ep.12
アワは言って、すぐに後悔した。何だろ……聞いちゃだめだったのだろうか。気を紛らわすようにミアの前へ出ると、一際目を引くルフェリナの花を、一つ摘んだ。
ミアは何かを言いかけて、ぴたりと黙っていた。しどろもどろした様子だ。
そして、ちらりと視線が合うと小さく呟いた。
「……永遠にあなたを見つめ続ける、です」
その台詞を境に、ふたりの顔が同時に赤くなる。
ふたりは恥ずかしさを隠すように、ぱっと視線を空へ投げた。
気まずい雰囲気だ。
アワの手にしたルフェリナが、微笑んでいた。
ふたりして、別に痒くもないのに、顔のそこら中を指で触れている。
切り出したのはミアだった。
その空気を、胸の高鳴りを、振り払うように、声を上げた。
「わ、私……ぜひ、その花、見てみたいわ!」
思い切ってはみたものの、言ったすぐあとで、はっとしてアワを見上げる。
「……連れてってくれる? いつか、あなたの故郷に」
少しだけ間を空けてから、アワは静かに頷いた。瞳の奥には、声にならなかった想いが薄く滲んでいた。
「ええ、ぜひっ。必ず」
茂みの影から、ひょっこりと姿を現した。気を利かせて散歩していたテテポだ。
「おい、アワ。気づいてるか?」
アワはほんの一瞬、視線を森の奥へと向けてから、静かに首を縦に振った。空気がぴんと張りつめる、身体の中に、冷気が忍び込むようだった。
「ったく……二人でイチャついてっからだぞ。あんまり刺激すんなよ?」
冗談めかしながらも、テテポの声からは、確かな緊張が伝わってくる。
アワは笑みを引き取り、そっとミアに向き直った。
「……ミア様、そろそろ戻りましょう。陽が傾いてきました」
ミアはきょとんとしたあと、頷いた。「はい」と答えた声は少し名残惜しそうで、それでも従順だった。
屋敷に戻ると、アロスが扉の前に立っていた。
「お戻りでしたか」
「今日はこれで失礼します」
アワは軽く一礼し、扉の外へと足を向けた。
ひとけがなくなり、冷たい風が、頬に触れる。湿った空気のなかに、微かな氷の粒の気配。
テテポが、すぐ隣でぽつりと呟いた。
「おい、アワ!」
アワは森の奥を見据え、ひとつ深く息をつく。
「たくー。氷の魔女を嫉妬させるからだぞー」
テテポは慌てふためく。
背筋をぞっとさせる冷気が足下から始まり、辺り一面に広がっていく。あっという間に周囲は白く染まり、もうこの世の森ではなかった。
「もう、ダメだーー」
半ば諦めかけるテテポを他所に、アワは声を静かに、そして大きく張り上げた。
「……なぜ、王女にばかり執着するんだっ⁈」
その問いは、答える者のいない闇へと消えていく。
ただ、どこか遠くで、乾いた音が響いた。
ひび割れるような、氷の細片が砕ける音——その残響だけが、森に微かに漂っていた。
失笑?
