下 紅狐の再起、僕らの足跡
3
またも蜘蛛に遭うことなく、戻って来ることができた。荷物は縁側の上で不動を貫いている。荷物の中からキャンプ用の小さいガスボンベと鍋、そしてレトルトのカレーと白米を取り出す。少し軽くなった荷物を椅子代わりにして五百竓ペットボトルの四分の三ぐらいを張った鍋が沸々になるのを待っていると紅の塊が寄ってきてガス火の近くで膝を丸めるようにして座った。
二袋がおしくらまんじゅうする鍋を二人でじっと見つめているうちに腕時計の秒針が十周ほど回ったところで引き上げて今度は器に盛っておいたレトルトご飯を器のまま鍋の中に浮かばせた。
「カレーは好きですか?」
耳を寝かせた彼は相変わらず踊る湯気を見つめるばかりだが僕の言葉には応答してくれるようでコクリと頷いてくれた。この対応で合っているだろうか。
「母さんの作ってくれたカレーは好きだった。……俺、やることなくなっちゃったなぁ」
多分、憎き肉体泥棒は勝手に消えた。勝ち逃げされたのである。トオルと僕はそれに巻き込まれ、意思疎通を図ったことすらもない相手にありもしない因縁をつけられ追われているのだ。
「僕は卒論を書き終わるまで死ねません。いい研究材料があれば万々歳だと思って来てみたはいいのですが、命が危ういとなれば話は別でしょう。助けも呼べませんし、トオルさんの言う蜘蛛をどうにかできれば完璧なのですが」
そんな独り言を呟くと、トオルは丸まるようにして倒していた首を起こして、人探しが目的なのではないかと問い詰めてきた。トオルは警戒する捨て犬のような眼差しでこちらを滅多刺しにするのである。
「そっちはついさっき達成したんですよ。divide and conquer ってやつですよ。複数の目標があるなら分割して一つ一つ潰すべきなんです」
そうやってつい先日読んだブログで読んだ半分ぐらい出鱈目な浅知恵で苛立ちを孕んだ童女を丸め込もうと試みると、意外にもトオルはそのことを認知しており、彼は自身の悲哀を解き放つように反駁するのだ。
「正確には大きな問題を分割して、それを全て解決することで最終的に大きな問題の全てを解決させることだ。タツヒコは目標を分割しているのであっていわゆるdivide and conquer とは別物だ」
「み、耳が痛いです」
温めたご飯の上にいい感じの温度になったカレーをかけると、小さなジャガイモぐらいしか具材がないのにかなり美味そうに見えた。やはり、空腹のせいであろう。
「ちゃんとした飯を食うのは久しぶりだなぁ」
トオルは用意したスプーンを持ってスパイス色に染まった白米を掬い上げた。一方、スプーンは一本しかないため僕は箸で食べることになった。小さい体の未発達性には箸の扱いが難しいのである。カレーが全ての米に染み渡って、白い粒がまとまりがなくなる前に急いで口の中に書き込んでいるとトオルはまたもぽつりと鈴のような声で話し出した。
「よぉく考えたらさ、俺、どうしようもなかったな。仲間から勘当されて、それでも気づかず突っ走って、今は生きてるか死んでるかもわかんねぇ」
「トオルさんのことはよく知らないので僕にはどうとも言えないです。僕の知っているトオルさんは今のトオルさんですよ。ワイルドだけど、どこか脆い。そんな感じです。ああ、貶してるわけじゃなくて」
「タツヒコは俺のことをそうやって見てたのか、ちゃんとしてるなぁ。……決めた。とりあえずタツヒコについていくよ。今は、少なくとも俺のことを知ってる人のうちの一人をみていくよ。それに、タツヒコは俺のことを探してたんだろ?」
「ええ、俗っぽい理由ですし、知ったのはついこの前ですけど」
「いいよ、今はそれぐらいがちょうどいい」
カレーを食べ終える頃には鍋はすっかり湯冷めしており、余った水を混ぜて草むらに捨てても問題ないぐらいになっていた。ひとまず食器とレトルトの袋はレジ袋に詰め込んでキャンプセットと共にリュックサックに入れた。代わりに小さなハンドバッグを取り出して財布とタブレット端末をそこに入れた。
