ep.31
「アロス、様……っ!」
若かりし頃、アロスの配下として仕えていた過去のあるギースの表情は硬い。当時の記憶を思い出すと背筋が伸びる思いがする。なのに王女とはいうと。ギースが視線を移すと、ミアは何事もなかったかのようにひょうひょうとしていた。くそ、噂通りイかれた王女だ。
やがて、ギースは仕方なく吐き捨てた。
「……しらけた。帰るぞ」
椅子を引き、立ち上がる。硬貨を卓に放り、連れの男を引き連れて店を出ていった。
静かになった店内でアワが呟いた。
「……今の男、ペトとパルの父親です」
テテポは入り口の影から固唾を呑んでいた。
だが、その隣にいたはずの少女の姿は、もうどこにもなかった。
な、何なんだ、この女は。
ギースは、今日も一人、屋敷の隅で荷の整理をしながら苛立ちを飲み込んでいた。あの日、刺さった棘はそのままに。
あの日以来、王女は連日やって来た。学校の視察という名目で。
車輪の音が耳に入りギースは身を隠した。
気づかれぬよう視線を向けると、開かれた門の向こうに陽光を受けた白い姿があった。
ミア・ヴェルディナは、侍女に日傘をささせながら、緩やかな笑みを浮かべ、穏やかな手つきで車椅子を進めてくる。その姿はあまりにも自然で、まるでこの場所の主のようにすら見えた。
「ミア様、わざわざお越しいただかなくとも、こちらからお伺いにあがるところでございましたのに」
ケイトンが慌てて出迎え、深々と頭を下げた。
ミアは軽く手を振る。
「お構いなく。街の空気を吸って、人々の声を聞いていると気分が晴れるの。ここへ来るのも、私の楽しみなのよ」
「……恐縮です。ですが、その、お身体の具合が……」
「お気遣いだけいただいておくわ。心配は無用よ、ケイトン」
その一瞬、ミアの視界にギースの顔がちらりと映ったが、彼は驚いて視線を外し、そのままどこかへ姿を消す。
ケイトンはひとつ呼吸を置いてから、言いにくそうに切り出した。
「そういえば、ミア様。先日の酒場で息子ギースが、なんとも……不躾な真似を。あのような無礼お詫びのしようもございません」
「もう済んだことよ。それよりも……」
首を横に振った彼女の表情に、ふと陰りが射した。
「パルは、元気にしてるかしら?」
翌る日もミアはケイトンの元へ訪れていた。
「申し訳ありません。私どもの方で何度も言って聞かせてはいるのですが、ギースはなかなか首を縦に振らないものでして」
「そう、わかったわ」
あっさりそう告げるとミアは部屋を後にした。窓の外からは夕暮れの光が差し込む。
疑問だった。ギースが街の護衛を拒むのはなぜ?
ひょっとして私のせいかしら。
広場での火災の一件以来、ミアの陣営は街の警備体制を強化していた。というのも、あの炎は事故ではなく、放火の可能性が高かったからだ。もしそうなら、標的はミア——学校建設にも、同じような妨害が及ぶ恐れがあった。
廊下でミアは、手を軽く上げてアロスに車椅子を止めるよう合図した。
ギースの声だ。相手はクリナ。
「じゃあ何? 働かないで、ずっとここにいるつもり? 私たちの暮らしはどうなるのよ! どうして街の護衛の仕事を引き受けないの?」
部屋の中の声が、廊下の天井にまで反響していた。
「……行きましょう」
ミアが小さく言って、アロスが押す車椅子が動き出した。無理に聞くつもりはなかった。ミアにも、この場を離れるべきだという分別くらいはあった。
「そう、がなるな。俺にだってプライドがあるんだ。それに、王国のやつらがクビにさえしなければ俺は今頃こんなことになってねーんだ!」
激昂と共に机が蹴飛ばされた。書類が舞い、窓辺に立てかけてあった杖が音を立てて転がる。
