ep.2
煌びやかな灯りが磨き上げられた大理石の床に揺れ、天井から吊るされたガラス細工のシャンデリアは、まるで星屑の巣のように輝く。壁にはマーフォリア家の伝統刺繍が誇らしげに飾られていた。
アルベルサ広域を結ぶ鉄道の完成を祝う記念夜会。
南のヴェルディナと、北のアルベルサ、かつて血を流しあった二つの地だったが、今では誰の許可を得るでもなく、大々的に交易で結ばれている。
されどこのふたりにとっては、その永劫にも似て続く十年の友交すら、なき事象に過ぎなかったが。
「まあ、あちらにいらっしゃるのは、ミア姫殿下。今日のドレスは随分とお控えめね。……お母上のご趣味かしら?」
春の陽射しをたっぷり浴びた蜂蜜のような茶髪を編み上げ、青緑の宝石が輝くドレス。白磁のように滑らかな肌に、瞳はまるで翡翠。
アルベルサ領主の娘。ジナイーダ・マーフォリア。彼女は完璧な造形の中に、冷ややかな誇りを湛えていた。
わざとらしいその声を背に受けながら、ミアはゆっくりと振り返り、唇だけで笑った。やや控えめな薄藍のドレスは、今日の主役への配慮だった。
「まあ、聞こえてしまいましたわ。ジナイーダ姫。まずは——十五歳のお誕生日、おめでとうございます」
夜会は、ジナイーダの誕生会も含んでいた。
先ず三カ月ほど前に、十五を迎えていたミアは、微笑みの奥に、ほんの僅かな棘を忍ばせている。
「お心遣い、恐れ入りますわ。けれど……そちらこそ、ご自分の生誕祝いと勘違いなさっているのではなくて?」
側にいた取り巻きの女が、クスクスと笑い援護するが、彼女は主役気取りのミアの振る舞いに嫉妬していた。
「それにしても、ミア様のドレス……貴族の奥様方が窓拭きに使ってそうな生地ですこと」
「まあ、それは……貴族の家計によっては、窓拭きすらも贅沢なのかもしれませんものね」
ミアは現在の両国の関係値に憤りを感じていた。両国を統一したのは、紛れもなく先代のヴェルディナ王である。
ミアの視線が、ジナイーダのドレスに落ちる。
「その色、珍しいですわね。……エメラルドグリーン? それとも、かつて栄えた王女の嫉妬の涙かしら?」
「お気になさらず。嫉妬なさる方が多い色ですの」
「ええ、もちろん。嫉妬はたいてい、隠せない方がするものですから」
ジナイーダの笑みがぴたりと止まる。
「先日、父が陛下より褒賞を賜りましたの。鉄道建設の成功を称えてですわ」
「まあ、それは素晴らしいことですわ。陛下の御心の広さには、いつも感服しておりますの。——臣下の働きに、王家の名を添えてくださるご配慮など特に」
「王家の影に隠れてばかりでは、誇りも育ちませんわよ」
手にしていた扇子を、ミアは肩に軽く当て、微笑みを浮かべながら、埃を払うような素振りを見せた。
「では、陰のない場所で育った方は、こうも根性が曲がるのかしら」
場の空気が凍りかけるなか、ジナイーダが一歩踏み出す。
「今宵の最初のワルツは、当然わたくしが——」
「あら、そうですの? それはおかしいですわね。主役は鉄道か、あなたか、はっきりなさいな。まさか、レールの上で踊るつもりじゃないでしょうね?」
「ええ、ご安心あそばせ。わたくし、鉄のレールなんか踏まなくても華麗に踊れますの。……そちらこそ、陛下に踏切でも作っていただいたらよろしいのでは?」
「あら、お上手ですわね」
ミアは笑って続けた。
「さすがはジナイーダ姫。品位、教養、血筋。そして……高潔な嫉妬心。素敵ですわ」
「嫉妬? わたくしが、あなたに?」
「ええ、だって、目がずっとこちらにございますもの」
次の瞬間だった。堪らずジナイーダの指がミアの髪の毛にかかる。
「この髪、本当に自前? まるで干し草のようですわね」
「まあ、あなたこそ。その香水、どこの馬車小屋で仕入れたの?」
ミアも負けじと手を伸ばし、相手の胸元に飾られた宝石のブローチをひき剥がしかけた。
二人の間に緊張の空気が走る。小さな悲鳴が周囲から洩れ、ドレスの裾が風のようにひるがえった。
ジナイーダがぐっとミアの袖をつかんだ。ミアも即座に応じて、その手を払いのける。
「——あら、ほんと手癖が悪いのね。育ちが出るわ」
「失礼なっ……!」
ミアのドレスの裾が引かれ、金糸が千切れた音が響いた。
「姫様っ、おやめくださいっ!」
割って入ったのは、ミアの従者・アロスだった。年老いたとはいえ、その動きにはいまだ剣士の気配が残っていた。
かけた眼鏡を光らせ、二人の間にすっと立ちふさがるようにして、ミアの肩へと手を置く。
「ここは各面々のお方々のお目にも触れる場。……どうか、冷静になられませ」
目は静かにミアを見据え、まるで娘に言い聞かせる父のように、軽くその腕に触れた。
ジナイーダは鼻で笑い、ミアはふいっと目を逸らし、アロスに促されながらその場を離れる。夜会の灯火は変わらず煌びやかで、音楽も絶えず続いていた。
だが——確かに、何かが。
見えない幕の裏で、背筋が凍るような何かが、確かに蠢いていた。
それは彼女が、数歩も歩かぬうちに起こった。
「……っ!」
ミアは突然、崩れ落ちた。膝から力が抜け、床へと倒れこむ。
広間のざわめきが波紋のように広がる。
舞踏の音は途切れ、誰かが椅子を倒した音が響いた。
「ミア様!」
アロスがすぐに駆け寄る。
ミアはうずくまり、右足を押さえていた。白い靄のようなものがふわりと立ちのぼっている。
冷気ではない。けれど、異様なほどの冷たさが、ミアの足元から空気に滲みはじめていた。
「な……に、これ……?」
ミアの指先が震える。
その手が、足に触れたときの冷たさは、雪をも超える。それは、まだ氷にはなっていない。けれど、確かにそこに、『何か』が芽吹いている。
誰もが息を呑んだその時。
遠く、宴のざわめきの奥——音楽の影に、微かに重なる声があった。
女の歌声。
透き通るように美しく、けれど、どこか人の声とは思えない冷たさを含む。
誰のものかも、どこから響いたのかもわからない。
ただその声は、確かにそこにいた。
♩
ル、ラーララ……
ラーラララ……
ラ……
ラーラーラララー……
ラ
ララララー……
ラーラララ……
ル……ラ……
ラ……
ラ……
『嫉妬にかられた魔女』
ヴェルディナ暦五六六年。世界は凍った。
それは季節の仕業でも、天の怒りでもない。
——これは、呪いだ。
銀髪の魔女が、すべてを凍てつかせた。海は眠り、森は沈黙し、人々の祈りさえも、氷の底に閉ざされた。
信じられるだろうか? この氷は、絶望と愛の果てに生まれたということを。
かつて水と火の神々がこの世界を創り、その意思を継ぐふたりの魂が、新たな時代の境を越えようとしていた。
この記憶は、全てが凍る前の、尊き春の夜から始まる。
ミア・ヴェルディナ——
彼女の選択が、ひとつの国の、ひとつの世界の行方を変えた。
終わりと始まりは、いつも隣り合わせにある。