ep.27
慌てたふためいたアロスの声よりも早く、ミアは車椅子を思い切り前へと押し出していた。車輪は軋み石畳を心のままに、ただ真っ直ぐ進んでいく。
ようやく気づいたアワが振り返ると、ミアは車椅子の上で身を乗り出していた。手を伸ばしている。
「——ちょ、ミア様⁈」
アワの驚きと同時にミアの体が浮く。そしてバランスは完全に崩れ、車椅子から放り出されるようにして身を投げ込む。
「……!」
アワは思わず目を見開いた。だが、体が先に動いた。反射的に腕を伸ばし、飛び込んできたミアを抱きとめた。
「遅い!」
彼女の腕は震えていた。
「ピンチの時は、いつでも駆けつけるんじゃなかったの⁈」
けれど、泣き笑いのような顔で、ぎゅっとアワにしがみつく。
「いや……これでも、間に合ったつもりだったんですけど」
アワは、たじたじとした。けれども、そんな小さな言い訳も、彼女の腕の中では通用しない。観念したように息をつき、ぽつりと口を開く。
「遅くなりました。すみませんでした」
それを受けミアの表情が緩まった。涙の跡を残したまま、ちょっぴり意地を張るように言葉にした。
「なら、よろしい」
まるで勝ち誇ったように、小さく鼻を鳴らし、その頬はほんのり紅く染まっていた。
その微笑ましい光景に、周囲の人々はあ然としていた。つい先ほどまでの混乱も、恐怖も、怒りも、まるで吹き飛んだかのように——広場は、今度は別の意味で、静まり返っていた。
「……え、ええと……あの……」
誰かがぽつりと呟いた。
「ちょっと……熱々すぎませんか……?」
どこからともなく漏れてきた声がきっかけだった。ざわざわと、微妙な気まずさが人々に広がっていく。視線を泳がせ、咳払いする者、不自然に靴先を見つめる者、後ろを向く者もいた。見てはいけないものを見てしまったような、何ともいえぬ空気だ。
そして、ひとりだけ場違いなほど感動している男がいた。
「……っ、姫様がついに、ここまで……!」
眼鏡を外したアロスは、鼻をすすり、感無量の面持ちで、袖でごしごしと涙を拭っている。
「なんて、なんて尊い……」
誰よりも感動し、誰よりも涙を流していたのは、護衛のはずの彼だった。
アロスが堂々たる態度で言った。
「皆の者、控えよ!」
その声は広場全体に行き渡った。
「これより御前に立たれるは、ヴェルディナ王国第一王女、ミア・ヴェルディナ様である!」
先ほどまでの喧騒が嘘のようだった。辺りは静まり返り、人々の視線は一斉にミアへと向かった。火のなかでも迷わず子供を救おうとした王女の姿は、誰の胸にも強く焼き付いていた。
ミアはゆっくりと、しかしはっきりした口振りで、ララポルトの街の現状と、王国がその事実に目を向けようとしなかったことを陳謝した。
隣にはアワがいる。不意に視線が合って、ミアはひとつ呼吸を整えた。ひとりじゃない。そう思うだけで心が落ち着いた。
「——だからこそ、私は動きます」
真っ直ぐに見据えたミアの大きな声が人々の心を動かす。
「この街に学校を建てます! 貧しさに関係なく、誰もが学び、未来を選べる場所を作ります」
広場が一瞬どよめく。
「ただの施しではありません。子どもたちの力は、いずれこの街の力になる。そして、その始まりを私はここから作りたい」
ミアの声は通った。聞き取りやすく耳触りの良い響きは、広場の隅々にまで届いていた。どの顔にも、驚きではなく、確かな未来への期待が浮かんでいた。
最後に宣言するように告げる。
「——私はヴェルディナ王国第一王女。ミア・ヴェルディナ。ララポルトの生活を守るためには、皆の力が必要です。どうか、私と共に歩んでください!」
誰かが、小さく手を打った。それは広場の片隅、年老いた男の手だった。控えめな拍手。けれど、その音は澄んでいて、不思議と耳に残った。
