ep.30
「やっぱり、学校って行った方がいいのかな」
パルは控えめに言った。
「相手の考えてることがわかっちまうから、人間がたくさんいるとしんどいんだろ?」
寝転んだまま葉の間から覗く空はのどかだ。
パルもまた、風に揺れる葉の音を聞いていた。草の騒めきも、鳥の鳴き声も、すべてが語りかけてくる。
並外れた感受性を持つふたりには、人間の感情だけではなく、草木や鳥、虫たちの心の動きすらも、透き通るように伝わってきてしまうのだった。
「学校に嫌なやつとかいるのか?」訊くとパルは首を横に振る。
「たくさん人がいるところは苦手だけど……」
「ふーん。おれには学校がどうとかはよくわかんねーけど」
テテポは体を起こすと、パルを見て、にたっと表情を崩した。
「どーせ、かーちゃんと、とーちゃんがうるさいんだろ?」
パルは「うん」と、小さく声にした。
「お母さんはたまにだけど、お父さんは……すごく怖い」
「けっ」と、唾でも吐くように短く声を漏らしてから、テテポは腕を組んだ。
「まあ、どうしても無理ってんなら、逃げちまえばいいけど。もし——ちょっとでも頑張りたいって気持ちがあるなら、何回か挑戦してみるのもありじゃねーか?」
「ミア様みたいに?」
「そうだな」テテポは頷く。
「あいつも頑張った先には何かあるんじゃねーかと思って、自分なりに必死なんじゃねーか?」
「だったら……」
パルは少し考えるように風を見つめた。
「まずは友達と仲良くできるようにしようかな。お母さんにも、お父さんにもいつも言われてるから。ペトみたいに遊んでこいって」
「おう、それでいいんじゃねーか? とりあえずやってみろ。応援してやるよっ」
テテポの声は、妙にあっけらかんとしていて、それがかえって重荷を軽くしてくれた。
ふたりは言葉を交わすことなく歩き出す。
「ここ、よく来るのか?」
パルは相槌してから言った。
「ここで自然の声を聞いてると、心が静かになるの」
ふたりの間に、ことさらに言葉はいらない。
「ねえ、テテポ」
ふたりは緩やかな丘を下っている。
「わたしもアワのお兄ちゃんみたいに魔法、使えるようになる?」
問いかけというより、願いごとに近い。
「どうだかな〜」
口をすぼめてはいるものの、テテポの表情は明るかった。
「いい線いってるから、そのうちポンって出るかもな」
「ポンって?」
その真剣な顔にテテポは思わず吹き出して笑ってしまった。——真面目か。仕方なく場を収めるように促した。
「ポンはポンだ」
街の通りまでやって来た。ミアとアワの姿が見える。店の前にいる。
飲食店の入口の扉は開いたままだ。男の声? 近づいていくと、何やら店内から怒号が響き渡っていた。
「ったくよぉ、どうせ俺は奴隷以下なんだよ! 放っとけっての!」
まだ陽が高いなか、乱れた身なりの男は酔いに任せて叫んでいた。
「おい、ギース飲みすぎだ」
酔っ払いには、連れの男の声も届かないようだ。
「うるせーな。どうしてヴェルディナの現場で、領国の連中が仕切ってんだ?」
ギースは数日前、郊外の宿泊施設の建設現場で仕事をこなしていたが、突如現れたアルベルサの政商と揉め事を起こし、仕事を外されたという。労働者の扱いに対する衝突だった。
連れの男が小声で耳打ちする。
「揉めた政商ってやつは、アールネってやつだろ?」
「ああ」
ギースは拳を叩きつけるように机を殴った。
「あの豚野郎……舐めやがって。あの豚野郎は、ララポルトから来た人間を奴隷と同じ様に扱いやがったんだ」
