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魔女と足なし姫  作者: Y.Itoda
第三章 氷の死者
18/55

ep.17

 それはまるで、凍りついてしまいそうな静けさだった。

 扉の向こうには、誰もいない。天窓から降り注ぐ光が、ただ不気味に古びた石床を薄く照らしている。

 奥の長椅子には、黒ずくめの格好をした者が座っていた。頭のフードは被っていない。手を組み祈るような仕草のまま固まっていた。

 近づいて確認すると、ふくよかな体格の男は、凍りついていた。全身が氷の内側で滑らかに光っていた。


「言わんこっちゃね〜。やっぱ、コイツか……」


 テテポは呟いた。あの時の商人だ。顔がツルピカになってやがる。


「なんとか間に合ったな」


 低く響いたアワの声は、張り詰めた空気を助長させた。

 腐敗は始まっていない。 だが、氷の表面は、今にも砕けそうなほど微かに鳴動していた。


「コイツ……ほんとの鉄仮面になっちまったな」


 テテポの声にも、もはや余裕はなかった。

 アワは氷にそっと手を添えた。

 その時だ。

 凍った男の記憶が、静かな波のように、いくつもの映像として脳裏に飛び込んできた。

 氷の森に咲いていた、小さな氷の花。それを採って、笑っていた男の顔。額には脂汗が滲み、歯を見せて喋っていた。ヴェルディナ王都の市場の隅。凍った花を並べ、人々に売りつけていた姿。

