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紅狐の拘束  作者: 汐風鈴
1/2

上 僕の出発、紅狐の行方

   1



「えぇ! あの題材、他の人に渡しちゃったんですか」


「悪いねぇ、だいぶ困ってるみたいだったから。でも、サカバ君はいつもちゃんとやってくれるじゃん」


「じゃん、じゃないですよ。面白そうな題材だったんですよ」


「卒論の基準は下げてあげるからさ。じゃあ、ご飯行ってくるから相談あったら言ってよ」


 還暦に近い教授は僕の肩を叩きながら研究室を出て行った。伽藍堂の研究室でドアの閉じる音を聞いて背筋を凍らせてしまうのだ。溜め息を吐きながらうどんを乗せたトレーを持って食堂の席に座ると正面に僕の顔を見て気分をよくしている友人が寄ってくる。肩を落とした僕を見て笑いながら正面に座るのだった。


「どしたん? なんかおもろい事になってるん」


「僕が気を落としているのを面白い事と認識しないでくれ。そんな君といると疲れてしまう」


 僕は卒論について暴露すると案の定、ニヤニヤと僕の方を見つめる。銀色の耳飾りや胡散臭い口調、まっすぐに伸びた糸目の端にある一点の黒子から滲み出る愉悦を人型にしたような彼──鈴木──はそのような顔のまま腕を組んで頷く。


「まあ、ある程度甘くても許されるんやろ? 万が一失敗しても酒葉の落ち度じゃあらへん。民俗学は接点ないからなぁ、やっぱり流行りに乗っかるが一番や」


「まあ、それはそうなんだけど。やっぱり今の流行りは僕に合わないんだよ、感染症に関する話はね。僕の興味はどちらかというと山村の文化とか忌語とかだからさ。」


「大変なモンやな、やりたいことがあるってのも。大学を出るために大学に入った俺とは大違いやわ。……まあ、なんか考えてみるわ。期待せんでおいて」


 彼はささっと油揚げの乗ったうどんを平らげると後から来た友人と共に消えてしまった。


 僕は溜め息を吐いて立ち上がる。胃の中で踊る肉うどんの脂が主張を始めた。



 そんなこんなで何の進展もなく宙ぶらりんのまま過ごす中で、鈴木からとある連絡が来た。一ヶ月ほど消息を絶っている『怪奇調査の渡辺チャンネル』のことである。渡辺とは動画サイトのオカルトチャンネルで中程度の人気を持つ検証系配信者だ。


 SNSのアカウントで彼が新たなネタを掴んだと呟いてから更新がない。SNSでは遂に祟られたとか、事故死だとか言われている。応援してる人だけがお金を払って見れるサイトに行くと先行で彼の調査先を見ることができた。Y県のとある山間部にある廃村についてがネイビーのパーカー姿の彼の写真と共に掲載されている。


 県外からのアクセスを調べてみると電車やバスに乗って数十分歩かなくてはならないらしい。兎も角、この土地についての論文を漁っても一切見つからなかったので、僕はここから何かしらの風土史かなんかでも見つけられれば万々歳である。


「行くか」


 すぐに廃村のある自治体に電話を持ちかけると自己責任であれば何をしても良いという何とも気味の悪い返答をもらった。この科学が発達した現代において、それで理論武装して怪異奇譚を否定しながらも畏れているらしい。