ギースはかつて、アルベルサ王バルドゥルの陰謀によって職を失った。王国の要職を狙った権力闘争に巻き込まれ、ヴェルディナの有力者たちは次々と排除された。その時の王侯貴族の汚いやり口に今も嫌気が差していた。
居間の隅、扉の影にパルはいた。
何も言えず、ただその場に立ちすくんでいる。目の前の光景から逃れたいのに、耳が離してくれない。叫び、怒鳴り、重なる感情の渦のなかで、部屋の誰の感情も痛いほど伝わってくる。
「それに……」
ギースは重たい口を開いた。
彼は敗者だった。
ギースの家は代々王国に仕え、ララポルトの発展に寄与してきたのは周知の事実だ。誇りは血に刻まれている。世間の目を気にするなというのが無理な話だった。
「子供たちのためにと思って必死に稼いできてるってのに、パルは学校に行ってないんだろ?」
クリナにとって、それは最も言われたくない一言だった。自分を責められている気がした。
「……私だって、必死にやってるのよ。子供たちには、将来きちんとした仕事に就いてほしい」
声は震えていた。
「あなたは気づいてないの? 家族がどれだけ我慢してるか」
パルの胸を打つ。
怒りの矛先が誰に向けられているのかもわからない。どちらも苦しんでいるのがわかる。けれど、どこにも逃げ場がない。
頭の奥が、じんじんと熱を持ち始める。言葉が突き刺さるたび、何かが擦り切れていく。
ざわざわとした胸の内側で、音と色と感情がぐちゃぐちゃになった。
痛い。
思わず耳を塞いだ。でも意味はなかった。ふたりの口論は続き、怒鳴り声が上がる。
世界がずっしりと重くなって、息が詰まる。
わたしのせいだ。
パルは、音もなくその場から走り出た。
傾いた夕焼けに心がやんわりと滲んだ。
あ、いた。
彼の横顔が麦色の光に染まっている。くっきりとしているのに、笑うと垂れ目がちになる表情が眩しくて、ミアは目を細めた。
「アワ!」
恥じらいもなく声を上げると、彼は恥ずかしそうに笑みを浮かべ、手を振り返してくれた。
街の住民の治療を終えたアワは、何人かに囲まれて笑顔で談笑していた。
アロスに車椅子を押しもらい、やってきた広場の雰囲気は、いつもより活気があった。
腕まくりをしたまま、農作業風の女が言う。
「来週、うちの娘が嫁に行くのよ。やっとね!」
「それはおめでとうございます。よいご縁があってよかったですね」
次は年配の婦人がその隣に割って入ってきた。
「ほら、見てくださいなミア様。孫が生まれたんですよ。もう五人目ですのよ」
彼女の腕のなかには、ふっくらとした赤子がいた。ミアは思わず表情を綻ばせた。
「まあ……かわいらしい。お名前は?」
「ルッコって言うんです。春の野草から取りました。ほら、たくましく生きてほしいじゃないですか」
微笑むと赤子も口を開けて笑った気がした。何だか——誰もを魅了する純粋無垢な愛らしさに、ちょっとだけ鼻をつまんでやりたくなった。
別の男が手を挙げた。
「明日は街の祭日だ。出稼ぎに出てた男たちもぞろぞろ帰ってくるぞ。久しぶりに大鍋が必要だな」
その声に周囲から笑いが起きる。アロスも釣られるように話に入ってきた。
「昨年の祭りでは、焼き林檎が足りなくなって大騒ぎでしたな」
「あれはアロスさんが十個も食べたせいだって聞いたぞ?」
「いえ、あれは私では……たぶん」
ぽん、と誰かがアロスの背を叩いた。
だめだ。ミアは焼き林檎を想像してしまう。
笑いの輪の中にいると、ぽつぽつと何かが灯っていく気がした。ほのかに焦げた林檎の皮に、たっぷりのきび砂糖。バターと溶け合った甘い香りが、胸いっぱいに広がる。
ああ、こんな日々が、ずっと続けばいいのに。
風が通る。誰かの笑い声と一緒に街角をくすぐった。
街の賑わいから外れ、ちょうど曲がり角へ差しかかろうとしたその時だった。何者かの慌ただしい靴音が駆けてきた。




