8話 山小屋へ行こう その2
「おじいさんっ!」
靴も脱がず、2人はその小屋の中へと駆け込んだ。
すぐにソファーに死んだように倒れる老人に近付いたが、そこの強烈な臭いで気がついた。
「酒臭っ!」
「...あの、酒瓶、が...たくさんある、んですけど...」
サーシャが指差した暖炉の前には、丸山が1人寝転んでもなお余りそうなほどに大きめのカーペットが置いてあった。しかし、それに編み込まれた幾何学模様は夥しいほどの酒瓶に埋まり、屈折して歪んでいた。
そこに一つ、その老人がグワッと大きなイビキをかいた。
「.....酔い潰れてるだけだわ、これ」
「いやぁすまんすまん、そういえば今日だったの」
豪放磊落に笑う、やや薄くなった白髪の老翁。彼がラスカリスその人だった。肌は黒く焼けてシミが目立ち、深い皺がそのまま彼の人生の年月を示す年輪のように刻まれていた。ガチャガチャとした乱杭歯の隙間から酒臭い吐息をふうっと吐き出し気合を入れると、えいしょと接ぎ木のような細い膝に手をついて立ち上がった。
「あんまり飲みすぎると女の子に怒られちゃうよ、お爺さん」
「ひ、人をおこりんぼっ、みたいに...!」
「もう一生分モテたわい、この齢にもなって娘っ子に尻追いかけられちゃ死んじまわぁな」
「言ってみたいもんです」
調子よく続けたその言葉にラスカリスはゲラゲラと笑うと、少しの段差が命取りになりそうな程に危ない足取りでヨタヨタと荷物に向かい、リュクサックのベルトを広げた。
中にあったのは酒とパン、それにハムなんかの保存食、そして赤黒いジャムのようなものに漬けられたソーセージの瓶が入っていた。丸山の目には、この目の前に立つ枯れ木のような老人一人が食すには随分と多い量に思えた。
「健啖家なんですね」
「これで一か月分じゃい、重労働なもんでの。まぁ人よりは少し食う」
その瓶を取り上げると、再び老翁は危ない足取りで床板を軋ませ、暖炉の上にコトリと置いた。何のことは無い、ただの小瓶だった。しかし煤で汚れたレンガに置かれたそれは、この平穏な山小屋には似つかわしくない、まるで白紙に垂れたインクのように思われ、2人の胸の内をざわめき立たせた。
「...ところで、そこの水系統の嬢ちゃんは何ぞ喋らんのか」
サーシャの小さく息を呑む音が、やけに大きく丸山の鼓膜に焼き付いた。
「......見ただけで分かるもんなんです?」
「年の功でなぁ、パッと見りゃサッと分かるわい」
「ぼ、ぼぼボクっ、み...水系統、なんか、じゃ...」
「つくならもっと愉快な嘘をつかんかい、あほう。案ずるな案ずるな、お前さんが思うとるような下らんことは言わんし、思うとりもせん」
そう言うとラスカリスはソファーに再び座り込み、飲みかけだった1瓶の残りをグイッと一気にあおると、痰を吐き出すように一つ咳払いをした。そうして天井を仰ぎ見て弛んだ喉元を2人に晒すと、大儀そうに目を瞑ってしまった。
「...ちなみに俺は?なんだと思います?」
「火。だがどうにも...うぅむ...なんだかよう分からん火の系統じゃな...ダメだ、気持ち悪ぅなってきおった」
「おぉ正解。凄いなぁ年の功は」
「あっあのっ...!なんで、なんでっボク...っ」
「水だろうが火だろうが変わりゃあせん、魔法は魔法よ。この世を上手く生き抜くための手段の一つに過ぎん。ただちょいと他より便利なだけでな」
そう言うと彼は深く、深くため息をついた。彼の臓腑に宿る魂までもが、息と共に出ていってしまうのではないかと思われるほどに深く、長いため息だった。
何かが始まるのだと、丸山は直感した。それは砂漠で研ぎ澄まされた神経だったかもしれないし、元から持ち合わせていた人類普遍の感覚神経に訴えるものが、この老人にあったからだったかもしれない。
