ep.1
かつて、魔女がいた。
銀の髪と氷の瞳を持つ女。
魔女はひとりの青年と恋に落ちた。
二人は愛し合う。
しかし、人間の欲望が二人を引き裂いた。
青年は裏切った。魔女の力を恐れた人々は、彼女を畏怖し、忌み嫌う。
魔女は絶望と怒りに身を焦がした。王国の兵士たちが魔女の住む森に侵攻した時、彼女の怒りは天を衝いた。世界を凍てつかせる。氷に覆われた世界。
その嫉妬と憎悪は、全ての世界を氷にした。
これは約二〇〇〇年前から、ヴェルディナ王国に伝わる伝説である。
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ヴェルディナ暦五六六年。
白く、幽かな光が、天を覆う梢の葉隙から、まるで忘れられた帳のように降り注ぐ。朝か、あるいは黄昏かを知る術はない。
——深い霧に沈黙する世界をミアは、ただひとり歩いていた。
獣が踏み慣らした細道。足元は泥濘、冷たい湿りが靴にじわりと染み込んだ。一歩ごとに響く鈍い音が、森の静寂を微かに震わせる。
濡れた苔が足首を絡め取った。裾を抑え、身を屈めると、葉の雫が頬を滑り落ちた。緑の壁が、容赦なく視界を遮る。木の根は隆起し、背丈を超える草むらが前方を塞いでいる。
もはや、人が通れるような道ではなかった。
それでも、瞳に迷いの色はなかった。彼女の呼吸は浅く、鼓動は胸の中で早鐘のように鳴っていた。
茂みを払い、肩で押し分け、森の奥へと足を踏み入れる。枝が髪の毛を突き、草はドレスに絡みついた。
一歩、踏み出した、その瞬間——世界が変わった。
その先に広がっていたのは、静謐に沈む別の空間。森のざわめきは遠のき、澄んだ空気が肺を満たした。
そこにあったのは、永い眠りに就いた湖。水面は鏡のように凪ぎ、雲のかけらを映していた。
湖の縁に漂う薄い靄は、陸と水の境を曖昧にしていて、そこはまるで世界そのものが、ひとつの泡の中に閉じ込められたかのようだった。透明な膜のようなものが辺りを包み、その向こうに森の影が揺れている。
でも、それは別の世界の向こうの話。ここには風も音も、届かない。
——ここは伝承の湖。
世界のはじまり。
物語が静かに眠る場所。
水辺に立ち、そっと片足を沈めると、足首がひんやりとした。この感触は知っていた。
ミアは目を閉じた。
そして細い指先が宙をなぞった時。湖面がほのかに揺れた。
足元に淡い光の粒だ。次々と浮かび上がり始める小さな魔法陣。淡く水色の月光のような光は、古の記号を結び広がっていく。ひと粒の泡が立ち上がり、彼女の全身をそっと包み込んだ。
泡のなかのミアは、衣を濡らすことなく水の中へと歩を進めた。砂が静かに沈み、髪が肩で揺れる。一歩一歩深い水の底へと、ゆるやかに沈んでいく。
やがて、現れたのは暗く闇の中に浮かび上がった、それだった。
湖底に眠る、小さな石の建物。祠とも神殿ともつかぬその姿は、ただ静かに、長い時を抱いていた。
扉を引くと、水が静かにざわめいた。
その奥に——彼がいた。
氷の中に眠る青年。瞼を閉じたその姿は、時の流れを拒むように、静寂の中心でただ佇んでいた。
周囲の崩れた壁。床に散らばる石片。あきらかに何か争った形跡。だけど彼女には、その理由など知る由もない。
息をひそめ、ミアは氷の表面にそっと手を伸ばした。冷たい。
魔法の膜で隔てられているはずなのに、感触が痛みを伴って指先へ届いた気がした。冷たさが、まるで想いの形を借りて胸に突き刺さった。
「……ねえ? 私は、どうすればいい?」
囁いた声は水に沈み、溶けていく。
けれど、返事はない。
「ねえ? 教えて……」
揺れる瞳。問いかけるたび、胸の奥で何かが軋む。
私は正しいのだろうか。あの時のように声をかけてほしい。呼びかけるたびに心がひび割れていく。
「どうすれば……いいの?」
