ep.11
かさりと枝葉が揺れた。
苔むした切り株の上に、小さなリスが耳をぴんと立てている。ふさふさの尾を揺らしながら、こちらを見上げる。ひょいと跳ねて近づいてくると、くりくりとした目で、じっと見つめた。
ミアは、そっと笑った。こんな気分、久しぶり。そう、私はこの辺鄙な土地が好きだった。
この森で過ごした幼い日々の記憶が、枝の先の芽吹きのように、ふわりと心に顔を出した。銀の車輪が、ひときわ柔らかな音をたてる。
アワがそっと後ろから押している。ミアはその背に身を預け、微笑を浮かべていた。静かに手を添え、彼女の話に耳を傾ける。
それは、誰も知らない、小さな冒険の始まりだ。
「……あの、押すの、速くないですか?」
そう言うと、彼女はぴたりと動きを止めて振り返った。
頬を撫でる風が、少しだけ陰を含んでいた。しっかりと握る持ち手からも、振動越しに伝わってきていた。
「い、いえ、大丈夫です……」
ミアは小さく首を振った。
「速くないですっ。……けれど、なんだか、変な感じで」
言って、恥ずかしそうに自分の足を見た。膝掛けの下から、厚手の靴下に包まれた足先が、そっとのぞいていた。
それを見つめるミアの表情は、どことなく頼りない。彼女の中に溢れる気持ちが、否が応でも伝わってきてしまう。
アワは言葉を探し、ゆっくりと口を開いた。
「……これが初めてなんですね。外に出るのも、車椅子に乗るのも」
ミアは小さく瞬きをしてから声をこぼした。
「こんなみっともない姿を、見られたくなくて……」
しばらく、ふたりのあいだに沈黙が落ちた。だが、その静けさは重くなかった。風に揺れる草の音、小鳥のさえずり、葉の擦れ合う音が、ふたりのあいだを満たしていた。
やがて、ミアがふっと笑った。
「ねえ、あの木っ。昔、アロスに剣の真似事をしていたら、あの枝に引っかかって、ドレスが破けたんです。血相変えて走ってきて……」
その様子が目に見えるように、手に取るように伝わってきたアワは、くすりと笑う。
「姫様は戦士じゃありません! って、ものすごく怒られて」
「アロスさんらしいですね」
「でしょ? でも、私、どうしても真似したかったんです。……アロスの構えが、とても格好よく見えて」
声に耳を傾けながら、アワはふと、手のひらに伝わる微かな重みを意識した。ミアの笑顔は、どこか照れくささを帯びながらも、本当に楽しげだった。
この穏やかな時間が、彼女にとってどれだけ久しぶりなのか。どれだけ勇気のいる一歩だったのか。
思えば今朝、車椅子に座った時、ほんの少し震えていた。
「……この先、少し開けているところがありますよ。陽当たりも良くて、きっと綺麗ですよ」
「ええ」
と、微笑んだ横顔は、陽だまりに咲く一輪の花のように映った。
「行きましょう。きっと素敵です」
一瞬で目を奪われた。
木洩れ陽に負けぬほどの、淡くやわらかな光をまとった薄紫の花。それは森の奥の一角に広がる、花畑だった。
車椅子を押していたアワの足が、思わず止まる。これがルフェリナ——。春の訪れとともに咲くという儚い花。
「……わあ」
ミアの声だった。
まるで記憶のどこかを呼び起こされたように、彼女は花に向かって手を伸ばした。
「昔……よく、母といっしょにここに来たんです」
心地よく、ぽつり、と呟いたその声は、童心に帰る思いだった。
「綺麗ですね」
アワの言葉にミアは小さく笑った。
「……アワ様」
振り返ったミアの頬は、ほんのりと赤く染まっている。
「この場所、どうしても、お見せしたかったんです」
車椅子の上で手をそっと膝に添える仕草には、少しだけ緊張の色があった。
気づかぬふりをして、アワは静かに頷いた。
「ずっと……アロスも、ヘッラも、外に出てみたらどうかって言ってくれてました。でも……嫌だったんです」
足元に移すミアの目はさみしげだ。
「……今日は、どうして?」
アワが問いかけると、ミアは花々の方を見た。