 長期の夏季休業期間やバイトの休みなどが偶然重なったおかげで突飛な判断を妨げるものはなく、空のリュックサックに荷物をぎゅうぎゅうに詰めて玄関を出た。


 数時間かけてバス停に到着したところでちょうど、数時間に一本だけ通っているそれが僕の姿に気づいて止まった。空気を吹き出すような音を立てながら扉が開いた。


「きみ、もしかして噂を聞きつけたクチかい?」


 乗車してまもなく、運転手と僕以外に誰もいない空間で白で染まった頭髪の運転手は僕に話しかけてきた。この辺りは誰もいなくて暇なのだろう。


「ええ、まあそんな感じです」


「ちょっと前にも君ぐらいの男がいたよ。ありゃ罰が降る奴だけど、君なら大丈夫そうだ」


「大丈夫そうって、そもそも罰ってなんですか?」


「罰ってそりゃぁ、天罰だよ。神罰って言ってもいいかもね」


「妖怪とか幽霊とかそう言うのじゃなくて、神様なんですか?」


「多分、そういうのもいるよ。でも、農村で豊作の神様を祀っていてさらに地理的に隔離された場所だからね。かつての村人は信仰心が段違いなのさ。廃村になった今、そんなものは関係ないかもしれないし、もしかしたら君の言ったもののほうが近いのかもしれない」


「つまり、僕よりも先に来た男は何かあったってことですか?」


「さぁね、どうなんだかな」


 運転手はメガネを光らせるとこれ以上話すことはなかった。長期休みで得た賃金を使ってY県の山村近くのバス停を降りると夏にもかかわらず、嫌な寒気が肌を撫でるような感覚がした。それは肌の毛を逆立てて僕の足を止めるのである。


 蝉はシクシクと鳴いて、僕の噂をするように木の葉がざわめいている。錆びた道路標識やガードレールの数が少しずつ減っていって、ついには舗装された道が急に途切れてしまった。体力を剃り減らしながら凹凸の目立つ道路を進んでいると雑草で埋め尽くされた棚田が見えてきた。その奥には木々に隠れた赤い鳥居も見える。僕から見て左の方は何の変哲もない農村であるのだが、右の方は何もかもを土砂が飲み込んでいてその原因であろう山が禿げているのだ。


 ともかく、データ通信の圏外を見越してこの辺りの地図を購入しておいて正解だった。僕のマッピング能力もあって、迷わずにここまで到達することができたのだ。


 草を鳴らしながら進んでいると改めてその村を回っているとその静けさが蔓延っているのを自覚してしまう。パラパラと時代遅れの古民家に入ってみるとその時間に揉まれた退廃が奇妙なほどに僕の不安感を浮き彫りにしてしまうのだ。


 もとは開発のために明け渡された村であるらしい。インターネットで噂だけでなく、噂の根付いた場所について調べるとダムの貯水のために村人が撤退を迫られたということがわかった。撤退した後の出来事に噂が立った理由がある。その立ち退きを要求した企業が開発を始めようとしたところで事件は起きた。突如として、何の予兆もなく地滑りが起きたのである。それは決して小さいとは言えない被害を生み、人どころか重機すらも飲み込んだのだ。調査ではそんな危険性はなかったのに事故が起こってしまったらしい。それを運転手の言う『神罰』の類とするならば、やはりいるのだろう。

 

 そんな話を想起しているせいで肌をそっと撫でる風がただならぬものであることが身体中に広がって背筋が凍る。日常よりも遥かに敏感になった警戒心は遠くから迫る何かを察知していた。草陰から飛び出す塊を避けると、それは僕の目の前にある縁側を支える柱にぶつかって倒れた。


「うべぇ」


 カエルのようにひっくり返ったそれは童女の姿をしていた。ただの童女ではない。燃え盛るような赤い髪と瞳、それの頭には耳、尾骶骨の辺りから狐を彷彿とさせる真紅の尾っぽが生えているのだ。目尻の辺りには塗っているであろう口紅と同色の赤いラインが引かれており、それがキリリとした目元を一段高く強調している。視界に映る物体の中で童女だけ浮き上がっているような、周りをただの背景以下に成り下げるほどの摩訶不思議な雰囲気を彼女は持っている。


「だ、大丈夫か」


 妖の類だろうと思い、化かされる可能性に配慮してその紅白色の巫女服を着た童女から一歩離れたところで声をかけた。


「うう」


「ああ、色々混乱してそうなところ悪いけど、ここで何をしているのか聞いてもいいかな? その耳とか服装とか聞きたいことが色々あるんだ」


「俺は渡辺トオル。二十五歳の動画クリエイターだ。……ああええっと、何から説明したらいいんだ?」


 渡辺。偽名か本名かはわからないが僕の追い求めている人物の苗字と一致するのだ。もしかして、もしかしなくても僕が屈んでやっと顔を合わせられるほどの身長しか持たないこの童女が僕の追い求めていた渡辺ということだろうか。いいや、それを決めつけるにしては速戦即決がすぎる。僕の悪い癖だ。どこまでも真っ直ぐすぎると誰からも言われてしまうほどの質を患っているのだからそこは待たなくてはならない。


