ep.15
鉄道は、王国南部を斜めに横断している。
ララポルト発の列車は一日に二本。午後の便は夕刻に出発し、王都の中央駅には、丸二日かかる。小さな街をいくつも通過するが、降車する客はほとんどいない。
貨物輸送を主目的に敷設された路線だ。停車駅は倉庫や荷受場の近くばかりだった。景色は、緩やかな丘陵と広葉樹の森が、交互に繰り返していた。
窓を開けると、車内に吹き込む風に、次の季節の気配を感じる。草の色はまだ明るく、名も知れぬ白い花々が群れ咲いていた。
テテポはその窓辺にへばりついて、顔を風にさらしていた。
引きちぎれそうなほどに後ろへ耳をはためかせ、鼻は押しつぶされて左右に歪んでいる。見た目の滑稽さはともかく、本人は満足げだ。
「おっ。王都が見えてきたぞー! やっぱ、すげーなー! またデカい建物増えたんじゃねーか?」
アワは応えることもなく、黙って席に座っていた。
左の袖口から覗く手首には、細く繊細な天然石のブレスレットが幾つも巻かれている。水色に白、浅い紫を帯びた小ぶりの石が、静かに揺れていた。普段から身に付けているものだ。
これまで、幾つもの町を訪れ無数の別れを重ねてきた。けれど、こんなにも名残惜しいと思ったのは、初めてだった。
窓の外から、ゆっくりと姿を現し始めた王都の街並み。遠くの方で、石畳の道が縫うように続き、赤茶の屋根が重なるように並んでいる。教会の尖塔が空を裂き、アーチを描く橋の下には水路が流れている。
すべてが、柔らかな光の中で、絵本の挿絵のように静まり返っていた。
ミアの顔が思い浮かんだ。
最後に見た時の、あの穏やかな微笑み。
手を振る何気ない仕草も、鮮やかに思い出せた。別れは、驚くほどいつも通りで——
だからこそ、余計に、心に残っていた。
それは、いつものように足の治療を終えた、そんな普段と何ら変わりのない午後のことだった。
その日はあいにくの雨模様で、ささやかな談笑をしていた。その時、部屋の扉が静かに叩かれた。
「アワ様っ……少々、よろしいですか?」
アロスだった。
声の奥に何か隠されたものを感じて、ミアもふいに顔を上げた。不安の色が、そのまま目元に浮かんでいた。
ミアを残し、そのまま離れの小部屋へと場所を移した。テテポもふたりの後に続く。
石造りの廊下を抜け、薄暗い扉を開けると、そこにはすでに黒衣の使者がひとり、静かに待っていた。薄手のマントの下から、冷えた空気が滲み出るような男だった。
使者は礼をとると、早口で本題を口にした。
「至急、アルベルサ領へ向かっていただきたい。依頼主は、アナトリー・マーフォリア様です」
アロスの目が鋭くなる。領国の王子が何ゆえに。
「何があった?」
一瞬、使者は言葉を選ぶように黙り込んだが、やがて声を潜めて口にした。
「領都の聖堂で……凍りついた死者が発見されたとのことです。しかも、ただの凍死ではない。亡骸からは、この世のものとは思えぬ、魔法のような現象が見られるのです」
氷漬けの死者。それが何を意味するか——想像するには、あまりに嫌な符合だった。
部屋へ戻るとヘッラの姿もあった。
「アワ様。どうぞ、お座りになりますか?」
「ありがとうございます」
アワは、差し出された椅子に腰を下ろした。
ミアとはいうと、ベッドの背に体を預け、窓の外を見つめていた。じっと、雨上がりの空を眺め、思い返していた。初めてアワに会った日のこと。初めて魔法を目にした、あの日のことを。
徐々に差し込む光が、外の景色を染め上げていた。
気を利かせたヘッラは部屋を出ていく。やけに扉の音が重たく響いたあとに、声がした。
「……いつ、ララポルトを発つの?」
