ep.3
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最初は、すぐに癒えるものと信じて疑わなかった。
医師もまた、そう告げた。
「日頃より精力的なお働きゆえ、少々お疲れが溜まっておられるのでしょう。静かにご養生なされば、すぐに癒えられましょう」
ただの微熱であろう——喉奥の重い不安も、数日を経れば元通りに戻る。そう固く信じていた。
ゆえに、目覚めるごとに身を整えた。髪を結い上げ、首元にリボンを結び、鏡の前で笑顔を練習した。見舞う者たちを、王国の姫として迎えねばならない。それが当然であり、そうでなければならなかった。
王女としての威厳。それが幼い頃から叩き込まれた習慣だった。
言葉遣い、姿勢、歩き方、扇の扱い方から、夜会での立ち居振る舞いに至るまで。笑顔の下に痛みを隠すのは、王族の嗜みと教えられて育った。泣き言は弱者のすること。恥である。
だが来る日も、また来る日も、願いはかなわなかった。春の終わりを迎えた。風は冷たくはなかった。ただ、やけに遠く感じられた。
窓の外に広がる王都の景色。遠く連なる樹々の稜線。白くほどける雲。まだらに芽吹く新緑の気配。どれも穏やかなものばかりだったが、ミアの心には、ひとつも届いてこなかった。
初夏が過ぎ、またひとつ季節が終わろうとしていたが、症状に変化はなかった。秋の訪れを前に、王都を離れた。侍女の手も遠ざけた。彼女たちの目を、声を、ミアは知っていた。
「あの悪役姫さまも終わりね」
「威張り散らしてた罰が当たったのよ」
「あの足……うつるって本当っ?」
「何かの呪いか祟り……?」
「可哀想に。このまま母親同様、死んでしまうのでは?」
「辺鄙な土地、特有の病気かしら?」
窓の向こうには、野を吹き抜ける風と、季節の気配。人の声は届かない。馬の蹄も、剣戟の音も、宴のざわめきも、全て、遠い過去のもののようだった。ここには、何もない。自然だけが、黙してそこに在る。
葉が色づき、枝を離れはじめ、秋が終わる頃には、右足はすっかり凍りついていた。
見下ろした足先は、自分のものとは思えぬほど白く、冷たく、動かなかった。そして、もう片方にも、同じ影が静かに降り始めていた。
その瞬間、不思議と涙がこぼれた。
凄まじい音が、閉ざされた部屋を切り裂いた。
何かが砕けた音——ガラスだ。
アロスは、ほとんど扉を蹴破るような勢いで駆け込んだ。そしてすぐに、それを見た。
床に散らばる破片の中で、ミアはひときわ鋭い一片を固く握り締め、自分の肌へと向けていた。
「姫様っ、おやめください——っ!」
咄嗟に伸ばした手が、ミアの手首をしっかりと掴んだ。破片は床に落ち、乾いた音を立てた。
彼女の指からは薄い血が滲み出ていた。
「……死なせなさいっ!」
ミアは叫んだ。震える唇。潤んだ瞳。張り詰めていたものが、そこで崩れた。
たった一言に、全てが宿る。悔しさも、恥も、孤独も。誰にも言えなかった願いも、救われなかった幼き頃の祈りも。
「どうして……どうして止めるの? わたしなんて……こんな足で……こんな体で……」
声が裏返り、言葉は途絶えた。
そして、ぽろりと、涙が落ち、ミアは、ただ静かに崩れていった。
冬の終わりが音を立てた。雪解けの微かな軋みが聞こえる。ミアは、ただその気配を胸の奥で聴いていた。
気づけば、十六歳を迎えていた。
「姫様……お加減、いかがですか? 寒くは、ありませんか」
叩く音がして、かすれた声で返事をすると、そっと扉が開いた。
現れたのは、くせのある焦げ茶の髪を無造作に束ねた、小柄な侍女だった。
濁りのない瞳に、戸惑いを滲ませながら、それでも真っすぐこちらを見つめてくる。丁寧な身なりをしているが、身のこなしにはどこか田舎育ちの素朴さがあった。
「今日は、陽の光が穏やかに照らしておいでになります」