「別に筋書きを立てて話さなくていいので、ひとまず、今の状況を知りたいのです」


「……俺はただ企画の種にしようと思って来たんだ。動画クリエイターっていったろ。俺ァオカルト系で売ってるんだけど」


「じゃあ、その耳と尻尾はいったいどうしたんだ?」


「あそこに神社が見えるだろ、そこに行ったんだ。……というか来る途中に『噂がどうの』っていってたバスドライバーの話は聞いたか?」


 僕は頷いた。この童女が言っているのはおそらく神罰のことだろう。確認のためにそれを持ち出すと思った通り頷いてくれた。僕が一旦、縁側に座ると彼女もぐっと腕を伸ばし足をバタつかせそこに登ってみせた。


「うんっと、なら話は早い。その神社には確かにいた。でも、あれはもう神とは言えない。もはや化け物だ。……単刀直入に行こう。このふざけた体はその神のものだ。あの女狐を見た瞬間に体が硬直して目蓋を一回閉じたら俺の姿が見えた。その瞬間に力が抜けて、気がついたらこの体になっていた。意識を失う直前に俺の背中が見えたから、この体には俺が俺の体はこの体の持ち主が入ってるんだろ。俺が見た時は結構デカかったんだけどな、起きた時はちんちくりんだ」


 童女は懐を漁るような仕草をしてから何かに気づいて目を丸くした。小さな手をこちらに伸ばして来る。よく見ると彼女の爪は獣のそれに酷似していた。真紅に染まった爪と白く小さな手がその感覚を助長させる。


「タバコとか持ってないか?」


「持ってませんよ。友人が父親のタバコの不始末のせいで彼の自宅が全焼したのを目の前で見たので、かなり気をつけてるんですよ。それに、その体でタバコっていうのはちょっと」


 個人的にそんな小さな子供の姿を見たくない。つまりその裏は僕が見てさえいなければ、関与していなければいいのである。結局は僕は利己的でしかない、我利我利亡者なのだ。もしそうでなければ心中潔く卒論の題材を渡していただろう。


「いいんだよ。俺の体を乗っ取った奴の体なんて労わってやるもんじゃねぇ。まあ、あいつの体だからそこまで吸いてぇ感じもないけどよ、なんかしっくり来ねぇんだよな。口が寂しいっつうかよぉ」


 犬歯の発達した口を大きく開けながらそんなことを言う。紅い唇を波立たせながら違和感を隠せずにいるので長年リュックの中に沈んでいた甘ったるい飴を渡した。口調と仕草から元来男だったということがわかるが、口角を上げながら飴を口の中で転がす姿は見た目そのまま年相応に見える。


「話を戻しましょう。何故にあなたは山の方から転がってきたのですか?」


「ああ、あれは蜘蛛から逃げてたのよ。俺っていうか、ここの土地神が弱体化したせいで押さえつけられたやつが解き放たれちまってなぁ。復讐だ何だって追って来るのさ。まあ今更襲ってきてもどうにもならないけど」


「じゃあ、今もその蜘蛛はあなたを狙ってるってことですか?」


 童女は縁側を降りて人差し指、中指そして薬指を立てて薬指、中指、人差し指の順に折っていく。嫌な予感がして、荷物をそのままに立ち上がった。山の方から何かが土煙を上げながらこちらに近づいて来るのが聞こえる。徐々に大きくなっていくそのボリュームに体感温度が下がっているのを感じて、表の方へ逃げていく童女の背中を追った。