ハンドバッグを肩に掛けて何度か上下に行った道を上昇し、時間をかけることなく鳥居をくぐることに成功した。境内も本殿も小さいものであったため、神座を探し出すことができた。境内にあるのは二つの狛狐と赤い本殿だけだった。かなり古びているのか所々塗装が剥げていて木色が露わになっていたり、本殿の屋内に入る手前にそこだけ汚れが薄くなっている長方形の跡があったりする。襖を開けたすぐ先に数多の本や筆、硯などが置いてある。下駄を大きくしたような机の上には筆と執筆中であろう一冊の本が置いてあり、それには達筆の字が起こされていて、筆の方は先の墨が机に付着してしまっていた。
タブレット端末で境内の全体から本殿の内装と生活感の残る空間を撮影する。試しに一冊を抜き出して適当なページを開くと女狐のイラストと共に達筆が綴られていた。
「狐火、変化、祭事。……トオルさん、これみてくださいよ。これトオルさんにもできるんじゃないですか?」
「そいつはわかんねぇよ。この体はそれを書いた奴だがよ、魂はただの人間だぜ。まあ、やってみる価値はある」
トオルは達筆が読めないと言われたため、僕が音読するような形で彼に教えてやった。
そういえば、元の女狐はなぜこんなものを残したのだろうか。パッと見たものだけでも自分の内を事細かに書かれていて、もしも敵対勢力に漏れてしまったら彼女にとってかなりの不利益になってしまうだろう。それとも怯える必要もないぐらいに彼女の力は強いものなのか。
「俺が遭った限り、そういう奴ではないよ。確実なものではくて、直感だけどさ、こんな周りくどいことをする奴がまっすぐだとは到底考えられない」
ふん、と軽く鼻を鳴らすと立てた人差し指の先に赤火を立てた。次に彼はニヤリと口角を上げて両手を合わせると部屋にあるような背の高い黒色の燭台に変化してみせた。もう一度鼻を鳴らすようにするが元の姿に戻り、仰向きになるようにして、背中を床に当てた。
「まあ、そんな簡単にいかないですよね」
「ものは試しだ。知らないことが多すぎる」
僕は惜しげもなくトオルの手首を掴んで引っ張ると彼女も体を畳んでから再度伸ばして立ち上がった。
「狐火の方は使えそうだ。蜘蛛に遭遇した時の対処の一つにはなるだろうな」
もう一度指先に灯した火を息で吹き消したところで大きな振動と共に入口の方の光が閉じられてしまった。
「噂をすればなんとやらだ。さすが妖だな」
僕は親玉の蜘蛛に唾を飲んだがその危機以上に書物の安否の方が重要であった。なんとかこの場から離れて対処したいものだが、きっとうまくいかない。
僕とトオルは大蜘蛛と距離を保ちながら、八つの黒玉のうち僕の姿が映っているいくつかをみていると予想外にも大蜘蛛は僕たちに語りかけてくるのだ。
「人の子よ、どこから来たかは知らんが、我はお主を巻き込みたくない。忌々しい狐を引き裂きたいのだ」
「ちょっと、待ってください。僕みたいな奴の話を信じてくれるとは思っていませんが、この狐はあなたの恨むものそのものではないのです。彼の話曰く、彼とあなたの恨むものが入れ替わったものなんですよ」
「ああ、可哀想に可哀想に。狐に化かされてしまったのね」
それは一度考えたことだ。もしもこの狐が弱体化したもので、僕を騙し、この蜘蛛を討ち取らせて最終的には全てを横取りする気であったならば、僕はどうするべきなのだろうか、と。
この時、岐路として存在するのは女狐がトオルであることと、女狐がトオルと偽っていることである。それらの可能性が重なっている以上、僕は立ち尽くすことしかできない。例えば、女狐が僕を騙していた場合、僕はその獣を討ち取らなくてはならない。しかし、そんな時に頭にチラつくのはトオルとしての自我があった場合である。誤ってトオルを打ち取ることになったら僕は耐えられないだろう。だから、僕はその女狐を打ち取ることなんてできない。
もしかしたら、僕は僕自身が傷つく可能性を排除したいのかもしれない。
