ep.16
圧巻の景色がそこにあった。
ずらりと並ぶ精緻な彫刻を施された建物に、水路を跨ぐアーチ橋。
「おっ、船が来るぞ⁈」
テテポの声に促されるように、水面を滑る船が、橋の下をくぐり抜けていく。
その瞬間、高くそびえる時計台の尖塔が夕暮れを告げ、道沿いの街灯が温かい光を灯し始めた。
「こいつら全員、何でこんなにせかせかしてんだ?」
広場では荷を担ぐ男たちが走り、道沿いには足場と布に覆われた新設中の塔が空を指していた。
「王都は今、開発ラッシュ真っ只中だからな」
アワの答えに、テテポは腑に落ちない様子だ。
水路では工事用の筏が資材を運び、石材が音を立てる。紳士やドレスを着た女たちの革靴の音は、煉瓦を削る音、怒声、笑い声に消えていく。どこか焦りの匂いがした。
「すっげえな……全部が動いてるみたいだ」
テテポは目をしばたかせ、視線を上げた。
その先、街の最奥の丘には、夕陽を受けた白亜の王宮がそびえていた。
今晩は宿で休むことにした。
外の喧騒を、厚い壁で遮られた部屋には、灯されたランプの光が、木の床を柔らかく照らしていた。
アワは窓際の椅子に腰掛け、窓の外の王宮を見つめていた。テテポはベッドに寝転がって、尻尾を忙しなく揺らしている。
「どう思う? テテポ」
氷漬けの死者についてだ。
「どうって、そりゃ……間違いなくヤバいだろ。序章の始まりみてーなもんだ」
アワは首を横に振った。
「そうじゃない。……何か、引っかかるんだ」
「何が?」
「キーキ村では、まだ被害は出ていなかった」
アワの声が低くなる。
「それを踏まえると、考えられる人物はひとり」
テテポは目を細める。
「あー、そーいうことな。あの商人って言いたいんだろ? 鉄仮面の、あいつ」
アワは無言で頷いた。
「それに……」
口を閉じかけたアワは、一呼吸おいてから続けた。
「ミア様は、どこで魔女の呪いを受けたんだ?」
「それな」
テテポの耳がもう一度ぴくりと揺れた。
翌朝、まだ霧の残る王都を発った。
馬車で丘陵を越え、列車を乗り継ぐ。車窓からは、畑、牧草地、の景色が背後へ消えていき、空は青く高いが、どこか静まり返っていた。
国境を越え、アルベルサ領内へと足を踏み入れると、再び列車に乗った。
次第に森が深くなる。空気に湿り気。木の根が道を這い、影は濃く、鳥の声も遠かった。
一日ちょっとだ。しばらく列車で過ごすと、領都が見えた。
駅を出ると、蒸気自動車の迎えが待っていた。
「お待ちしておりました。アワ様」
アルベルサの使者だ。男は間をおかずに言葉を続けた。
「早速ですが、アナトリー様がお待ちです。王宮へ急ぎましょう」
王宮の西棟、その一角にある執務室は、深い静けさに包まれていた。外はまだ霧が濃く、窓硝子に貼りつく水滴が、じわじわと下へ滑り落ちている。
重厚な絨毯に、古書がぎっしりと並ぶ書棚。木目の深い机の上には、封の破られた報告書がいくつも広げられていた。
アナトリーは、そのひとつを無言で見つめていた。その瞳は、暗い水底に沈んでいるようだった。
紙の上に記されたのは、異常な死。氷に包まれた遺体。血は流れず、肌には傷もない。それはまるで、眠っているようだったと。
淡い金色の混じる茶色い髪が、彼の指の間でくしゃりと乱れた。眉間に深く刻まれた皺が、抱える問題の重さを物語っている。
手を止め、アナトリーは背もたれに身を預けた。一体、何が起きてるんだ? 凍りついた森に続いて、死者までも。嫌な予感しかしない。
指先で机の縁を叩く音が、部屋に響く。
魔女の呪いのよう——文中に記されたその語句が、ずっと引っかかっていた。
そう言われれば納得できる。けれど、それは伝説にすぎない。それでも現に、凍った死体がある。魔法? そんなものが本当に? ……いや。ある、と聞いた。存在したと。
