4話 岩槌
目の前に空があった。この砂漠で何度も、何度も見上げなれた憎たらしいほどに青い、乾いた空だった。
自分が岩から落とされ、砂地に投げ飛ばされているのだと自覚するには少しの時間を要した。
「やぁ〜.....っと来たかぁ......遅かったじゃねえか、行商のオスに体でも売ってたか?えぇオイ」
聞き覚えのある声。鼓膜に粘つくような不快な威圧感。銀のスケイルアーマーに身を包んだ筋骨隆々、無精髭の気怠げな大男。忘れもしないその男の襲来に、視界がどんどん暗くなるのを感じた。
「急いで来いよ、ったく...腕が鈍っちまうじゃねえかよ」
「......が、がん、“岩槌”...っ」
「トルジオ様、だろうがっ!!!!!」
突然激昂した彼は、先程までの鈍さが嘘のような速度で背中に担いでいたメイスをスイングすると拳ほどの石が銃弾のように射出され、地面に突き刺さる。サーシャの足元がクレーターのように抉れた。
「やっぱ久々だと当て勘が鈍るな...ちょうど良いぜ、的にしてやるよオイッ!」
「.......っ!」
最低限の余力を残し、出来うる限りの魔力を込めて泡を作った。この程度の子供騙しの目眩し、トルジオ程の猛者にとっては滑稽なほどに意味を成さないのは承知の上だったが、立ち向かう勇気などありはしなかった。それに彼の吐く言葉が本気だと言う事は身に染みて理解していた。捕まれば殺される。
「もいっぱァつッ!」
「ぐ、ぅっ......!?」
次弾は一発だけだが右のふくらはぎに命中した。比較的肉の多いところに着弾したはずだったが、骨に響く嫌な感覚があった。
痛みのあまりに砂を噛み締める。声をあげて泣き出したかったが、それでもなお背後から聞こえる悪罵に対する恐怖心の方が勝り、なんとか堪えた。芋虫のように無様に這いながら、彼が待っているだろう岩陰へと目尻に涙を溜めながら向かっていく。
「出て来いアバズレがァ!今なら犯したあとに埋めるだけで許してやる!俺の手を煩わせるな!」
この怒声を隠れて聞いていたのはサーシャだけではなかった。
「ヤバい奴がいる...」
砂漠で人の目がないとはいえ、あんなにもデリカシーのない下品で下卑で下衆な、文字通り三下の言葉を大声で叫ぶことなど、丸山からすれば到底出来るような事ではなかった。
とりあえずこっちへ来ませんようにと心の中で祈っていると、サーシャが鼻から血を一筋ダラダラと垂れ流しながら戻ってきた。
「まっまるまっ、あぁっうっ」
「落ち着けサーシャ!何があった?」
「し、ししっしずか、に、ぃっ...」
ズルズルと匍匐前進で入ってきたサーシャを丸山は抱き込み、仰向けにして迎え入れる。
酷い有様だった。顔は涙と砂と鼻血でボロボロに汚れ、元から清潔とは言い難かった麻の貫頭衣は破れ、太腿と膝には這って来た時に作っただろう擦り傷がピーラーで剥きとった様に生々しい傷口を晒していた。
「お、おい...あの頭のおかしいやつは誰なんだ?知ってる人か?」
「が、がんっ、”岩槌“のとっ、トル、ジオです...ぼ、ボクだけっだから...だからっ」
サーシャの瞳に深い怯懦の色が浮かんでいた。彼女はあの野蛮人に何をされたかは推し量るところには無かったが、共に歩みを続けた同行者として、水を恵んでもらった恩を受けた身として、丸山の選択肢は一つだった。
「にげっ...!」
「やろうサーシャ」
一度死んだような身、ここで死ぬのであれば諦めも付く。何よりも、この目の前の彼女の恐怖を跳ね除けてやりたいという反骨心が今の丸山の原動力となった。
学生リュックから折りたたんでいた学ランを取り出すと、襟に通していたペンの意匠が施された真鍮の校章バッヂを取り外した。
「ででっで、もっ..!」
「やりようはあるさ」
「出て来い売女がぁっ!テメェの糞袋に自分で水流すくらいは許してやるってんだよ!」
「...もしやあなたは“鉄槌”のトルジオ様では?」
「んぁ、誰だお前は」
果たしてそれは学ランをキッチリと着込み、未だ周囲に残る泡で出来る限り清潔な身なりに整えた丸山だった。もちろん服は濡れたままだったが、それが逆に好都合であるとも彼は考えていた。彼は心底安堵した様な表情を浮かべ、トルジオが仁王立ちする岩へとわざと不器用によじ登ると、美しい所作で土下座を決めた。
「私はゴローミンの者なのですが、先程ここを通りかかったら頭のおかしい水系統の魔法を使う女に荷物を奪われ、ほとほと困り果てていた所なのです。そこを偶然にもザイバル1の御武威をお持ちの豪傑と徳名高いトルジオ様をお見かけ致しまして、その緑林白波たる大悪党、討ち懲らしめて頂こうと思い立ち目の前に上がった次第でございます」
良くもまぁここまでの大嘘、一口に言い切れたものだと丸山は内心自嘲した。適当極まりない詐称ではあったものの、この場面、あまり長くこの大男を騙し続ける必要など無いと考えていたし、実際にその判断は間違ってはいなかった。
「お、ぅ...?そうか。何言ってるか良く分からんが...その女に用事があるんだ、早く帰れ」
「えぇ、えぇ、そうさせて頂きますとも。ただその前にこれをお受け取り頂きたい」
「...バッヂか?」
「左様でございます。これは私共が運営している店をお安く使用できる兌換書の様な物でして。もちろんザイバルではご支障ありますでしょうから、襟に付けずとも店の者にお見せになられれば...」
そう言って取り出したのは、先ほど襟から外した真鍮の校章バッヂ。太陽を受けて金色に輝くそれは、実際の安っぽい質感を覆い隠し、眩いばかりに煌めきトルジオの目を眩ませた。
「あー...はいはい、分かったから。とっとと寄越して失せろ」
明後日の方を向きながら、目の前の面倒そうな男を適当にあしらおうとするトルジオ。余所見をしながら雑に伸ばされたタコまみれの右手を丸山は握り返す。こうも引っかかる人がいるのかと、ほくそ笑みながら。
「あざーっす」
手渡しを装って掴んだトルジオの右手を自らの懐へ引っ張り込み、その勢いのまま左足を大きく踏み出し捻転。右腕を思い切り良く引いて大きくタメを作ると、胸中に煮えたぎる激情を右拳に乗せ、前のめりになった大男の顔面に叩き込んだ。
「んなっ...!?」
「しゃおらぁっ!」