ep.10
その音に救われた。
何故だか熱を帯びた耳と、何故か鼓動を弾ませる恥じらいのようなもの。それらを隠すように、アワは笑顔を見せた。
「……溶けないのが、不思議です」
ミアは目を輝かせながら、そっと言った。
「ええ。魔法で、少し……特別な作りにしてありますから」
アワは答えながら、ちらりと彼女に視線が向かう。まつ毛の陰に隠れた瞳が、思いのほか澄んで見えた。
目が合い、ふたりとも、すぐに視線を逸らした。
「……あの」
同時に口を開き、同時に言葉を引っ込めて、ほんの少しの間が落ちた。
ミアは頬に手を当て、笑いながら首を傾げる。それはとてもわざとらしく映った。
「どうぞ……アワ様、お先に」
アワも落ち着きがない。戸惑いながらも、小さく息を吸った。
「いえ、その……今日は、体調、昨日より……少しお元気そうで、よかったなと」
ミアは微かに赤くなり、膝の上で指を絡める。
「……はい。あなたのおかげです」
再び、ふたりの視線がふと交わり、どちらからともなく、すぐに逸らされた。頬に浮かぶ熱はごまかせず、室内の空気が、誰がどう見ても不自然に揺れていた。
間をもたせるようにして、居心地悪そうに小さく咳をついたアワは、卓上に目を移した。
「……その花。綺麗ですね」
花瓶に差された細い茎と、ふわりと垂れた花弁。
ミアは瞬きし、それから目を細めた。
「ルフェリナです。……屋敷の裏手の森に、たくさん咲くんです」
そう言って微かに微笑んだ彼女の横顔が、花よりもずっと美しく見えた。
「春の深い朝に、霧の中で咲くんです。風が吹くたびに、群れ咲く花が音もなく揺れて……」
「ぜひ、一度、見てみたいですね」
そっとこぼれたアワの言葉は、心からの響きだった。
ミアの指先が、膝の上で音もなく落ち着きがない。
「……それから、花言葉も、好きで」
ふと、言葉が途切れた。
思い出してしまったのだ——その意味を。
熱を帯びて、胸の奥から込み上げてくるもの。思わず、きゃ、と叫びたくなるような羞恥と共に、顔が熱くなるのが自分でもわかった。
「……でも、今は……内緒です」
ミアはそう言って小さく首を振った。それが限界だった。
「なんだか……ずいぶんと、おとなしめな屋敷だな……」
テテポは細い廊下をとことこと歩きながら、ぽつりと呟いた。
高窓から頬に差す日は、物静かに石畳の床に、淡い光と影の縞模様が石畳に揺れていた。その下、床石に刻まれた古い装飾を、テテポは前足の爪でなぞりながら刻みよく跳ねる。
壁には、色褪せた一枚の絵画と並び、かつて国境伯として王国の南端を守っていた時代の地形図が掛けられていた。
「スラティハール家か……」
テテポは、今もなお地図の輪郭に残るわずかな彩色を眺めた。南の砦か……たしか、侯爵だっけな。公爵に次ぐ高位の爵位とか言ってたな。
そこには剣と盾の紋章と裂けた軍旗の断片。華やかさはなくとも、この屋敷には、確かに歴史の名残りと重みが残されていた。
さらに足を進めると、大理石の柱が視界に入る。陽の光に白く照らされたその表面は、長年の風雪にも耐えてきた傷とくすみを刻んでいた。
見上げながら、テテポはふと声を落とす。
「……そういや、ミアの母親って。なんで死んだんだろうな」
誰に問うでもなく、ただ己の影に向かって投げかけた問いだった。返事は、もちろんない。
屋敷は広かった。爪先で床の継ぎ目をなぞりながら、もの思いに人影を探していると、一段高くなった回廊があった。
そこに、数人の男が集まり、低い声で言葉を交わしている。中心にはアロスの姿。柱のように伸びた背筋は、一際目を引いた。