「覚えてますか? 以前、見てみたいって……おっしゃってたでしょう?」
事の経緯を思い出したアワは、嬉しさを隠すようにして、ありがとうございます、と顔を赤らめる。
「あなたが……見たいって言ってくれたから」
それだけを言って、ミアは微笑んだ。
すると、言葉を続けようとした彼女は、ふと視線を落とす。足元には、薄紫の花が、ぱっと咲いていた。
「この花、母も好きだったんです」
遠くを見つめるミアの声を、どこからともなくやってきた風がさらっていく。
そして、こぼれ落ちる寂しげな音。
「この花を見ると、お母様を思い出すの」
ミアは、ぎこちなく笑みを浮かべる。
「変ですよね? こんなに花は綺麗なのに、思い出すのは厳しかった母ばかりなんて」
亡きヴェルディナの王妃は、気品と威厳を備えた人物だった。笑顔を滅多に見せず、王族としての品位を何よりも重んじた。
その厳格さは、ただひとりの娘にも容赦なく向けられていた。
「アワ様は……」
口にすると、アワはすぐさま首を横に振る。
「アワで、かまいませんよ。ぼくはただの辺境の地の、魔術師ですから」
ミアは「そう……」と短く返したが、その頬にほんのりと赤みが差していた。思いがけず跳ねる心の音は、どうしても誤魔化せない。
それもそのはず、以前ミアは、社交の場で聞いたことがあった。『タメ口でいいよ』と言う男性は、少しでも距離を縮めたい気持ちがある証拠だと。
ミアは、ちらりとアワに視線を移した。ほんとうに、そうなのかしら?
小さく咳払いをする様子を不思議そうに見つめるアワは、当然のように事情を知らない。
「で、で、では、改めまして……アワ、で」
今度は声が詰まった。途端に、彼女が何かをこらえるように顔を伏せるので、アワは小首を傾げながら訊いた。
「大丈夫ですか? 暑いのでは? もう戻りましょうか?」
こほん、とまた小さく咳をしてから、ミアは言った。
「いえ……アワの話が聞きたいわ。あなたの国、エリディオは、どんなところなの? それに、お母様は……どんな方だったのかしら?」
しばらく視線を遠くに送っていたが、慎重に言葉を選ぶように、アワは口を開いた。
「エリディオは、静かな国です。民は争いを好まず、けして裕福ではないけど、一人一人が互いを尊重しあって生活してます。それと、森が多く、湖もいくつもあって、水の豊かな土地です」
食い入るように耳を傾けるミアは、次から次へと想像を膨らませていた。
「朝には霧がゆらゆらと立ちのぼって、それが空へと溶けていく。湖と空が、ふっと入れ替わったみたいに見えるんです」
ミアの頭の中で、ずっと夢に描いていた幻想的な描写が思い浮かんだ。
「ユニコーンもいるのよね?」
「はい、神の使いとされる幻獣も存在します」
アワは小さく笑った。そして遠い記憶を撫でるように、ルフェリナの花に視線を落とした。
「……母も、花が好きな人でした」
わずかに揺らぐ言葉の端。その後に発する言葉は、何となく感じ取れた。
「……もう、この世にはいないですが」
予想通りの台詞だった。現実になってほしくなかった。自分は何てことを聞いてしまったのだろう。
ミアは、ちくりと胸を痛たませたが、精いっぱいの笑顔を繕って声に出した。
「私と一緒ですっ」
アワは、その微笑みに救われる。
「母は季節ごとに咲く草花の名前を、いくつも教えてくれました」
ミアはじっと耳を預けた。
「なかでも、深い森の奥に咲く花が好きで……夜になると、ほのかに光るんです」
アワの瞳に、記憶の残光が瞬く。
「その光に誘われてやってくるのが『ヒサラ』という虫で。半透明の羽をしていて、腹が淡く光るんです。たくさん集まると、まるで星が咲いたみたいに見えるんですよ」
「……それ、きっと、とても綺麗なのね」
「エリディオでは、ヒサラが多く舞う夜は、幸運が訪れる、と信じられています」
その時「そういえば」と、アワはふと何かを思い出した。
「前に言っていた……ルフェリナの花言葉って?」