ヘッラはアロスの孫娘だ。数日前、ミアと歳が変わらないという理由で、連れてこられた。この、ヴェルディナ王国最南端の小さな街、ララポルトにある屋敷に。
アロスの独断だった。見かねてのことだったのだろう。
「窓……開けても、よろしいですか?」
ヘッラが訊くが、ゆっくりと体を起こしてから、ミアは首を横に振った。
窓には重い鍵がかけられ、外光を遮る板が打ちつけられていた。光を閉ざされ、風も、空の色も、この部屋には届かない。
あの日以来、ミアは幾度となく命を絶とうとした。
その度に、短く悲鳴のような声が漏れるのと同時に、扉が激しく開いた。アロスが駆け込み、ミアの乱れた寝巻きに、血の滲んだ指先。すぐにそれと気づき、アロスが腕を掴み、道具を奪い、命をつなぎとめる。
その繰り返しだった。
やむを得ず、部屋は改められた。装飾は取り払われ、鏡も、花瓶も、ひとつ残らず姿を消したのだった。
ミアはベッドの上で、閉ざされた窓を見つめ続けていた。それ以外に、することなど残されていないかのようだった。
こんなことをしなくても……もう、自分の足でベッドを降りることすら叶わないのに。
髪は乱れ、衣服も整ってはいなかった。鏡を遠ざけて久しく、誰かと会うことすら避けていた。
「お姿を整えさせていただきますね、姫様」
本当は、身支度など必要ない。でも、それを口にするのももう億劫で、ミアはわずかに瞬きしたのち、微かに声を押し出した。
「……ええ」
支度は、まだ幼さが残るたどたどしい手つきだったが、ヘッラの指先からは、不思議と温もりが伝わってきた。
今日、ジナイーダが訪れるのだという。
「アロス、席を外していいわよ。それと……お隣のお嬢さんも」
ジナイーダの声は澄んでいて、けれど冷たい刃のような角があった。笑っていなかった。命令とも願いともつかぬその言葉に、部屋の空気がひと筋、ぴんと張った。
ヘッラがほんのわずかに動きを止めたが、視線を落とし、ミアへ一度、目をやるだけで、それ以上言葉を継ぐことはなかった。
「……わかりました」
アロスは短く言った。無駄な問答を避けるように。
二人は静かに一礼し、音を立てぬよう部屋を後にした。扉の閉まる音だけが、無遠慮にその場を裂いた。
「……久しぶりね。ミア」
そう言って、ジナイーダは椅子へ腰を下ろした。ヘッラが先ほど用意した、飾り気のない木椅子。ミアとのあいだには、手を伸ばせば届くようでいて、それ以上に遠い距離があった。
「ええ」と、ミアは短く応じる。
顔を合わせるのは、あの夜会以来だった。
表では礼を交わし、笑みの下で火花を散らした夜。
子どもの頃から悪さを共にして、憎まれ口で笑い合った——そんな間柄でも、舞踏会の灯のもとでは他人を演じた。
火はまだ、灰の奥に潜んでいる。だが今ここに、仮面はなかった。
ミアは相変わらず、目の前の壁を見つめていた。一体、何しにここへ? ましてやこんな人里離れた土地へ。
何を見るでもなく、ただそこに目を向けることで、何かをやり過ごしていた。
「よくもまあ、こんな辺鄙なところで過ごせるものね。おかげで来るだけで骨が折れたわ。道が悪くて、馬車の揺れで酔いそうだったもの」
「そうね」
返ってきた声は、壁の向こうへと消えてゆきそうに細い。ジナイーダは、その様子に目を細め、室内へ視線を巡らせる。
窓は覆い閉ざされ、カビ臭い部屋。これが、ミア・ヴェルディナ? 到底信じられなかった。
心中で呟きながら椅子の背に体重を預け、まるで思い出したかのように、ジナイーダは顔を輝かせて言葉を続けた。
「そうそう、聞いて、ミア。先月、わたくしの領地で開かれた収穫祭、大成功だったのよ。噴水の周りに絹の天幕を張って、夜は空に光の花まで咲かせたの。皆が口々に『まるで王都の祝祭のようだ』って——あら、ごめんなさい? ここ、ララポルトでは……まだ、村長が太鼓を叩くくらいかしら?」
ミアは黙っていた。瞼を伏せ、まるで耳に届いていないかのように。
構わず、ジナイーダは笑みを浮かべた。