ep.20
夢を見ていた。
はっきりと内容を覚えているわけではなかったが、まだ耳の奥に冷たい声が残っていた。誰かに責められるような、否定されるような言葉の数々。囁きのような、けれど妙に澄んだ女の声。
アワがやってくる前の死にたかったミアが、何度も苦しめられてきた夢だ。もしかしたら、この女が魔女なのかもしれない。
朝の光が天蓋越しに差し込むなか、カーテンが緩やかに揺れていた。
右手で、そっと手首に触れる。水色の小さな石が連なったブレスレットは、ミアにとって心のよりどころとなっていた。
ヘッラを呼び、身支度を終えてから車椅子に乗ると、アロスが顔を見せた。
「おはようございます、姫様。……よろしいですか。例の、民たちの件でございます」
アワがアルベルサ領国へ発った後、ミアは自分なりにやるべきことを模索していた。王女としてやれること。何かしていないと落ち着かないのもある。
報告を受け、ミアは訊いた。
「この際、民にお金を配るのは、どお?」
ララポルトの貧困問題は深刻だった。
「姫様。その様なことをしたら貴族の反発が凄まじいものとなるでしょう」
「だったら、スラティハール家の食料庫を開放しては?」
「そんなことをしたら、食料はすぐに底をつきます。それに、他の地域の国民が黙っていないでしょう」
ミアは眉をひそめる。いつも目の前に立ちはだかるのは王族、貴族。
「いっそ、王侯貴族制度を廃止しましょうかしら?」
苦笑いのアロス。
「仮に強行したとしても、アルベルサ領国の王が黙ってないでしょう。今や裏で、ヴェルディナの半分以上の勢力を手中に収めているとの噂です」
バルドゥル・マーフォリア。もはや王国の王座を、公然と狙っているのは周知の事実だ。
「……鉄道建設は?」
「いまだ、民の反対が根強いです」
思った以上に難しい。民のためにと願って、エリディオ国への鉄道を通そうとしているのに。
「わかったわ」
窓の外に目をやりながら、ミアは静かに訊ねた。
「だったら、王子の件は?」
アロスは一歩前へ出て、恭しく頭を下げる。
「はい。それなら予定通りのご到着かと存じます」
その日の午後——。
エリディオ国の王子が、スラティハール家の屋敷を訪れた。
応接室の扉の向こうに現れたのは、ベクトール・エリディオ。数人の従者を伴っている。年の頃は二十前後。そう事前に聞いていた。
「お目にかかれて光栄です。ヴェルディナ王国第一王女殿下、ミア様」
言葉は儀礼通り、仕草にも無駄がなかった。
艶やかな黒革の靴と、よく仕立てられた高襟の礼装からは、年齢以上の威厳を感じる。第二王子が病死し、今や唯一の王子。その事実が、彼の人柄に影響しているのかもしれない。
顔立ちから全てが彫刻のように整った男は、その場の空気に緊張感を漂わせていた。
連れた従者たちは、一礼すると室内の壁際で控えた。アロスもまた、倣ってミアと距離を取った。
長旅を労ってから、簡単に挨拶を済ませると、ミアはわずかに微笑んだ。
「ミアで構いませんわ。堅苦しいのは、あまり得意ではございませんので」
「かしこまりました。……では、ミア様」
ベクトールの視線が、そっと落ちた。車椅子と、布で覆われたミアの足元の違和感。瞬時に、何かただならぬ陰鬱な予兆を感じつつも、表情にそれを映すことはなかった。
「ベクトール様、ずいぶんと久しいことでしたわね」
そう言いながら、ミアは三国が国交を結んだ頃を思い出していた。十年ほど前……彼とはその時に会ったきりだ。
まだ読み書きも満足にできなかった歳頃ではあったが、お互い新しい国を想う同志たちの顔合わせのことを、ミアは鮮明に記憶していた。
「はい、久方ぶりの再会、心より嬉しく存じます。噂には伺っておりましたが、お身体の調子は、まだ……」
「そうですの。ですが、この通り公務には支障ございませんわ」
背筋を伸ばし、声に迷いはなかった。
「いかなる事情があっても、果たすべき務めは変わりませんわ」
ミアの毅然たる態度は王国のため。
「……さようでございますか」