「だから落ち着けってギース。誰かに聞かれたらまずいだろ? アールネは王国全土で幅を利かせてる悪党って噂だ。気に入らないやつは奴隷として売られちまうって話もある。度が過ぎた俗悪な趣味の延長で、檻のなかで猛獣と戦わされた連中もいるらしいぞ?」
「ヴェルディナも、もう終わりか……」
ギースは酒臭い息を吐く。
「国王は平和ボケしてやがる。見て見ぬふりか、それとももう手の内か。……どっちにしろこんな調子じゃ、アルベルサのバルドゥルの手に落ちるのも時間の問題だな」
沈黙の後で連れの男は声を落とした。
「……ああ、それは否定しない」
その諦めに似た声色を、ミアは店の外でただ聞いていた。
アワがすかさず小さく耳元で告げた。
「ミア様、もう行きましょう」
しかしミアは、アワによって押し出された車輪の動きをぴたりと止め、自らの手で車椅子を進めた。
「それより聞いたぜ」次の一杯を飲み干すと、ギースは話題を切り替えた。
「あのわがまま王女が学校を作るだと? ……へっ、笑わせるぜ。もっと詳しく聞かせろよ」
息巻いた勢いのまま空の酒杯を卓に置くと、乾いた衝撃音が鳴った。最初はその音に、連れの男がびくついてるのだと思った。
だが、すぐに、違う、と考えを改める。ギースは連れの男が見る方に視線を向ける。
車輪が床板をなぞる擦過音は、思いのほか誰の足音よりも大きく響いた。店にいた誰もが、その主の姿に目を見張った。
ミアは真っすぐギースの前まで進み、止まる。
「奇遇ね。私も奴隷制度については、大変遺憾に思っていたところよ」
連れの男は見る見るうちに顔を青ざめさせているが、ギースは獲物を見つけた獣のように、口元を歪めながらミアを睨み返した。
「……なんだ。本人のお出ましかよ」
言ってから少しだけ悔いた。後ろにいるのはアワ。魔術師が付き添っていて王女がこの姿ということは、よほどの病状なのだと察した。
それでも黙ってはいられなかった。ギースの目が車椅子に注がれる。
「こんな小娘に何ができる。ましてやそんな足でっ。ろくに歩けもしないくせに、学校? 笑わせんな……!」
ミアは、話に割って入ろうとしたアワを手で制止した。
「だったら、あなたが私と代わってくださってもよろしくてよ?」
「——なっ」ギースは身を引き腕を組み直す。たじろぎを隠すように、ミアを睨み返した。
「代わりにこの国を導いてくださればいい。わたくしは喜んでこの役目を譲りますわ」
ミアが「あなたには歩くことも、その達者な口があるのでしょう?」と念を押すと、連れの男が慌てて頭を下げた。
「ミア様っ! ギースは何も知らないんです。ほんとに! こいつ酔いが回ってるだけなんです。すみません! 俺が言って聞かせますんで!」
ギースは鼻で笑った。
「またそれだ。口ばっかりだな、お前たちは」
ミアは臆することなく真っ直ぐに見返した。
「本当にそう思います? そう思うのなら、どうぞ代わってくださいな。わたくしには構いません。肩の荷がひとつ下りますから」
淡々とした声はどこまでも穏やかで、何か底知れぬものを帯びていた。口で言うのは簡単、そういわれているようだった。
肩に何かが乗った気がした。ミアの背負う重圧が、無言のままこちらに迫ってくる。気づけば口を閉じ、訪れた沈黙が軽率さを物語る。
「そんなことできるはずないだろうが。脅しのつもりか?」
搾り出すように呟いたギースに、あたかも怪訝な顔をミアは見せた。
「脅し? わたくしが? まさか。本気よ」
肩の力を抜いたまま、こともなげに言い放つ。
——そして、「ねえ? アロス?」と隣を向いた。
「姫様がお望みなら」
いつの間にか傍に立っていたアロスが、柔らかくも冷たい声で続けた。
「その者にすべてを託しましょう。地位も責務も、なにもかも。仰せのままに」