 キーキ村へ戻ったときには、左手から肩にかけて、凍結が始まっていた。なのに男は気にも留めず、再び馬車を走らせた。私利私欲に、商売を続けることしか考えていなかった。

 アワは、静かに眉根を寄せた。

 この男だった。ミアは王都の市場で、氷の花を買っていたのだ。


「……何か見えたのか?」


 テテポが訊いて、アナトリーも声を上げた。


「どうしたっ。何かわかったのか? この男は完全に死んでいるのか?」

「はい。もう手遅れです」


 アワは、アナトリーと側近を外へ避難させようと思った。


「ここは危険です。外へ——」


 そう言いかけた瞬間だ。ぴしりと軋む音がして、辺りに寒気が走った。

 死者の左手が、ほんのわずかに震えたかと思えば、次の瞬間には、その手が突き刺さるように伸びた。

 氷の死者が無言で、確かな意思をもってアワの喉元を締め上げる。


「おい、アワ!」


 テテポが飛び跳ねる。

 凍った指が、まるで命を取り戻したように、首を掴んでいた。

 アワの体がぐらついて、足元が浮く。喉を締め上げる力は異常だった。肉体の重みではない。

 死者の唇が震えている。漏れるように声が聞こえた。


「……わらわの……邪魔を……するな……」


 氷の魔女の声だ。

 ところどころ欠けた言葉は、声を継ぎ接ぎしたように歪んでいた。

  アワは抵抗を試みるも、声が出なかった。喉元の氷がさらに締まっていく。


「何だ⁈ こいつはっ!」


 アナトリーの声と連動するように、金属の擦れる音が走った。躊躇(ちゅうちょ)なく抜かれた剣は、死者の腕を狙い一太刀で断ち落とした。

 首を締め上げていた手は、床に落ちてから散っていく。

 アワは膝をつき、肩で息を吸った。必死に呼吸を整えながら、すぐに顔を上げ、立ち上がる。この粒子を吸ったらまずいっ。

 両の掌が、空をすくうように持ち上げ、そこに、水が現れた。空気のなかで揺れる薄い膜のような水が、やがて死者の一角を包み込む。


「ここは危険ですっ、外へ! 早く」


 その言葉には、明らかな焦燥を含んでいた。

 アナトリーは確かに感じ取っていた。初めて目の当たりにした魔法によって、築き上げてきた常識の土台が、音もなく揺るがせていくのを。



 死者の処置を終え、聖堂の扉が閉じられた。

 アナトリーは、佇むアワに近づいた。


「……アワ殿。詳しく、説明してくれるか?」


 努めて平静を保とうとする気配だったが、それとは裏腹に、隠しきれない焦りが見て取れた。

 詳細を聞き、アナトリーは驚愕(きょうがく)した。魔女の呪い。そして、ベルー国はもう存在しないと。


「——ちょっと待ってくれ。となると、キーキ村も危険ではないか?」

「早急に避難させた方が、賢明かと」


 アワは、ひとつの疑問をぶつけた。


「それよりも、アナトリー様。北部調査の際、氷の森には……?」


 アナトリーはすぐに答えた。


「心配はいらない。粒子を吸った者はいないはずだ。危険を察知した我々は、立ち入る前に早急に退却したからな」

「……そうですか。それなら」


 こわばっていたアワの肩が、少し緩まった。

 聖堂に、夕陽が赤く差し込んでいた。高い塔の影が、ふたりの足元に伸びていた。


「アワ殿、今夜の寝所は?」


 アワは首を横に振る。


「まだ、決めていません」

「なら、しばらく王宮に泊まるといい。調査にぜひ、協力してもらいたい」



 再びアルベルサ王宮へ戻った。

 窓の外は、まもなく日没を迎える。アナトリーは机に向かい、羽根ペンを手に、淡々と報告書を(つづ)っていた。


「それで、その氷の死者と付き添っていた者の居所は?」


 調査員の男は、姿勢を正して報告する。


「目撃者を見つけたので早急に見つけ出せるかと」

「わかった、よろしく頼む。もう行っていいぞ」


 男が部屋を後にしてからも、筆先は迷いなく進み、聖堂での出来事を淡々と記録へと置き換えていく。


「アワ殿、申し訳ない。待たせてしまって」


 アナトリーは一息つき、手を止めた。


「もうすぐ王宮を案内する者が来るはずだ」

「……早くしてくんねーかな」


 ため息混じりのテテポの声は、どこか不機嫌だ。

 すると、叩かれてから、扉が開く。現れたのは、王に仕える老臣のひとり、ヴォルフだった。

 男は、厚手の外套(がいとう)に身を包み、骨ばった指で杖を握っていた。その眼差は、民草を見下すような冷たさを含んでいる。


「この件、外部に漏れる前に、速やかに収束を」


 アナトリーの視線がゆるやかに上がる。


「……それは、王命か?」


 ヴォルフは口元に笑みのようなものを浮かべたが、その目は曇ったままだった。


「陛下の内なる御心を代弁できるのは、限られた者のみでしょう」


 はぐらかすような口ぶりに、アナトリーは眉をひそめた。疑問が湧いた。ヴォルフ単体で動いている理由。父上の命なしに俺の前に現れる理由は何か。


「ヴォルフ、下がれ。この件は俺の方から王に報告する」


 それ以上は何も言わず、アナトリーは机上の紙に目を戻した。

 と、その時。控えめに、扉が二度、叩かれた。

 まもなくして、扉がゆっくりと開かれると、陽の名残を纏った光の中から、ひとつの姿が浮かび上がった。

 淡いチェックの布地にレースの裾がそよぎ、胸元には大きなリボンが揺れる。高く結い上げた頭に輝く髪飾りは、まるで絵物語の一頁から抜け出したようだ。


「あ、アワ様。ご無沙汰してますおります」


 ジナイーダ・マーフォリアが、小さく礼を添えながら歩み寄ると、部屋の空気は、一気にふわりと和らいだ。

 テテポは舌打ちをしているが。


「お兄様。アワ様がいらしていると伺って」


 視線がまっすぐ、アワのもとへ向けられる。


「……あの節は、ありがとうございました」


 ジナイーダは穏やかに微笑む。


「ミア様のご体調、快方へ向かわれていると噂で伺いましたわ」


 小さく、はい、と頷くアワを見るジナイーダの表情は、ご満悦だ。

 だが、ジナイーダの視線はふと横へ逸れ、室内に残るもうひとりの人物を見つけてしまう。

  ヴォルフを視界にとらえた途端、その口元から笑みがすっと引いた。


「まあ……ヴォルフ。あなたがお兄様の元へやってくるとは、珍しいことですわね?」


 あきらかに言葉の調子が変わった。


「また何か、良からぬことを模索しているのではなくて?」


 冷えた調子に、心底この男を毛嫌いしているのがわかった。


「随分と、陰気な空気が漂っていると思いましたの」


 ジナイーダは、わざとらしく咳き込む。

 ヴォルフが口を開こうとすると、扇子を軽やかに広げる。まるで悪臭を払うよな仕草を見せ、明確な拒絶を示す。


「部屋の空気が腐る前に、とっとと出て行ってくださいませんこと?」


 アナトリーはそのやりとりに口を挟もうとしたが、ためらうように声を呑みこんだ。妹がこういう時、何を言っても無駄であることを、よく知っていた。

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