ep.13
考え込んでから膝を曲げ、少年と視線を合わせたアワは優しく伝える。
「それは直接、謝ったほうがいい」
「うん。おれも、そうしたいと思ってた」
口をつぐんでいたテテポが、ふいに言葉を挟んだ。
「なあ、アワ。そいつにちょっと訊いてくれねえか?」
「どうした?」
アワが視線を向けると、テテポはしばし思案するように口を閉じた。屋敷での出来事だ。以前、アロスと使者が語っていたことが、頭の奥でじわりと蘇る。
アワはテテポの声を、淡々と少年に訊ねた。
「なぜ、鉄道建設に反対してたんだ?」
少年は首を傾げ、目を伏せて考えていた。
「……おれも、よくわかんない。でも、鉄道作る金があるなら、街に金かけろ、って、大人たちは言ってた」
ぴくりとテテポの耳が動いた。
「怪しいやつはいなかったか? ララポルトのやつじゃない、他所から来たっぽいやつ」
アワがそのまま訊ねると、少年は目を細めて考え込む。
そして、呟くように言った。
「……あー、いたかも。黒ずくめのおっさん。その人が先頭に立って、すごく張り切ってた気がする。顔はフードで見えなかったけど」
その言葉を聞いた瞬間、テテポは立ち上がって、アワの足を前足でぽんと叩いた。
「おい、アワ。……よし、それだ!」
次の日も、ミアの部屋で治療が行われた。
この時には、壊れた窓はすでに修理されており、清しい風が部屋のなかに流れ込んでいた。
治療を終えたミアは、いつものように森へと足を運ぶ。
その次の日も、そのまた次の日も同じだ。
そんな日々が続いたある日。
森で談笑していると、ある人影に気づいたアワは、何かを思い出したように静かに切り出した。
少年の話をする。確認を取るとミアは、いいわ、と短く頷いた。
アワが手引きすると、森の陰から、少年とその母親が姿を現した。
彼を見て、すぐに気づいたミアは、間を空けずに切り出した。
「覚えているわ。あの時の……」
「おれ、ミア様に謝りたくて」
「気にしないで」
あの時のことは、思うところがあった——
だからミアは、「ごめんね」と言ってから頭を下げた。自分のことばかり考えていた、傲慢さゆえ強引に事を急ぎすぎた。今振り返ると後悔しかない。
少年は首を横に振る。
「そんなことない。ミア様は悪くない。おれが悪いんだ。ごめんなさい」
目を伏せた少年の視線が、車椅子からミアの足元に落ちる。今日も靴下を履いている。……大丈夫? と、少年は小さく訊いた。
「どうかしら……?」
ミアは苦笑いを浮かべてから「私もわからないかな」と、微かに笑うと、「でも、負けてられないわ……」
そう言って、少年と視線を合わせた。
「お、おれ、ほんとは楽しみにしてるんだ。鉄道が通るの。エリディオに行ってみたいんだ!」
「でしょ?」
ミアはにっこりと笑った。
「私も行きたくてしょうがないのっ」
森の小径を、車椅子の軋む音が穏やかに響いていた。
二人は、先ほどの少年と重なるような話を交わしながら、ゆっくりと木洩れ日の中を進んでいく。
「……私、昔、アロスにひどいことをしたの」
アワは静かに耳を傾けていた。
「眼鏡を壊したの。気まぐれだったのよ。退屈だっただけ。だけど、それはアロスが、とっても大切にしていた物だった……」
ミアは、目を伏せた。
「でも、私は謝れなかった。叱られるのが怖かったから。それで結局、謝る機会をなくしてしまって……」
風が少し、枝葉を揺らす。
「さっきの少年。あんなふうに、ちゃんと伝えられるのって……すごいことだと思う」
しばし沈黙が流れたあと、アワが口元をほぐす。
「ぼくも、似たような話ありますよ」
顔を上げて振り返ったミアの金色の髪が、陽に透けふわりと輝いた。
「意外だわ。アワにも、そんな幼少期があったのね?」
「はいっ。ぼくは、母が大切にしていた薬草図鑑に、本物の葉っぱを貼りつけて困らせました」
ミアは吹き出した。何よりも、アワが気遣ってくれているのが嬉しい。きっと、私を笑わせてくれているのだ。
「ぼくは、ちゃんと謝りましたけどね。母は嬉しそうに微笑むだけでしたが」
風に混じって、小さな笑い声が森の奥へと流れていく。
アワは、変わらぬ手つきで車椅子を押しながら、ふと訊ねられる。
「ねえ、アワは……何歳なの?」
アワの眉がわずかに動いた。
「当ててみてください」
「それ、一番困る質問じゃない?」
ミアは笑いながら振り返り、アワの顔をじっと見た。
「……わかった、じゃあ……二十二歳!」
返事はない。