「さあ、真実なんて分かりませんよ。考えれば考えるほど可能性ばかりが浮かんでくる。この場で唯一僕にできるのは観察と推論だけです」
僕の言葉は風の中に解かれていくようで、大蜘蛛は聞く耳も持たずに鋭い一対の前脚を高らかに上げた。和平交渉は難しいらしい。
トオルと僕は左右に分かれてその振り下ろされた脚を回避する。ただ単に転びながら回避した僕とは対称的に跳び上がるようにして回避したトオルの方に蜘蛛は四対の足を動かして方向転換した。僕には目もくれないらしい。
トオルは習得したばかりの小さな火球を飛ばすがそれは蜘蛛の体表で霧散していくばかりで体の負荷にさえなっていないように思えた。彼は舌打ちをするとまたも跳び上がって蜘蛛の上を通過して出口の襖の手前に着地する。彼はそのまま本殿から出て、蜘蛛を誘き出す。僕はよろけながら戸枠のところまで足を運び、境内を覗くと、トオルが蜘蛛の襲撃からなんとか逃げているのが見えた。
トオルが紅の髪を靡かせながら駆け回る姿はまるで演舞のようで獅子舞を連想させる。眼前の脚を体を反らせたり、逆に前方に跳び上がって追い越したりして回避していく中で突如、トオルの腕に背後の木から出てきた糸が絡まって、彼は玉砂利が敷かれた地面に叩きつけられた。
僕は彼の肺の中の空気が抜かれる姿を見て息をキッと吸い込んでしまう。糸の先を見ると小さな蜘蛛の一匹が木の枝にしがみ付いているのが見えた。余裕ができたのか大蜘蛛はのそりのそりとのしかかるように襲い掛かろうと迫る。
僕はいつの間にか手にあった荷物を手放して一歩目を踏み出していた。玉砂利を掘り返すように脚を進め、左肩から首にかけての部分で大蜘蛛の腹に体当たりをするとそれはよろけて紅孤の姿が露わになった。すぐにポケットに入れておいたライターで糸を炙ると火が上がることはないものの、すぐにトオルと子蜘蛛を繋ぐそれを離すことができた。
「タツヒコ、ばか。何をしている、俺はお前が——」
「——僕は僕のせいにしたくない!」
僕は人一倍、責任という言葉に敏感なのだと思う。期限に限らず課題は手早く済ませるし、チームのリーダーや学級委員なども避けていた。別にそのことで嫌な体験をしたわけでもないがなんかまとわりついているのが気持ち悪いのだろう。
だからと言って誰かに任せるほどの信頼を人に傾けているわけでもない。他人を軽視しているつもりはないし、他人に任せると自分の思い浮かんだものとは全く違ったものが出てきたという記憶があるという点もあるが、究極、タスクが自分の目に入っていないと落ち着かないのだ。
「一緒に行くのを許してください」
「分かった。タツヒコのことは信頼してる。行こうか」
蜘蛛の方を向き直すとそれがけたたましいバイオリンのような音を立てながらこちらに跳び上がってきた。今度は二人で同じように左手に回避する。見るに打撃も狐火も効きそうにない。
「トオルさん。はっ、尖ったものに成れませんか?」
「大きなものは無理だぞ。ほっ」
別に大きな刃でなくていい。最悪、錐のように尖ったものでもいいのだ。創作話ではこういう敵と戦う際に、硬い外骨格の隙間を狙うことが多い。勢いで大蜘蛛と対峙したはいいものの、僕はそんな妄言を思い出し提案するぐらいには疲弊しているらしく、トオルも同じようで提案した後すぐに頷いた。
すぐさまトオルは両手を合わせると牛刀包丁のような剣に変わった。紅い柄には金色の狐が描かれていて、その尻の辺りには紅白で編まれた紐がついている。宙に浮くそれは僕の右手に収まると、導かれるように体が不思議と軽快に動いてくれた。
大蜘蛛が黒い大脚を振り下ろしたところで、逆手持ちをした刃を節に沿わせて右手を左胸の方に引くと黄色い汁を銀色の刃を伝っていく。痛みのままに木々に当たりながらも縦横無尽に飛び回る大蜘蛛を、紅孤の導きによりそれを回避することができた。しゃがみながら握り方を直してピッと振ってからズボンで二つの面を拭き取る。体を丸めて蜘蛛のそれが終わるのを待っていると、唐突にトオルが僕に提案を持ちかけてくるのである。
