ep.25
「し、しかし姫様っ……」
「あら?」振り返ってミアは言う。何かを試すように。
「私は平気よ。でも、アロスが心配ね?」
「な、何をおっしゃいますか」
アロスは全力で否定する。
「まだまだ若い者には負けませぬ。日々の鍛錬は欠かしておりません!」
姿勢を正して応えるアロスが、おかしかった。くすりと笑って、ミアはパルに手を差し伸べた。
少女を膝に乗せた車椅子は、鼻息荒いアロスによって勢いよく走っていった。
目を輝かせて外の景色を見回している顔が印象的だった。風を受けて、小さな体が震えるように笑う。パルがひとつの屋台を指差した。
「あそこのお菓子、とっても美味しいの」
屋台のある広場は、街の日常的な告知や、住民が集まったりする場所だと、アロスは言う。それと、パルが教えてくれたお菓子は、民にとって些細な贅沢になっているのだということも。
ミアは、嬉しそうな表情を浮かべるパルを、いつまでも見ていた。今、この子には何が見えているのだろう。
私は、失ったことばかり考えていた。車椅子によって低くなった目線。映るもの全てが大きく見えて怖かった。
でも、こうして誰かと景色を分け合えることがあるなんて、思いもしなかった。
もしかしたら、失って、得たことの方が重要なのかもしれない。
凍った足に視線を落とした。
今、過去を振り返ると後悔ばかりだ。王国の未来のためだと、声高に語っていた鉄道建設も、本当は——誰よりも、自分の見栄と欲を満たすためでもあった。
ふと、ある人物の顔が思い浮かんだ。
——今、何をしてるの?
彼と過ごした情景が心を満たす。
ミアは、そっと呟くように思った。
アワ。
私は今……あなたに、すごく会いたいわ。
スラティハールの屋敷に戻ってから、ミアは机に向かっていた。ひとつの思いつきが、頭の中に浮かんでいた。
パルのおかげだ。
子供の視点で一歩引いて見ると、物事をいろいろと俯瞰して考えることができた。
「——アロス、どうかしら。この考えは」
思いついたことをすべて伝えた。細かな制度設計から、初期費用の見通しまで。
聞き終えたアロスは深く頷いた。
「はい。その規模であれば、王侯貴族たちの反感を買うことはありますまい。ただし、既存の学問所との連携は避けて通れませんな」
「そうね」
側で聞いていたヘッラが、跳ねるように声を上げた。
「学校建設! 姫様、それはとってもいい考えです」
ララポルトの現状は、男たちは出稼ぎに街を離れるが、田舎者の扱いは奴隷と同等で賃金は安く、そのため残された女たちは、家事や農作業に追われていた。
そして、何より目についたのは——学校に行けない子供たちだった。
ケイトンがいっていた。
人々は、自分の子供にご飯を食べさせるために、今日も働いている。
「最初は小さくてもいい。無償で子供たちを受け入れる体制を作って、食事も国で支援する。教えられる人材は、アロス、お願い」
納得してアロスは訊いた。
「それで、民への説明はいかがなされますか?」
ケイトンを屋敷へ招き、目を伏せながら、ミアは自分が見たもの、感じたものを語った。
突然のことで一体何事だと、彼は緊張した面持ちで椅子に腰を下ろしていたが、すぐに、その表情は変わっていった。長年、街で暮らしてきた目に、涙が滲む。
誰よりも人々に近く、顔が広く、街にとって欠かせない存在。そんなケイトンが、何も言わずに頷いた。
窓の向こうで、風が通り抜ける音が、どこか遠い教会の鐘のように聞こえる。
「……ミア様が、そこまでのお考えとは」
ケイトンはゆっくりと立ち上がると、深く頭を下げた。
「この老いぼれにできることがあれば、何でもお申しつけください。街の者にも、私から話を通します」
朝が来る前、ミアはうなされていた。
夢の中。広場の中心に立っていた。石畳の下から冷たい声が湧き上がる。
『無理だ、やめろ』
『わがまま王女に何ができる』
『この哀れな道化が!』
『王国の恥さらしだ』
『生きてる価値もない』
無数の視線に追い詰められ、ミアはひとり、その場に蹲る。身体が動かない。何も聞きたくない。耳を塞ぐ。
すると、声がした。
『だから言ったでしょ? あなたには無理だって』
『言うことを聞かないから、こうなったのよ?』
『これが罰よ』
『お前のせいで、私の人生は台無しになったのだから!』
亡き母だった。
もういないはずの人が、冷たい瞳でミアを見下ろしている。懐かしくて、怖ろしい声。心が壊れていく。
ミアは、さらに蹲って小さくなった。
それを押し潰すかのように、母ローラの影が迫りくる。すると、凍った足の氷が一気に喉元まで這い上がってきた。
息ができない。胸が苦しい。声が出せない。
——このままじゃ、死ぬ……。
そう思った瞬間、どこかで笑い声がした。
女の声。冷たく、嘲る、氷の魔女の声。
ミアは飛び起きた。
——夢だったの……?