「もしかして結構ヤバい?」


「今更かよ。ッハ、お前も俺も手遅れだよ」


 少ししたところで振り返ると雪崩のように拳サイズの蜘蛛が迫ってきているのが見えた。進行方向に目線を戻すと運動不足の僕と違って飄々とした姿で走っている童女がいる。いたずらをした後のように口角を上げてまるで楽しんでいるかのように笑い声を開けている。


「やっぱこえー! このために生きてるって感じだわー!」


「あなた、いっつもこんな感じなんですか!」


 下り坂が徐々に足の回転を早めていく。ギラギラと輝く太陽が顔を覆って、背中から迫る数多の足音が背筋を冷やそうとしているのがわかる。


「ここまでじゃないさ。今まで、ここまでの楽しみはなかった。命削ってる感じ、たまんねぇ!」


「ふざけないでください。……好奇心なんかに頼るんじゃなかった。なんか策でもあるんですよね」


「俺のオカルト対処術その一。逃げる時は追う者の死角に入る、だ」


 肺がカラい。自分の体温が自身を焼いているようで指先から火を噴いてしまいそうなほどである。右前の童女が僕の腕を引っ張りながら急にギュンと左の方向に曲がった。


 その行動が予想外だったのと童女の腕力が強かったのが想定外だったのでその範囲外のせいで体制を崩し、足を地面に擦らせながらも蜘蛛たちに見つからないようにちょうど死角となった古民家に入った。


「がはぁ」


 強引に引っ張られたせいで背中から地面に叩きつけられて肺の中身が空になった。熱を持った痛みが拡散していく中で状態を起こす。ドアからの隙間の光と赤い化粧のせいだろうか、入ってきた扉を見つめたまま微動だにしない童女の姿から目を離せずにいる。すると、「何だ」と今度は満面の笑みで手をついたままの僕と童女の鼻の頭がついてしまいそうなほどに近づいてくるのだ。彼の潤む瞳は安直に宝石と表現してしまうぐらいに美しいもので、もしこの存在が偶像であれば崇拝してしまいそうになるほどである。


「ああっと、お前の名前を聞いてなかったな。改めて、俺は渡辺トオル。今にゃ、こんな姿だが元は男だ。好きな食べ物はモツ鍋」


「酒葉タツヒコです。とある人物を探してます。好きな食べ物はハンバーグ弁当のスパゲッティです」


「ああ、あれうまいよな。ソースと絡まって……。だめだ、想像してるだけで腹が減ってくる。……そういえば、タツヒコはここに何しにきたんだ? こんな山奥に来る奴なんて、なかなかいねぇよ。俺みたいなちゃらんぽらんな野郎、いや、今は女郎だけど。まあ、お前を一目見たとき頭が良い側に見えたからさ」


「僕はそんなに冷静な人間じゃないです。好奇心ってだけで、ただの人探しです。結局、見つからなかったし、蜘蛛に追いかけられるし、これからどうしようか」


 空間に漂う熱と湿気が肌に張り付いて汗が一切の揮発もなく膜となってしまう。ただ一つ救いなのは屋内に避難したことで直射日光に晒されることがないことだ。


「熱くないんですか?」


「あぁ、そういえば、そんなに暑くない。息切れもないしこの体の特別性って奴なのかもなぁ」


「ご飯はどうしてるんですか?」


「水で凌いでる。蜘蛛の目から逃れた時に野草を何度か食ったけどよぉ、下痢に吐き気で大変だったぜ」


 彼がこの体でいるせいで蜘蛛に追われておりこの体でいるおかげで逃げ続けていられる。僕から言わせてもらえば、その恩恵に感謝すべきなのかはわからないが、今彼が仲間にいるという状況は喜び以外のなにものでもないので彼の存在には結果的には感謝しなければならない。


「これからどうしますか、僕もトオルさんもここに詳しいわけじゃないですもんね」


「とりあえず、神社に行くか。確証はないが、あそこに何かあるはずだ」


「神頼みですか」


「この場合の神頼みが運に頼るという意味か、本物の神に頼るかによって是非は変わるってもんよ。いや、どちらとも言えるなぁ。何かに期待して神社に行くんだし、目的の場所はお社だし、間違いはないか」