「タツヒコ、この大暴れを利用するぞ」
のたうち回った大蜘蛛はついに地面にひっくり返った。伏せたせいで若干痺れた脚を前に出すと蜘蛛の方も立ち直したようである。獲物を狙う腕のうち一本が僕が切りつけた方が暴れたせいで変な方向に曲がってしまっていた。
「おのれ! 人の子。何故に私の邪魔をする!」
「そっちだってそうでしょう! 奪い合ってるだけです」
僕は再度、意味のない狂気を発しながら突き刺してくる脚を避けて切りつけようとするのだが、大蜘蛛は高速度で後退していく。よく見ると狛狐の台座に尻の糸をくっつけていたようでそれを引っ張ることで狛狐の方に移動したのである。
大蜘蛛が後ろの六本の脚で狛狐の台座を蹴って僕の方に飛んでくると僕の手を完全な方の脚で引っ掛けると、僕は刃の形になったトオルを手放してしまうが、左手でその脚を掴んだ。
「放せ! 我の狙いは其方ではない」
「僕だって戦ってるんですよ」
ジタバタと荒げる脚を右手の方でも押さえながら足で踏ん張って、大蜘蛛が後退していく勢いを止めていると地面に転がった刃が限界まで張り詰めた蜘蛛の糸を切ってやると、そのせいで余った勢いで蜘蛛をひっくり返すことになった。すぐに手を離して立ち上がると左肩の辺りに刃が飛んでくる。
「タツヒコ! 大丈夫か?」
「ええ、助かりました。すぐに終わらせましょう」
こちらを見る八つのうちの一つの目玉を狙って突き刺すと奇声を上げるのだ。大蜘蛛への攻撃はトオル自身に任せ、僕は剣をより力強く深いところに捻り込んだ後に大蜘蛛の体にのしかかって動きを止めた。
「くそったれぇ!」
徐々に力が強くなってきたところで頭の方から炎が噴き出て、金色にも見えるそれを見て大蜘蛛の叫びを聞いて、すぐにそれがトオルのものだと分かった。体内に吹き付ける炎がロケットのように噴射して奇声が消えるほどの轟音を鳴らしながら蜘蛛の糸がついていない方の狛狐まで吹っ飛んで衝突する。
「おのれ、女狐! 我がこんなところで終わるなど。ありえん!」
その瞬間に蜘蛛は叫びながらその体は爆発四散し、僕らもその熱風に乗って数メートル吹き飛んで玉砂利の上に転がり込んで仰向けになってしまう。
僕らのように吹き飛んだ一方の狛狐の欠片がコツンと額に当たったところで上体を起こすと紅い狐が大の字に転がっているのが見えた。
彼はすぐに立ち上がってビュンとこちらに近寄ってくる。
「トオルさん」
「タツヒコ、大丈夫か。いやあ、こんなにぶっ飛ぶとは思わなかったなぁ。スッキリだぜ」
彼はサムズアップしながらニカニカと口角を上げる。どうやら清々しいようだが、彼の肉体と今後のことを考えるとそんな気持ちだけではいられない。
「大丈夫です。トオルさんも無事なようで、僕もびっくりしました」
グッと腰を反らせるとどっと滝のように疲労が押し寄せ、西に傾いた太陽のせいで眠気が止まらない。僕はそのあくびを噛み殺して数多の本と自身の荷物がある本殿に向かった。
「ちょっとは休んだらどうよ。疲れたんじゃないのか?」
「ここにある資料を勝手に持っていったら犯罪になるかもなので、若干グレーだと思うので自分の手から離れる前にできるだけ書き進めておきたいのです。トオルさんの方が色々あったんだから、休んだ方がいいですよ」
紅い狐は明るくケラケラと笑った。入り口から天気雨が降っているのが見える。
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ネット社会の噂とその考察
数奇な運命があって、私はこの農村について調査することになった。この農村はかつてダム計画に狙われた村である。しかし、それの実行とともに発生した事故によりそれは中断された。
インターネットにおいてこの事故を祟りなどと説明している者がいるのを見かけた。単なる自然現象で片付けた方が普遍で理解する人間は多いだろう。では何故、サイエンスが蔓延る現代にそんな噂が流れたのか。農村で発見した資料をもとに紐解いていきたい。