アナトリーは立ち上がり、窓の外を見やった。
扉を軽く叩く音がした。
「入れ」
声に応じて、ひとりの側近が静かに入室する。黒い装束の男の顔には皺が深く刻まれていた。
「まだ辺境の魔術師は来ないのか?」
「報告では、本日中に到着とのことです」
「そうか」
短い返事のなかに、苛立ちが見え隠れする。
「……アナトリーさま。北方の件、アルベルサ王には?」
「まだだ」
アナトリーは背もたれに体を預け、目を閉じた。
「——あの氷を、気候異常の一言で済ませられるなら、楽なのにな」
深い沈黙が場を支配し、ただ時計の針だけが、カチ、カチと規則的に時を刻んでいた。
「父上は?」
「本日は外交かと。たしかヴェルディナ国へ行くと聞いております」
アナトリーは立ち上がってマントを翻した。
「他には? 何か聞いてないか?」
側近は物おじしつつ、話を切り出した。
「言い訳はいい、貴様は結果を出す立場だ、森が凍ったなどと、戯言を抜かしている暇などない、ヴェルディナに後れを取るな、王都はさらに都市開発を進める計画だ」
まるで当人に直接言われているかのように聞こえた。容赦がない。刃のように冷たい言葉は、さらに続く。
「異常気象か何か知らぬが、行けぬなら、氷を焼き払ってでも進め、とのことでございます」
アルベルサ領国の王。バルドゥル・マーフォリア。
絶対の自信をまとった姿勢で、昨年、父王の崩御により即位したばかりだが、『新王』の面影は微塵も感じさせない男だった。
王国を変える男。強く、速く、現実的に。——彼を語る言葉は、常に力を含んでいた。
アナトリーは、眉を寄せた。父上がヴェルディナ……また、何かよからぬ事を企んでいなければいいのだが。
バルドゥルは、自らの陰謀によって、ヴェルディナの重要な要人らを失脚させた過去を持っていた。
ほどなくして、扉が叩かれる。どこか忙しない音から、予想はついた。
「入れ」
「アワ様が王宮に到着されました」
その瞬間、椅子の脚が音を立てた。
立ち上がったアナトリーは、机に広げた書類をそのままに足を運ぶ。
「客間を用意させろ。……すぐ向かう」
客間は北棟の中ほど、元は外交使節の応接用に設えられた部屋だった。
装飾は簡素で、壁には国章の織物がひとつだけある。東に見える大きな窓からは微かに陽が差していた。
アワたちは、すでに部屋にいた。
開いたままの扉から、アナトリーがやってくる。
「遠路はるばる感謝いたします。早速で申し訳ないが」
ふたりの視線が、短く交差した。名乗りも儀礼もない。ただ、それだけで十分だった。
「……話はあとだ」
アナトリーが言う。
「氷の死体を見てもらう」
それを聞いた従者が、すぐに馬車の用意へと走っていく。
聖堂の前に着いた時、空気が変わった。辺りの息が詰まるよう雰囲気に、テテポの鼻が、ぴくりとした。
街の通りから続く石畳はそこで途切れ、白い光が、建物の輪郭を淡く滲ませていた。高く伸びる天窓に、そびえる鐘楼、そして重々しい黒い扉。
静まり返ったそれらすべては、まるでアワたちの到着を待ち望んでいたかのように佇んで見えた。
周囲には数人の衛兵が立っていたが、誰も口を開こうとしなかった。目を逸らす者。足元を見つめる者。アナトリーの姿を見つけると、ひとりが慌てて敬礼をした。
「ご案内いたします、アナトリー様っ」
案内というには、早すぎる足取りだった。彼はまるで聖堂から遠ざかるように扉を開け、軽く頭を下げると、そのまま距離を取った。
無言でそれを見送ったアナトリーは、アワの方をちらと見る。
アワは変わらぬ無表情のまま、数歩前に出た。テテポがその肩で、耳をひくつかせている。
「入るぞ」
アナトリーの声は重かった。誰に言うでもなく、独り言のように。