29話 説教
丸山は、すぐにスヴォーロフが薦められた理由を知ることになった。
町の城門から出てすぐのこと。スヴォ―ロフは船のような水を形作ると、丸山を乗せてそのまま風を叩くかのような凄まじい速度でそれを滑らせ始め、すぐにダンジョンの入り口まで着いてしまった。
「これは我が強大な闇の力の一端に過ぎない。来る決戦の刻、お見せしよう」
「もういらねえ」
内臓が震えあがるような気持ち悪さを抑えながら、足早に丸山はダンジョンを降り始めた。
「右、直進、直進、右、直進、左......」
殆ど独り言のような声量で呟き進んでいく。丸山の記憶していた道筋を頼りに、速足で3階層までたどり着いていた。スヴォ―ロフは既に丸山の歩速に合わせるのを諦めていて、水球に腰を下ろして流れるような速さで丸山の背中に追随している。
ダンジョンに入ってから会話を交わすことの無かった2人だったが、いよいよ4階層に近付いてきたというときになって、丸山の方から口を開いた。
「......あんた、司教なのか?」
「んぇっ?......ウム。如何にも。神が遣わされた僕にして、闇の使徒スヴォ―ロフとは我のことである。何ぞ聞きたいことがあれば、なんでも申されるがよい」
宗教関係者が闇の使徒とか名乗っていいのかという問いを、丸山は噛み殺した。
「サーシャからの又聞きだけだったんで、あんまし宗教の事とか良く分かってないんだけども。その、例えば...暴力って良くないよな?でも俺たちは、今から暴力を振るいに行くわけだ。教義的にマズかったりしねーのかなって」
「ふぅむ......」
スヴォ―ロフは、その唐突な問いを一笑に付すことなく、唇をつねって少しの間考え込んだ。
「ザイバルの人間は我々と同じ教えを信仰している。つまるところ我らは同胞、体は砂漠に遠く隔たっていたとしても、心は同じ家に住まう兄弟として共にあることができる。これが信仰の力」
「...なるほど」
「しかし、この空を天井とするのは我らだけではない。様々な信仰の家に住まう人間がいるだろう。これを我は『隣人』と定義する」
少しばかり、今度は丸山が考える番だった。『汝、隣人を愛せよ』とは元居た世界の聖書の言葉だったが、それが意味する『隣人』とは、また少し違った意味合いを持っているように思えた。
「もしも、『隣人』が粗相をしたならば、まずは『隣人』の家の掟を知らなくてはならない。先に無礼を働いたのは、我々の家の者かもしれないし、あるいは『隣人』にとっては粗相ではない行為なのかもしれない」
彼は想像してみた。一つの町に、様々な形の家が無造作に建っている。その家の中には、それぞれに色んな掟がある。パンを神聖視する家、豚を食べてはいけない家、太陽に祈りをささげる家、牛を食べてはいけない家.........。
なるほど。牛を食べてはいけない家の人間が遊びに来て、それにパンを神聖視する家の人間が晩餐にロストビーフサンドを出したとしたら、前者は怒り狂うだろう。だが、後者の人間に悪意があったとは言えない。あったのは、隣人をもてなそうとする純粋な善意だけだ。
「なるほど...」
「しかし!兄弟の過ちは正さねばならない!同じ家に住むものとして言うが、我等の信仰において、人攫いが許される場合など、万に一つもありはしない!故に、正す。どのような手段であれ、正道へと兄弟を戻しに行く」
丸山は合点して、ありがとうとだけ言うと再び黙ってしまった。スヴォ―ロフのその言葉は、現状において勇気の源となるような素晴らしい言葉だった。
しかし、それが丸山の考えと反りが合うかと聞かれると、おそらく違うと彼は答えるだろう。隔靴掻痒、自分の内心で魚影を映す大物の正体は終ぞ掴めないまま、サーシャのもとに行くことになりそうだった。
やがて、4階層に降りた。ここから下は、理解の範疇の外にある世界だ。しかし、手間取るわけにもいかない。既にサーシャが溢れさせた水はどこかへと消えているのを見るに、おそらく下層へ通じる道から排水されているのだろうと目途をつけた。
「では探ってしまおう」
スヴォ―ロフは自信たっぷりに言い放つとしゃがみ込み、床に一振り右手をかざした。すると見渡す限りの床いっぱいに薄く水が張られ、水たまりのようになってしまった。
こいつもサーシャのように、と丸山は毛介したが、水は1センチもない程度で止まり、スヴォ―ロフの方も特に変わりない様子だった。
「そちらが真実の道だ」
スヴォ―ロフは弾かれたように顔を上げ、道の一つを指さした。
「...なぜ分かる」
「この階層全ては今、我が僕たちによって満たされている......流れを感じ取り、この程度の迷宮の解を暴き出すことなど、我には造作もない事」
どういうことかは相変わらず良く分からなかったが、つまるところ彼は、4階層全てに薄く水を張り、その流れを全て把握することで、正しい道筋を導き出したのだ。
それがどれほどの魔法なのかは丸山には理解できなかったが、おそろしく高度な、熟練の使い手ではないと不可能な芸当だということだけはボンヤリと理解した。
(思っていたよりも、ヤバい奴と一緒にいるのかもしれない)
うすら寒さを感じながら、丸山は先ほどから変わって先導役を始めたスヴォ―ロフの背中を、水面を爪先で蹴り上げて追い始めた。