いや、苦しい。息が吸えない。何が起きてるの?
ミアは気づかぬまま、自らの両手で自分自身の首を締め上げていた。
もしかしてアワにかけてもらった魔法が解けている⁈ 氷の魔女は、欲望に付け入って侵食してくると聞いていた。何かを求める心がある限り、不安はつきまとうもの。
もう……だめ。苦しい。死んでしまう——そんな言葉が、頭の中で何度も反響した。
不安と恐怖に苛まれ、呼吸ができないミアの意識は、涙を浮かべたまま次第に遠のいていく。
半ば諦めかけたその時だった。
どかん! と、勢いよく扉が叩き開けられた。ただならぬ異変を察知して駆け込んできたヘッラの、足音が床を打つ。
「——姫様っ! 何してるんですか!」
血相を変えたヘッラの叫びが、室内に響いた。その目に映ったのは、自分の両手で首を締めているミアの姿だ。
「だめです! 早く離してくださいっ!」
急いでヘッラはミアの手を振りほどいた。
ミアは息を何回も吸ったり吐いたりと、過呼吸の状態に陥っている。目も焦点を結んでいない。
ヘッラが、そのままの勢いでカーテンを一気に引き、朝の光が、まっすぐ差し込んだ。
「……ヘッラ?」
その光によって、ようやくミアは正気を取り戻した。心臓の鼓動を、ひとつひとつ確かめるように、ゆっくりと呼吸を続けた。
側に駆け寄ったヘッラは、その震える肩を抱きしめた。
「……そうね、夢だったのね」
そのぬくもりに触れ、ようやくミアは、今が夢ではないと知る。
「よかった……」
咄嗟にミアは手首を握りしめていた。
アワにもらったブレスレット。水色の石。何かを繋ぎとめるように、必死でそれを握った。
ミアの頬を、また一筋、涙が伝った。
身支度を終え、屋敷の前に止められた馬車へ乗り込んだ。
陽はまだ高くない。朝靄の残るなか、車輪の音だけが静かに刻んでいく。時おり吹きつける強い風が、不気味に馬車を揺らした。
ヘッラは言った。
「姫様……本当に、行かれるのですか? やはり別の日に改めた方が」
ミアの顔色はすぐれない。また以前と同じだった。暗闇のなかへ、ひとり放り込まれた子供のような顔をしていた。
向かいの席で、ヘッラから事情を聞いていたアロスも、深く息をつきながら口を開いた。
「我々は姫様の意思を尊重いたしますが、どうか、ご無理のないように」
このやり取りは、屋敷を出る前から、三人の間で幾度となく繰り返されていたことだった。
けれどミアの返答は「大丈夫よ」と、一貫して変わらなかった。
揺れる馬車の中、ミアは窓の外へあえて目を向けようとしなかった。どうして今日という日に限って、あんな夢を見たのか。今、引き返してしまえば、きっと自分は前へ進めなくなる。そんな気がしていた。
広場の鐘が、遠くで一度、鳴った。