触れたら刺さりそうだ。彫刻男が頷くと、黒々と跳ね返った髪が揺れる。その目は、どこか思案の色を含んでいる。
ベクトールは、一拍の間を置いて切り出した。
「本日は、鉄道計画についてご意見を賜りたく伺いました」
「ええ。アロスから概要は聞いておりますわ」
「我が国としても、ララポルトへの路線は極めて重要な懸案と考えております。国民の理解も得られております。ですが——」
少し言い淀んでから、ベクトールは慎重に続けた。
「ララポルトの住民が、鉄道建設に難色を示しているのだとか?」
「おっしゃる通りですわ」
言って少し考え込んだものの、ミアはゆっくりと声にした。
「けれど、時間をかけて説明すれば、きっと納得していただけると思っております」
その声には、ためらいの色はなかった。
「それならば……我が国としては、予定どおり事を進めさせていただきます。ですが、もうひとつ——懸念があります」
ベクトールはそこで言葉を区切った。深くは語らず、ミアに視線を向ける。
「本日は、その件も兼ねて参った次第です」
ベクトールたちが去った後も、屋敷にはまだ余韻が残っていた。
肩の荷が下りたのか、ミアはため息をひとつ落とし、アロスの方へ目を向けた。
「……堅物だったわね。真面目な方だったわ」
「はい。ベクトール殿下は、エリディオの中でも群を抜いて評判の良いお方です。厳格で、理に偏りすぎず、決断力にも長けておられるとか」
ミアは車椅子の背に体を預けながら、もう一度アロスを見た。
「それで……説明してくれる?」
アロスは言葉を探すように目を伏せてから、説明した。
その内容に、ミアは息を呑んだ。
「今やエリディオの幻獣の角は、王国内で宝石よりも価値があるとも言われ、闇取引されています」
選びながら発された言葉は、どれも重い。
目を伏せたまま、肘掛けに置いた指先に力が入る。沈黙の内にある心の動揺。まさか、王侯貴族の間で、そんなことが。
ミアは、次に何を言うべきか、口を開くことさえ忘れていた。
「……根が深そうね、この問題は」
小さく響いた。かろうじて絞り出すような声が。
次の日、ミアは行動に移す。
車輪の音が止まり、それを合図のように感じた。
馬車の窓の向こうで、人々が忙しなく行き交っているのが見える。自分はこれから、あの中へ……そう考えると、怖い、まずそれが思い浮かんだ。
行くと決めたのは自分だった。
「姫様……」
アロスの声が、思いのほか近くにあった。
「本当によろしいのですか?」
問いに、すぐには答えられない。
返す言葉を探しているうちに、隣でヘッラが口を開いた。
「姫様。また、後日にされた方がよろしいのでは?」
そっと、ヘッラの手がミアの手に重ねられる。声も所作も、いつになく静かで優しかった。
ミアは目を伏せたまま、片手でそのぬくもりを握り返した。息を吐くと、胸の奥に溜まったものが、少しだけ和らいだ。
ララポルトの街の現状を、この目で見たかった。自分で見なければわからない。
この目で、自らの肌で感じるしかない、そう思って来たのだ。この震える脚を、人目に晒すことになっても。
「行くわ、アロス。お願い」
そう言って、ミアはゆっくりと身体を起こした。
ララポルトの街は、想像よりも荒れていた。
閉ざされた扉。人影のまばらな市場。品揃えもまばらで、古びた布と干からびた根菜が、小さな台に無言で並べられたままだ。
通りには、子どもたちの姿が目についた。まだあどけなさを残した小さな手が、荷を運び、声を張り上げて品を売っている。大人に代わって働く子どもたちの数が、あまりにも多い。
ここには、かつて知っていた豊かさの影もない。
ミアが自らの手で車椅子を前へ進めていると、心ない声が幾つか耳に入ってくる。
「え、車椅子……?」「そこまで悪いとは……」「好き勝手やった罰だろ?」「当然の報いさ」
視線が集まることもまた、最初から覚悟していたはずだった。王女が街に出れば、それだけで人目を引く。この姿であればなおさらだ。
それでも、やっぱり堪える。平常心を保てるわけがない。自分はこんなにも嫌われていたのだ。