沈黙のなか、車椅子の車輪が砂利をかすめる音が、妙に哀愁を帯びて聞こえてくる。
「えっ……ごめんなさい。もっと上だった? 二十六とか?」
深いため息がひとつ。
アワは、わざとらしく肩を落として見せた。
「……十八です」
それから、ミアは一瞬きょとんとして笑い出した。
「なーんだ。私と大して変わらないのねっ。……ある意味、安心した!」
アワを疑問を浮かべた。ある意味? 何のことだろうか。内心で問いながらも、それは口に出さなかった。
代わりに、穏やかな調子で声に出した。
「ミア様も……いつか、アロスさんに謝れる日が来るといいですね」
森を渡る風が吹き抜ける。ふたりの間を、そっと距離を、縮めるようにして。
気がつけば、ひとつ季節が過ぎようとしていた。穏やかな日和だ。
屋敷では、ヘッラが鼻唄まじりにミアの部屋を掃除していた。窓は開け放たれ、風がカーテンを揺らしている。
開いたままの扉越しから、ふと声がかかった。
「ずいぶんとご機嫌だな」
振り向けば、アロスが廊下の奥からゆっくりと歩いてくるところだった。
ヘッラは少し恥ずかしそうに笑った。
「なんだか、姫様の上機嫌がうつってしまって」
「今日も、森か?」
「はい。今日も、お気に入りのペンダントをつけておいででしたよっ」
アロスは小さく目を細め、「そうか……」と口ずさんだ。
ヘッラはしばし迷ったあと、おずおずと問いかけた。
「ところで、お爺様。姫様は、これからどうなさるのでしょうか?」
アロスはその問いに、すぐには答えなかった。
ほんのひと息、言葉を飲み込んでから、静かに言った。
「それは、姫様が決めることだよ」
「そう……ですか」
ヘッラは小さく頷く。けれど、どこか希望を込めて付け加える。
「できれば……このまま病気が治って、姫様には、幸せになってほしいです」
「……そうだな」
言いかけた言葉をまたひとつ飲み込む。
——ここまま、平穏に、何も起きなければいいのだがな。
その隣では、アロスに同調するように、そうだな、とテテポも一緒になって頷いていた。
春の名残が、森の色に静かに見え隠れしていた。
森の小川のほとりに、敷かれた淡い色の布。その上に、ミアが丁寧に包んできた包みが置かれている。中には、ヘッラと一緒に作ったというサンドウィッチが、形よく並んでいる。
ふたりで並んで座り、ひとつを手に取ったアワは、ゆっくりとかじった。ふわりと香るのは、香草とバターだ。パンはしっとりとしていて、内側にはやわらかな蒸し鶏と、ルフェリナの花のペーストが塗られていた。
塩味と、花蜜のような甘みが、口の中でやさしくほどけた。
「これは、美味しいですっ」
その声に、ミアが嬉しそうに頷いた。
「ヘッラがすごいのよ。私は……挟んだだけ」
冗談めかすように言って、ミアはもうひとつのサンドウィッチを手に取った。
心地よい風が、森の葉をやわらかく揺らしている。
小川の水音が、遠い楽器のように耳を撫でていた。
「エリディオには、四季ってあるの?」
ふいに投げかけられた声に、アワは空を仰ぎながら答える。
「ありませんよ。はっきりとした四季は。でも、季節の変化はあります。乾季と雨季です」
「冬がないってことは……暖かいのよね?」
「はい。乾季は気温が高くて、湿度も低めです。雨季は少し気温が下がりますが、それでも過ごしやすいですよ。今ごろは……そうですね、ちょうど雨季が終わる頃ですね」
ミアは頷いてから、アワの横顔を見た。
「……いつ、連れてってくれるの?」
問いは風に乗って、小さく揺れた。
アワが何か言おうとしたとき、ミアの指が布の端に添えられた封筒をそっと押さえた。
赤い蝋印。王宮の紋章。
「……王宮から、療養を終えて戻るようにって通達が来たの」
アワは少し眉を寄せる。
「病状を、伝えていなかったんですか?」
ミアは黙って、視線を落とした。
「……そんなこと、言えるわけないじゃない。王宮が混乱するわ」
アワは息をついて、苦笑する。
「それなら、なおさらエリディオには連れていけませんね」
ミアは頬をふくらませた。
「もー……命令よ! 私を誘拐しなさいっ」
冗談めかしてはいたものの、内心は本気だった。
アワは肩をすくめた。
「そんなことしたら、戦争になってしまいますよ」
「……そうね。それだけは避けなきゃいけない」
目を伏せて呟いた声は、ふたりの間をすり抜けていった。
「ねえ、知ってた? 私の身体の中にも、エリディオの血が流れてることを」