不気味な女の声が遠ざかっていく。それは哀愁を帯びた、霜の如き冷ややかな嗤い。そして、声は一瞬の間に宙を舞い、風に紛れて泡沫と消えた。
わずかながらの冷気は地表を撫でていたが、それもすぐに消えた。
まるで何もなかったかのように、木々たちは再び静けさを取り戻す。
森は本来の芽吹きを戻し、遠くでは小鳥が囀りを交わしていた。
アワたちは、午下がりのララポルトの街を歩いていた。石畳を踏む靴音が重なり、香草の露店からは風にまじって香りが漂っていた。
足を止め、石壁を見上げる。薄く張った苔に、風化した絵。
そこには、銀の髪の女と、隣に立つ黒髪の青年の姿が彫られていた。周囲には、氷の結晶を模した意匠が散らばっている。
「……これが『氷の魔女』の伝説ってわけか」
隣で呟いたテテポは、長い耳をぴくりと動かしながら、石壁をじっと見つめている。
アワは黙ったまま、指で壁画の縁をなぞった。記された歴史と、語られる歴史は、いつだって違う。
苔の下に薄く残る線。絵の中の魔女は怯えていた。怒ってなどいない。抱きしめるように青年の袖を掴んでいた。
「……いいのかよ?」
少し間を置いて、テテポが問いかけた。
壁画から指を離したアワは、視線だけで答える。
「姫さんに言ってないんだろ? 呪いは解けないってこと」
どこからともなくやってきた風で、石壁の苔が揺れる。
「今、真実を告げたところで、何もならない。彼女は……やっと今、少しずつ歩き始めたところなんだ」
「ふぅん。……あんな小娘が立ち上がったところで、どうなるってんだか。何にもならねーと思うけどな~」
それでも、とアワは、口元に微笑を浮かべた。
「大丈夫。彼女なら、きっと大丈夫だ」
「はあー……ほんとかねぇ?」
「ぼくの直感が、そう言ってる」
「直感かよ……いちばん頼りねーやつだな、それ」
ふたりの足音が、緩やかな石段を下りていく。街の喧騒が遠くなり、静かな鐘の音が風に混じった。
「なあ、テテポ」
「何だ?」
「ずっと気になってたんだけど……氷の魔女を倒せば、呪いは解けるんじゃないのか?」
「まー、普通はそう考えるわなー」
「どうなんだ?」
「知らねーよ、倒したやつ、いねーんだからよ。この二千年、一人もな」
アワは小さく目を伏せた。歴史の空白と向き合うように。
「まあ、とはいっても、魔女はずっと封印されてたんだけどな」
テテポは軽口のように笑いながらも、どこか冗談には聞こえなかった。
「なあ、テテポ。……どうして水の封印は解けたのに、火の封印は解けないんだ?」
テテポの耳がぴくりと動く。
「おいおい、アワ。おまえ……まさか、伝承の湖に入ったのか?」
アワは何も言わず、ただゆっくりと頷いた。
風が止み、一瞬、空気が重たくなる。
そして——
「テテポ……おまえは、火の精霊の封印を解くために動いてる。……ちがうか?」
逸らさず見るその瞳に、迷いはなかった。
テテポの返事はない。しかし、その沈黙が何よりの肯定だ。風の音だけが耳を撫でる。
すると、不意に背後から声がかけられた。
「……ねえ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
路地の陰に、ひとりの少年が立っていた。年の頃は十才ほどか。旅人風の粗末な服に、土埃のついた靴。それと、場違いなほどの静けさを宿る目をしていた。
ふたりはすぐに気づいた。……あのときの、気配。
テテポが耳を、ぴんと立てる。
「おー、生きてたかー。てっきり死んじまったかと思ってたぜー」
テテポの存在には気づかないが、少年は小さく笑った。
アワは無言で視線を交わした。
「場所を移そうか」
街外れの人通りの少ない丘の上にやってきた。
今では使われていない、古い井戸小屋がひっそりと建っている。崩れかけた屋根の下は、そこだけ時が止まっていた。
井戸の縁に腰を下ろした少年は、ぽつりと呟く。
「……ミア様は、元気なの?」
そう——この少年は、アワがミアの部屋の窓をぶち抜いた時に、部屋の中を覗こうとしていた。
まあ、実際のところは、それが魔法を放った理由にはならないのだが。
「あのときはすまなかった。怪我はなかったか?」
不思議そうにアワを見つめていた。少年は、魔法という言葉の意味すら、まだ分かっていないのだ。無理もない。
問いの意図はわからないものの、少年は小さく頷き、沈黙の間がひとつ挟まる。
やがて少年は、顔色を伺うように口を開いた。
ララポルトに、ミアが視察に訪れた日のこと。鉄道をエリディオに繋ぐ計画をめぐり、街の民が反発し、通りに集まっていた。声をあげる大人たちの中に混じって、少年もその場にいた。
衝動的な行為ではあった。少年の手には、小さな石。そして周囲の空気に押されるがままに石は投げられた。
そのひとつが、王女の足元に転がった。当たったのは、ほんの少しだけだったという。
それからしばらくして——ミアは歩けなくなった、という噂が流れた。足を怪我して。
自分のせいかもしれない。ずっと心にひっかかったまま、誰にも訊けずにいた。
だから今、少年は問いかけた。あの人は、今も元気なのかと。