指先に伝わる感情が、不安を静かに呼び覚ます。ひとりベッドの上で死にかけていた、あの日々を。
「ねえ、答えて。あの時みたいに……。『大丈夫だって』、言ってよ」
祈るような微かな声だった。だけど、彼は目を閉じたまま、何も言わない。
ふいに視界に入った氷に映る自身の姿。
彼女の両肩にのしかかる重圧。そして数えきれないほどの民の想いがある。
ミアは、じっと見つめていた。
——私は……
ヴェルディナ王国の王女だ。
水の流れに身を委ね、湖面へとミアは身を翻す。
外に出ると、纏っていた水は絹のようにほどけ、魔法の泡が音もなく消えていった。すると、ゆるやかに浮かび上がった体は、重さを忘れ光の方へと向かった。
亜麻色の髪は宙に舞い、ドレスは花弁のように広がった。銀の糸が縁を飾る裾は、軽やかにそよぎ、眠りから解き放たれた蝶のように揺らめく。
ひとつ、またひとつ。光を宿して浮かんだ水滴が頬に触れて弾けた。粒はどこか遠い記憶を思い起こさせる。
仰向けになって浮かぶミアの視線に、泡の天井が映る。
これは誰かの夢のなかだ。そんな錯覚さえ抱いてしまう。空とのあわいに張られた薄膜は、世界と世界を隔てていた。
その中心に、くぼんだ一点がある。澄み切った雨水が溜まり、そこを透かして陽の光が降りてくる。
まっすぐに、細く。一筋の虹色に煌めく光は、水面を貫いて、静けさの中で揺れていた。
やがて、小さな鳥たちが視界に入ってきた。薄い黄緑、桃、水色。くるりと輪を描いて舞い降りてくる。
羽ばたきが、くすぐったい。指先に触れては宙へと離れていく。
ミアは何も語らず、その景色をただ見つめていた。
世界は優しさで満ちている。そこには、静かに見守る誰かの存在が確かにあった。そんな束の間のひとときだった。
その時。
どこからともなく歌声が耳に響いた。いや、幻聴だろうか。
泡の向こう、深い森の遠くの方から耳の奥に触れた気がした。
そして女の歌声は、どこか切なく郷愁を誘い、朝霧が陽光に消え去るように、痕跡を残さずに消えていった。
深く、ゆっくりと、聴いた者の心に色褪せない記憶とした不思議な感覚を残しながら。
ふと頭の中をよぎる。
あの日のことを。
あの日、
自分の足が凍りついた日のことを。
この歌声は……
ミアの記憶に、覚えがあった。
彼女はまだ、平穏な日常という名の、変わらぬ風景の中に身を置いていた。
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およそ二年前——ヴェルディナ暦五六四年。
朝靄のように軽やかで、陽だまりのように温かく、ひとさじの影もない日々。
ミア・ヴェルディナ。
その名は、宮廷に咲くひとつの花のように、誰もが一度は振り返る存在だった。
絹のドレスに身を包み、紅茶の香りに微笑む憩いの昼下がり。
ミアは、王族たちの言葉に優雅に相槌を打ちながら、その内心は退屈と戯れていた。
芸術、慈善、外交——そんな話題の合間を、まるで戯れのように歩き回っていた。
夜には、舞踏会が王城で開かれた。
揺れる蝋燭の灯が壁に影を踊らせ、音楽が空気を撫でるように流れるなか、彼女は軽やかなステップで次の政略に足を踏み入れる。その瞳は微笑みながら、次に崩すべき心の扉を見定める。
晩餐会での、言葉の裏に仕込まれた刃や、甘やかな毒にも慣れていた。表向きの笑顔の奥に潜む密談の熱も、すべて楽しみのひとつに過ぎなかった。
そして狩猟の朝では、彼女自ら弓を取り、馬にまたがった。
森を駆ける風のように自由で、飾られた花冠よりも、生の鼓動に近いものを欲していた。
血の匂いと獣の気配。優雅さの裏にある、確かな実感。それこそが、彼女のもう一つの顔だった。
——欲しいものは、すべて手に入る。
こんな日々が永遠に続くのだと。
ミアは、そう信じてやまない。
とある日。夜会に招かれたミアは、アルベルサ領の王宮へ足を運ぶ。