ミアは窓から目を離さぬまま訊ねた。
「明日の早朝には」
「ずいぶんと事を急ぐのね」
アワの様子から、ある程度のことは汲み取れた。事の大きさが。おそらく、今この瞬間が、別れの時なのだ。
いつもと違い彼女の口数が少ない。アワは「大丈夫です。どうか、心配しないでください」と、優しく言葉を重ねた。
「状況を把握したら、また戻ってきますから」
「本当に?」
「はい。約束します」
けれどミアは黙ったままだ。
アワにはすぐにわかった。機嫌が悪いのだと。何かあった時、頬をそらすその仕草は彼女の癖だ。
「それと足に施した魔法は、強化しておくのでしばらくは安心してください」
「……そうなの?」
ミアの視線を受けるように、アワは黙って側にいたテテポへと視線を移すが、当人は一瞬きょとんとしただけで目をそらした。
「おい、何だよ⁈ ……ちょっと待てって」
さらに、目で圧力をかけながらアワは声に出す。
「大丈夫だよな?」
やれやれとでも言いたげに、テテポは肩をすくめてため息をつく。
「あー、はいはい。わかった、わかった。おれがやりますよ」
不思議そうな顔をしているミアに気づいたアワは、はっとして言葉を続けた。
「安心してください。その効果が切れる前には、必ず戻ってきますから」
「ほんと?」
まだミアの表情は浮かない。アワはもう一度、ゆっくりと頷いた。
「必ず」
それでもミアの表情は晴れない。
見かねたアワは小さく息を吐くと、そっと自身の腕を差し出した。手首には、色とりどりの天然石のブレスレットが、いくつも巻かれている。
ミアの視線がそこに吸い寄せられる。いつも目にしていた物。その繊細な装身具の奥に秘められた意味を、彼女はまだ知らない。
「腕を、貸してもらえますか?」
その中のひとつを外したアワは、ミアの手首にブレスレットを巻いていく。
「この石たちは、古代からエリディオの人々の生活や信仰に根付いてきた、自然の産物です」
「綺麗ね……ずっと気になってたの」
「天然石には、いろいろな効果があるといわれています。気の小さいぼくは、つい付けすぎてしまうんですけど……」
アワがにこやかに微笑むと、ミアもふっと微笑んだ。この時やっと、アワの顔に安堵の色が差した。
水色のブレスレットを巻き終えたアワは、小さな石を指先で軽くなぞりながら言葉を並べた。
「これは、ぼくの魔力と相性がよく、ヒーリングの効果を込めてあります。不安や……魔女の呪いに心を蝕まれるようなことがあれば、この石を頼ってください」
ミアは少し頷いてから、もう片方の手でブレスレットをそっと包み込んだ。
「……わかったわ。ありがとう」
声は小さく聞こえたが、表情はすっかり変わっていた。王女の顔だった。ミアは必死に、揺れる感情をしまい込んでいた。
アワには、その微かに愁いを帯びた瞳を直視することができない。ミアの気持ちが痛いほど伝わってきていた。
だからこそ、アワは目元を緩めて、柔らかい声で言ってから立ち上がった。
「では、行きますね」
嘘ではない。けれど、本音でもなかった。
その言葉は、ただ彼女の不安を少しでも和らげるために選んだ——アワなりの祈りだった。
車輪がレールを擦る音が、車内に低く響いた。
列車は減速しながら、古びた石造りの駅に滑り込んでいく。その直前、遠くから一声、汽笛が鳴る。
細く長い音は、黄昏に染まる街へと消えていく。斜陽は、石畳の道と赤煉瓦の屋根を金色に染めていた。
「ひゅ〜、やっと着いたな!」
テテポはご機嫌だ。
列車が止まって、真っ先に飛び出したのはテテポだった。風に煽られて耳がひらひらと踊る。アワも無言で後に続いた。
目の前に広がるのは、ヴェルディナの王都だ。