「土は、生きとし生けるもの、全てのものだ。炎は、人のものだ。雷は、天と地のものだ。だが、水は......」
ポツポツと、彼は雨垂れが岩を穿つかのようにゆっくりと、だが確実に言葉を紡いでいく。サーシャも丸山も、身動き一つせず、心臓の鼓動すら忘れてしまうのでは無いかと思うほど、その話に聞き入っていた。
「水は、何物でも無い。地よりも深く湧き出で...天より高く昇りゆく...。雲水行脚、流転し止まらず...」
「そ、そのっ...どういうこと、ですか?ボク、バカだからわ、分からない、です...」
「じきに分かるだろうとも。異界の死は来たる。娘っ子よ、お前は知っているはずだ。掴んでいるとも」
それは丸山はおろか、サーシャすらも聞いたことがない、それは奇妙な言葉だった。しかし呆けた老人の世迷い言と切って捨てるには、重々しい気迫が言葉の端々から聞いてとれた。
「......ちょっと付いていけてないな。ごめんね、お爺さん。聞きたいんだけれども、異界って何?」
「ここの事ぞ」
そう言うと一度だけ、足で床を叩いた。タバコを味わった後のように鼻から大きく息を吐き出し、彼は再び話し出す。語り始めてからのラスカリスの口調が変わっていることに丸山はようやく気がついた。
「地下?」
「うむ。此の地の裏に、別の地があり、世があり、界がある。彼の地の名はアグムント。永久の、地下の楽園...」
「...サーシャ、聞いたことある?」
「......分かんない......。なにか、ひ、引っ掛かることは、あ...あるけど...」
「水の魔術師よ、誇って己の技を磨けば良い。いつか必ず思い出し、その身を助ける。つまらぬ俗人の目に流されるな。其は、善いものだ」
強調するように一息一息に力を込め、彼はそう言い切った。サーシャはただ俯き、じっと床の一点を見つめて何も言わなかった。しかし、丸山には彼女が泣いているように見えた。
「アグムントは地底の世界。水面に映る世界。今、我々が立つ地面を境界に、そっくりとそのまま存在する。山も、川も、木も、雲までもがな。ただ、人がいない。動物もいない。いるのは精霊だけだ...」
「あ、あのっ...せ、精霊たちの世界...?ってこと、ですか...?」
「そうだとも。アグムントは精霊達の国。今我らが居る世界と表裏一体の、深く結びついているが、そこだけが違う...」
そこまで言うと、ようやく老人は目を開いて顔を2人へと向けた。それと同時に、ようやく丸山は山小屋の内装へと意識を向けることができた。それほどまでに集中していたのかと、その時初めて思い至った。サーシャも同じようで、忙しなくキョロキョロと辺りを見渡していた。
何かこの中に虚脱していたものがようやく帰ってきた。そんな感覚だった。
「なにか質問があれば受け付けるぞい」
「いやぁ...何が何だか」
「ぼ、ボク、も...」
「まぁそりゃそうじゃ、一朝一夕で理解できるもんでも無いわい。ただ、お前さんの水の魔法の力は役立つということを覚えとけば良かろう」
「...は、はいっ!」
いつにも増して目をキラキラさせたサーシャが、背筋を正して勢いよく返事を返した。表情は緊張しているように見えたが、唇の端から喜色の笑みがこぼれていた。
「良かったじゃないかサーシャ」
「うん...うんっ...!」
「さて長話をしたら喉が痛くなる。茶でも淹れようかい」
よっこらせとラスカリスが立ち上がる。また危ない足取りでふらふらと、部屋の奥へと向かっていく。
その頼りない、震える背中に丸山が声をかけた。
「おじいさん、ちょっと言いたいことがあるんだけども」
「んおぉ、なんじゃい?言うてみい、言うてみい。この歳になると、ちょっとやそっとじゃ屁とも思わんわ」
「俺は異世界人だ」
ジジイがぶっ倒れた。