ぽつり、ぽつりと、他の手もそれに続く。幼い子を抱えた母親が、少年が、商人が——ためらいながらも、その輪に加わっていく。
気付けば、広場を包んでいた空気は、いつの間にか柔らかに解けていた。そして歓声が広がる。誰もが王女を讃えている。
ミアはその光景をただ見つめていた。胸の内にほんのりと灯る熱を感じながら。
その時視界の片隅に、小さな少女の姿が映る。パルだった。胸元で小さな手をぎゅっと握りしめ、まっすぐに見つめている。輝かせた瞳は、どこか誇らしげだ。
ミアの顔に笑みがこぼれた。パルの眼差しは、間違いなく彼女の心に残るものだった。
街一番の大きな飲食店は宴に湧いていた。
ケイトンの粋な計らいで、広場に集まった人々がそのまま店に流れ込み、酒と料理を囲んでの大宴会が始まっていた。皿が次々に運ばれ、ジョッキはすぐに空になっていく。
その輪のなかにはミアの姿もあった。本来ならアロスが止めるはずの場面も、今夜に限っては許された。
「まったく、ミア様には人の心を焚き付ける才能があるようだ」
ケイトンの言葉に周りの者たちが同調する。
「まるで先代のヴェルディナ王のようだ」と、誰かが続けると、どっと笑いが起こる。
苦笑いを浮かべながらも、ミアの内心は悪くない気分だった。
「ヘッラ、少し風に当たりたいわ」
笑顔を浮かべたヘッラは視線を送った。
「アワ様、お願いできますか?」
外は夕陽に染まっていた。頬を撫でるそよ風が宴の熱気を冷ます。
「おい、もっと酒を持ってこい!」
「はは、ケイトン様には敵わねぇな!」
笑い声、歌声、ぶつかるジョッキの音——宴の熱気は、壁を隔ててもなお、外にまで溢れ出していた。
「……まったく。騒がしいことね」
ミアの口元が緩む。その後ろで車椅子を支えるアワは、微笑ましくその表情を見つめている。
「こういう俗っぽい賑わいは、初めてでしょう?」
小さく笑い、皮肉たっぷりのアワに向かって、ミアは笑みを含んだまま答えた。
「ええ、こんなに騒がしいのは初めてかも」
「きっと、この騒ぎは朝まで続くでしょうね」
「え⁈ そうなの?」
幸福の間があった。ミアは前を見て言う。
「でも、とっても楽しいわ!」
店の扉が開いた。頬を赤らめたペトが、いち早くミアに気づき手を振る。
「もう帰るの?」
ミアが声をかけると、クリナは深く頭を下げた。
「はい、これ以上は、さすがに……」
その隣でペトがぱっと顔を上げる。
「ミア様、今日は本当にすごかった! 格好よかったよ!」
ペトは満面の笑みで褒めちぎり、パルを見た。
「なあ、パルもそう思うよな?」
小さく頷いたパルは、ぽつりと声にした。
「……ミア様、ありがとう」
歩きだした三人の背中が茜色に染まっていく。
『ありがとう』と言った真意は、ミアにはわからなかった。
けれど、人付き合いを苦手としていた少女が、今日この場に立ち会っていたことだけは、確かな変化のように思えた。
「ねえ、アワ。……少し、散歩しましょうか?」
アワは微笑み返した。振り向いた彼女の顔が、赤くぱっと色付いた。
ふと空を見上げると、いつの間にか星が瞬いていた。テテポはいない。
アワは、ミアを乗せた車椅子をゆっくりと押す。ふたりはあてもなくララポルトの街を巡っている。
「幼い頃に街へは?」
「ないわ。こうやって時間を気にしないで見るのは新鮮ね」
そう言ったミアが突然、車輪をぐっと押し、自ら動き出した。
「ほら、見てっ」
車椅子は軽やかに滑り出す。
「ちょ、危ないですよ?」
アワは慌てて追いかけるが、車椅子の動きは安定していた。何の迷いもなく、意図も容易く操っている。
「平気よ! たくさん練習したんだからっ」
しばらく進み、道が少し傾き、ごつごつとしてきたところで、アワが再び車椅子の後ろに手をかけた。