「……アロス様。最近、アルベルサが兵の訓練を増やしてるという話です」
「軍備を強化……ということか?」
「ええ。北の国境に砦を新設する計画もあるとか。噂の域を出ませんが、無視はできません」
使者の言葉に、アロスは深く息を吐いた。
「陛下は平和主義でおられる。戦争など頭の片隅にもないだろう。先代のような強硬策はもってのことだ……」
「ですが今のままでは、国の威信はじわじわと削られるばかりです。アルベルサは、ヴェルディナが南のエリディオに鉄道を通そうとしていることに対抗して、北のベルー国にまで鉄道を延ばす計画も立てているそうですし」
「ベルー国は、もうねーけどな」
側で耳を立てていたテテポは、鼻で笑った。思考の奥に冷えた風が吹き込むが、男たちの会話はなおも続く。
「陛下はお優しい方だ。国民に慕われ、愛されておられる」
「ですが、亡き王妃がご不在のなか、ミア様の存在こそが、両国の均衡を保っていたのです。悪女と噂されながらも、先代ヴェルディナ王を思わせる、明確な発言力と牽引力がありました。ミア様が表に出なくなった今、家臣たちの間にも不満が……」
テテポは、ふっと鼻を鳴らした。あんな小娘にねぇ……たく、王族も貴族も、どこもかしこも面倒くせーな。
すると、話題がララポルトへと移った。
「エリディオ国へ繋ぐ鉄道計画が、難航しているのもそのためです」
「まだ民の反対は強いのか?」
「ええ。どうも、裏で煽っている者がいるらしいのです。民を先導して反対運動を大きくしている男が……正体は、まだ掴めておりませんが」
テテポの耳がぴくりと動いた。へえ……そりゃまた、きな臭え話になってきたな。
ヴェルディナ、そしてアルベルサ。王国の均衡は音もなく揺れ始めていた。風のない空に波が立つように。
テテポはひとつ、大きくあくびをしてから、尾をぱたぱたと振る。
「さて、と。そろそろ戻るか。どーせアワのやつ、姫さんと顔見合わせて真っ赤になってるころだろーし」
そう言って、くるりと踵を返すと、再び静かな廊下を歩き出した。あいつは女子の免疫力ゼロだからな……。
部屋の扉が静かに開いた。そのすぐ後——
ちょうど扉が閉まる前、ひょいと滑り込むようにして中へ入った。使用人が手にした銀の盆からは、お茶の香りがする。
そして、ほのかに漂う甘い果実の匂いと混ざり合うるように、テテポのため息が漏れる。
「あー、やっぱな……言わんこっちゃねぇ」
部屋の空気を一目で察したテテポの尾は、ぱたんと床についた。
ミアは紅潮した頬をそっと手で隠し、アワはというと、まるで逃げ場を失ったかのように視線を泳がせていた。耳まで赤く染まっている。
「……おまえらなー。なーに、やっちゃってんだよ……」
ぽそりと呟いたテテポは、壁際の椅子の脚元に丸くなった。見てらんねーわ。先が思いやられるぜ。
次の日、治療を終えると、ミアはゆっくりと息を吸い込み、ヘッラを見やった。
「ヘッラ、あれ、を持ってきてちょうだい」
一瞬、表情が強張ったヘッラだったが、次の瞬間には、驚きと喜びを押し隠すように、ぱっと笑みを浮かべた。
「……はい、ただいま!」
足音が遠ざかり、すぐに扉の外から、ごとごとと音が入り込んでくる。
現れたのは、長いあいだ使われることのなかった小さな車椅子だった。丁寧に磨かれた木の縁には、花柄の可愛らしい毛布が掛けられている。
ミアは静かに身を起こし、アワを見つめて微笑む。
「アワ様、さあ……参りましょう」
ドアが開かれ、風が廊下を吹き抜ける。
車椅子を押して歩くのは、もうヘッラではない。アワの両手が、しっかりとその取っ手を握っていた。