ep.17
それはまるで、凍りついてしまいそうな静けさだった。
扉の向こうには、誰もいない。天窓から降り注ぐ光が、ただ不気味に古びた石床を薄く照らしている。
奥の長椅子には、黒ずくめの格好をした者が座っていた。頭のフードは被っていない。手を組み祈るような仕草のまま固まっていた。
近づいて確認すると、ふくよかな体格の男は、凍りついていた。全身が氷の内側で滑らかに光っていた。
「言わんこっちゃね〜。やっぱ、コイツか……」
テテポは呟いた。あの時の商人だ。顔がツルピカになってやがる。
「なんとか間に合ったな」
低く響いたアワの声は、張り詰めた空気を助長させた。
腐敗は始まっていない。 だが、氷の表面は、今にも砕けそうなほど微かに鳴動していた。
「コイツ……ほんとの鉄仮面になっちまったな」
テテポの声にも、もはや余裕はなかった。
アワは氷にそっと手を添えた。
その時だ。
凍った男の記憶が、静かな波のように、いくつもの映像として脳裏に飛び込んできた。
氷の森に咲いていた、小さな氷の花。それを採って、笑っていた男の顔。額には脂汗が滲み、歯を見せて喋っていた。ヴェルディナ王都の市場の隅。凍った花を並べ、人々に売りつけていた姿。
キーキ村へ戻ったときには、左手から肩にかけて、凍結が始まっていた。なのに男は気にも留めず、再び馬車を走らせた。私利私欲に、商売を続けることしか考えていなかった。
アワは、静かに眉根を寄せた。
この男だった。ミアは王都の市場で、氷の花を買っていたのだ。
「……何か見えたのか?」
テテポが訊いて、アナトリーも声を上げた。
「どうしたっ。何かわかったのか? この男は完全に死んでいるのか?」
「はい。もう手遅れです」
アワは、アナトリーと側近を外へ避難させようと思った。
「ここは危険です。外へ——」
そう言いかけた瞬間だ。ぴしりと軋む音がして、辺りに寒気が走った。
死者の左手が、ほんのわずかに震えたかと思えば、次の瞬間には、その手が突き刺さるように伸びた。
氷の死者が無言で、確かな意思をもってアワの喉元を締め上げる。
「おい、アワ!」
テテポが飛び跳ねる。
凍った指が、まるで命を取り戻したように、首を掴んでいた。
アワの体がぐらついて、足元が浮く。喉を締め上げる力は異常だった。肉体の重みではない。
死者の唇が震えている。漏れるように声が聞こえた。
「……わらわの……邪魔を……するな……」
氷の魔女の声だ。
ところどころ欠けた言葉は、声を継ぎ接ぎしたように歪んでいた。
アワは抵抗を試みるも、声が出なかった。喉元の氷がさらに締まっていく。
「何だ⁈ こいつはっ!」
アナトリーの声と連動するように、金属の擦れる音が走った。躊躇なく抜かれた剣は、死者の腕を狙い一太刀で断ち落とした。
首を締め上げていた手は、床に落ちてから散っていく。
アワは膝をつき、肩で息を吸った。必死に呼吸を整えながら、すぐに顔を上げ、立ち上がる。この粒子を吸ったらまずいっ。
両の掌が、空をすくうように持ち上げ、そこに、水が現れた。空気のなかで揺れる薄い膜のような水が、やがて死者の一角を包み込む。
「ここは危険ですっ、外へ! 早く」
その言葉には、明らかな焦燥を含んでいた。
アナトリーは確かに感じ取っていた。初めて目の当たりにした魔法によって、築き上げてきた常識の土台が、音もなく揺るがせていくのを。
死者の処置を終え、聖堂の扉が閉じられた。
アナトリーは、佇むアワに近づいた。
「……アワ殿。詳しく、説明してくれるか?」
努めて平静を保とうとする気配だったが、それとは裏腹に、隠しきれない焦りが見て取れた。
詳細を聞き、アナトリーは驚愕した。魔女の呪い。そして、ベルー国はもう存在しないと。
「——ちょっと待ってくれ。となると、キーキ村も危険ではないか?」
「早急に避難させた方が、賢明かと」
アワは、ひとつの疑問をぶつけた。
