ep.28
聞いてほしい話が山ほどあった。
何度も何度も車椅子を乗りこなす練習をしたこと。ひとりだけの力で、ベッドから座席に移ることだってできるようになった。それからケイトンに相談して、街の子共たちの支援についてだって必死に考えた。
ミアは誇らしげに目を輝かせる。
アワに振り返ったその表情は、どう見ても『褒めてほしい』と言っている。
「ぼくがいない間に、ずいぶんと頑張っていたんですね。すごいです」
「本当に大変だったんだから」
まだ満足していない様子だった。ありありと見つめる表情に、アワから思わず笑みがこぼれた。
「……ぼくには到底真似できません。本当にすごい」
「でしょ?」
ようやく彼女の満足そうな笑顔に出会えた。けれど、まだ足りないようだ。ミアは微笑んだまま小首を傾げる。
「ねえ、もっと褒めてくれてもいいのよ?」
苦笑しつつも、アワは素直に言葉を返した。
「本当に、尊敬します」
「まだ足りないわ」
わざと真剣な顔をして迫るミア。
アワは肩を落とし、観念したように小さく溜息をついた。
「あなたは、世界一すごいです」
あまりの大げさな言葉に、ミアは吹き出した。
「なにそれ、馬鹿みたい」
そう言いながらも、ミアは楽しそうに笑った。
釣られるようにアワも笑みをこぼし、気づけばふたりは、肩を震わせて笑い合っていた。
今日は星がよく見えた。
「あの子ね」
ミアはふと思い出したように呟く。
「……あの子?」
「パルのことよ」
ミアの視線は、遠くの街の灯りに向けられていた。
「パルを見ていると、昔の自分を思い出すの」
その瞳は、どこか寂しげだ。ミアは小さかった頃の自分を思い出していた。
冷たい石の床に膝をつき、背筋を伸ばしたまま、ただ母の声に耳を傾けていた。鋭く切り込むような口調に何度も怯えた。その声は、赤い血の通った人間のものとは思えないほど冷たかった。
大きな音が鳴り響いて、何かが壁に叩きつけられた音がしたこともあった。皿か、花瓶なのか、それとも別の何かかはわからない。
砕け散った陶器の破片が床に飛び散る音に、心臓は跳ね上がった。誰かが慌てたように声を上げた気もするが、母の叱責のほうが遥かに大きく耳に残っていた。
——怖い。
それが私のなかにいる母への感情だった。
現実に戻ると、ミアは黙ったまま、空を見上げていた。
「以前、話をしていたローラ様のことでしょうか」
「ええ」
こくりと小さく頷いてからミアは呟く。
「私、たまに考えるの。あの人に、愛されていたのかなって」
アワは言葉を選びながら答えていく。
「ぼくには、わかりません。でも……何か事情があったのかもしれませんね。我が子を思わない親なんて、きっといないはずです」
「だといいけど」
今一歩、歯切れの悪い返しだ。
「アロスさんに、聞いてみては?」
アワが言うと、ミアはわずかに微笑んで見せた。
「……そうね。もう亡くなってしまった人には、訊きようがないものよね」
瞬く星を眺めながらミアは言う。
「そういえば、こうして夜空の下をアワと歩くのは初めてね?」
アワも視線を上げた。紺碧の空の星はご機嫌だ。星たちは、鼻歌混じりに煌めく。
「どうして、人は星に想いを馳せるのでしょうね」
アワの声は虫の音色と相まって、夜の情景に溶け込んでいく。
「たしかに不思議ね」
ミアはしばらく、吸い寄せられるようにして、星の輝きをじっと見ていた。やがて、ふっと息を吐いて口元を緩ませる。
「別に行ったこともないのに、どうして懐かしく思えるのかしら」
「ですね、不思議です」
「この壮大な光からしたらちっぽけでしょうね。百年を生きられるかわからない私たちなんて」
「彼等からしたら我々の人生なんて、ほんの一回の瞬き程度でしょうね」
ミアはほんの少しだけ眉を寄せた。
「……困ったわ」
そう言って、微笑んだ。
「このまま星を見ていたら、私の悩みなんて、どうでもよくなってしまうわ」
アワも一緒になって笑う。
夜の静けさが、ふたりの間に柔らかく降り積もっていく。
それはまるで、遠いどこかで交わした約束を、思い出そうとしているかのようだった。
「——たく、お前らはまたそうやって、いちゃこらしてー」
どこからともなくやってきた声に、思わずアワは声を上げた。
「い、いちゃいちゃなんてしてな——」
勢いよく否定しかけて、ふと気づく。隣にはミアがいる。彼女には、テテポの姿は見えない。
「いちゃいちゃ?」
案の定、首を傾げたミアはきょとんとしている。
テテポは知らん顔で、どこ吹く風だ。
「——そういえば」
と、ミアは思い出したようにアワに視線を向けた。
「アルベルサでは、どうだったの?」
その目は、意外なほど鋭い。
「……いちゃいちゃ、してたの?」
アワが領国の王宮に寝泊まりしていたことを耳にしたことがあった。その裏で気にしていたのは、他でもない——ジナイーダの存在だった。
そして彼は、何かを隠すよう目を泳がせ、露骨に動揺している。あきらかに怪しい。
「な、何も特別なことはありませんよ。ただ、領国の要望に応じていただけです」
ミアの瞳に宿る、静かな炎。
テテポが、しれっと口を挟んだ。
「着替え、覗いてたよな?」
アワは飛び上がるように慌てた。
「ばっ、着替えを見たのは、あれは——」
言いかけて、またはっとする。ミアの目が細まっている。
「着替え?」
声は不気味なほどに落ち着いていた。
「ひょっとして、ジナイーダの着替えを見たの?」
その瞬間、ミアの中で沸々と煮えたぎるものが爆発寸前まで膨れ上がる。
アワは青ざめた。
「い、いや、それは事故というか……はい、事故です」
じわじわと忍び寄る笑み。
「……それはさぞ、良い思いをしたのでしょうね?」
必死に理性を保ちながら、ミアな笑顔のまま睨みつける。
「で? 他には? 何をしたのかしら?」
「え、えっと……その」
アワは追い詰められていた。その場をやり過ごすように言葉を探す。でも駄目そうだ。彼女の様子を目にして観念する。
「あの……社交の場で、踊りも……しました」
ミアは大袈裟に目を見開いていた。
「え? ダンス? もしかして、それはジナイーダとってことかしら?」
嫉妬心が、とうとう臨界点を超えた。
隣でテテポは、しししし、と楽しげに笑っている。
アワは真っ青になって手を振る。
「あ、あの! あまり興奮すると、お身体に障りますから……!」
ミアは、にこりともせず言い切った。
「いいのよ。そのときは、あなたがどうにかしなさい!」
「ひ、ひとまず星を見ましょう! 小さな悩みなんて、どうでもよくなりますよ!」
完全に怯んだアワに向かって、ミアはぴしゃりと言い放った。
「それとこれとは別よ!」
アワはもう、逃げ道を失っている。彼女はじっと睨みつけている。
ミアはゆっくりと口を開いた。
「いいこと? あなたは今日から、スラティハールの屋敷に泊まりなさい」
アワは絶句した。
「え、えっ……そこまでは、さすがに……」
再び彼女はぴしゃりと断言する。
「問答無用よ!」
その目からは、もはや一切の容赦はなかった。
「それから——」
にっこりと微笑み、ミアは最後に釘を刺すように言った。
「いつか必ず、ダンスも絶対に一緒に踊るわよ」
アワはただただ、呆然とするしかなかった。




