ちゃんみたいに、誰かのためになることがしたい」
それは、まだ言葉にするには不器用で、けれど確かな想いだった。
テテポは「へえ」とだけ言って、片方の耳を気まぐれに折り曲げた。
「だったら、もっと人間を知らないとなっ」
にかっと笑うテテポにパルは、うん、と頷いた。
「——さて、帰るか」
声をかけるも、パルは渋い顔をしていた。
お母さんとお父さんに、きっと怒られる。そんな不安が見て取れた。
テテポは、へへっと笑って、ぽんと軽くパルの肩を叩いた。
「大丈夫。仙人がついてってやるからさ」
ほんの一瞬目を丸くして、それからパルは苦笑いをこぼすのだった。
「皆んな、パルはいた?」
ミアの声が、雨に濡れた広場に響いた。
首を振るだけで、答える者は誰もいなかった。気づけば皆の足は、広場へ自然と向かっていた。それぞれ、雨に降られてずぶ濡れだ。
そこへどこからともなく、少女はひょいと現れた。
「——パル!」
皆の声と視線が一斉に集中した。
全身泥まみれで、スカートは所々破れてはいるものの、表情はいつもの少女だった。
アワはパルの頭の上にあるものを目にして、大きく息を吐いた。たく、何をやってんだと呆れる。でも、テテポがいることによる安堵感もあった。
頭上に乗る聖獣は、水色の毛並みを少し逆立てながら、涼しい顔で周囲を見渡していた。それはまるで王様のように振る舞う。
誰よりも先に動いたのはクリナだった。
「——どこに行ってたの!」
一歩、足が前に出る。けれど一瞬止まった。
視界の先にいる泥だらけの我が子。その姿から、パルの想いが痛いほど伝わってきた。
けれど胸の奥には、怒りも、不安も、情けなさも、ぐるぐると渦を巻く。
どうして、黙って行ったの。
どうして、心配をかけるの。
けれど——そんな言葉をぶつけるには、あまりに小さく、頼りなく、怯えた顔をしていた。
「お母さん、ごめんなさい」
こぼれ落ちた声に、何かが解けた。
「——パルっ」
声は辺りの空気を切り裂くように飛ぶ。
気づけば駆け寄っていた。何も言わず、その身体を抱きしめていた。強く、そして優しく。
その腕は、震えていた。
怒鳴り声も、叱咤も、どこにもなかった。
ただ胸元に、無言で娘の身体を引き寄せ、何度も、何度も背を撫でる。
ふと視界に入った夕焼けが目に染みた。
あんなにも綺麗なのに、なぜだか自分の心の奥には罪悪感を感じる。
もっと、わかってやれたんじゃないか。
もっと、側にいられたんじゃないか。
でも今は、言葉なんていらなかった。
ただ、こうして抱きしめていることが全てだった。