「それよりも、アナトリー様。北部調査の際、氷の森には……?」
アナトリーはすぐに答えた。
「心配はいらない。粒子を吸った者はいないはずだ。危険を察知した我々は、立ち入る前に早急に退却したからな」
「……そうですか。それなら」
こわばっていたアワの肩が、少し緩まった。
聖堂に、夕陽が赤く差し込んでいた。高い塔の影が、ふたりの足元に伸びていた。
「アワ殿、今夜の寝所は?」
アワは首を横に振る。
「まだ、決めていません」
「なら、しばらく王宮に泊まるといい。調査にぜひ、協力してもらいたい」
再びアルベルサ王宮へ戻った。
窓の外は、まもなく日没を迎える。アナトリーは机に向かい、羽根ペンを手に、淡々と報告書を綴っていた。
「それで、その氷の死者と付き添っていた者の居所は?」
調査員の男は、姿勢を正して報告する。
「目撃者を見つけたので早急に見つけ出せるかと」
「わかった、よろしく頼む。もう行っていいぞ」
男が部屋を後にしてからも、筆先は迷いなく進み、聖堂での出来事を淡々と記録へと置き換えていく。
「アワ殿、申し訳ない。待たせてしまって」
アナトリーは一息つき、手を止めた。
「もうすぐ王宮を案内する者が来るはずだ」
「……早くしてくんねーかな」
ため息混じりのテテポの声は、どこか不機嫌だ。
すると、叩かれてから、扉が開く。現れたのは、王に仕える老臣のひとり、ヴォルフだった。
男は、厚手の外套に身を包み、骨ばった指で杖を握っていた。その眼差は、民草を見下すような冷たさを含んでいる。
「この件、外部に漏れる前に、速やかに収束を」
アナトリーの視線がゆるやかに上がる。
「……それは、王命か?」
ヴォルフは口元に笑みのようなものを浮かべたが、その目は曇ったままだった。
「陛下の内なる御心を代弁できるのは、限られた者のみでしょう」
はぐらかすような口ぶりに、アナトリーは眉をひそめた。疑問が湧いた。ヴォルフ単体で動いている理由。父上の命なしに俺の前に現れる理由は何か。
「ヴォルフ、下がれ。この件は俺の方から王に報告する」
それ以上は何も言わず、アナトリーは机上の紙に目を戻した。
と、その時。控えめに、扉が二度、叩かれた。
まもなくして、扉がゆっくりと開かれると、陽の名残を纏った光の中から、ひとつの姿が浮かび上がった。
淡いチェックの布地にレースの裾がそよぎ、胸元には大きなリボンが揺れる。高く結い上げた頭に輝く髪飾りは、まるで絵物語の一頁から抜け出したようだ。
「あ、アワ様。ご無沙汰してますおります」
ジナイーダ・マーフォリアが、小さく礼を添えながら歩み寄ると、部屋の空気は、一気にふわりと和らいだ。
テテポは舌打ちをしているが。
「お兄様。アワ様がいらしていると伺って」
視線がまっすぐ、アワのもとへ向けられる。
「……あの節は、ありがとうございました」
ジナイーダは穏やかに微笑む。
「ミア様のご体調、快方へ向かわれていると噂で伺いましたわ」
小さく、はい、と頷くアワを見るジナイーダの表情は、ご満悦だ。
だが、ジナイーダの視線はふと横へ逸れ、室内に残るもうひとりの人物を見つけてしまう。
ヴォルフを視界にとらえた途端、その口元から笑みがすっと引いた。
「まあ……ヴォルフ。あなたがお兄様の元へやってくるとは、珍しいことですわね?」
あきらかに言葉の調子が変わった。
「また何か、良からぬことを模索しているのではなくて?」
冷えた調子に、心底この男を毛嫌いしているのがわかった。
「随分と、陰気な空気が漂っていると思いましたの」
ジナイーダは、わざとらしく咳き込む。
ヴォルフが口を開こうとすると、扇子を軽やかに広げる。まるで悪臭を払うよな仕草を見せ、明確な拒絶を示す。
「部屋の空気が腐る前に、とっとと出て行ってくださいませんこと?」
アナトリーはそのやりとりに口を挟もうとしたが、ためらうように声を呑みこんだ。妹がこういう時、何を言っても無駄であることを、よく知っていた。