「今はあなたがそれに当たるかもしれませんが」


「それもそうだな」


 彼はカラカラと笑いながら僕の左隣に座った。白く透き通った細長い太腿を交差させるようにして上にきた膝に頬杖をつくと首を傾げるようにこちらを見つめてきた。その烈火のごとき女狐の眼球を裂くほどに縦長の鋭い瞳孔は沈黙の中でも退屈することもない。


「何だ? 惚れたか?」


「そ、そんなわけないでしょう」


「はっ、冗談だよ。冗談、なんか重苦しく考えていそうだったから。タツヒコはもうちょっと肩の力を抜いていた方がいいと思ってな」


「冗談にも程がありますよ。肩に力が入ってるとか、柔軟な発想ができないとか、よく言われますけど」


 そう考えてみるとここに飛び込んできたのはかなりのチャレンジと言える。


 ふんと柔らかく鼻を鳴らしながら立ち上がった。それから、振り返って股を大きく開けながらしゃがむ。逆光が彼女の一本の赤を通ってそれを黄金に変えてしまうのだ。偶像のような美しさが僕に呼吸を忘れさせ、彼のガサツな言動も逆に美しさに力強さを加重させる。


「とりあえず蜘蛛の対策も無ぇし何をすればいいかわかんねぇけど、神社に行こうじゃねぇか」


 僕は身の安全と目的の達成を目指して立ち上がるのだった。



   2



 歩き出して真っ先に思い出したのは置いてきた荷物のことである。財布だけは紛失すると人権をなくすので持ち出したが、他のものも消えると、ここ数日の衣食住が霧散するので困るものは困るのだ。


「思ったより妖怪とかそういうのっていないですよね」


「人あるところに怪異あり、だ。もとは不可思議な現象の納得に利用された存在だがあいつら——今は俺も含まれるけど——江戸時代ぐらいからエンタメ方向に行ったんだよ。現代だと科学に追いやられて存在を忘れられたり、否定されたり、そんな荒波の中のような環境に彼らはいる。人が認知して初めて怪異は怪異としていられるのだ」


 さっきまでギラギラと笑っていたトオルは急に鋭い目つきで遠くを眺めるようになっている感じがする。蝉時雨と直射日光のせいか、その横顔には哀愁が含まれているように見える。僕は何も言えない。


「だから誰もいないここにはいないわけですね」


 トオルはふんと鼻を鳴らす。蜘蛛の子一匹見当たらない蛇行の道を進む。一度見上げみると木々に隠れた鳥居が垣間見えたが、額に滲む汗が目尻にまで走って目に染み、視界に靄がかかった。目元の水分を拭ったところで、ふとトオルの方に意識を向けると彼は深緑を映す瞳を波打たせている。


 ふとした瞬間——たとえば欲しい物が手に入った時とか美味しいものを食べた時——にその多幸感が奪われる日が来るのではないかという不安に襲われることがある。多幸感だけではなくて安心感を得た時でもあり得るだろう。


「ずっと、無茶やって何とかできてた。いざ考えてみるとこんな姿になってしまって先が見えない。こんなこと考えたことなかったんだけど、わけわかんなくて怖い」


 もしかしたらそれだけではないのかもしれない。この状況で安心を感じるのは僕の自意識過剰だし、そもそもトオルさんのことを知らないのだ。もしかしたら悲哀による涙ではないのかもしれない。どうやら僕には他人に無理やり自己を投影してしまう癖があるらしい。


 草の匂いが風に乗って紅の頭髪の間を結っている。晴れ渡る空に鳥も雲もおらず、僕とトオルがただ二人だけであることを強調させるのだ。


「どうするか、何ができるかなんて今は分かりませんから」


「ああ、わかってんだが……なんかダメだ。なんかこう、胸にぐわっとくるのが止まらない」


 僕には子どもの心情はわからない。十にも満たない幼児との接触を数年に渡って避けてきたのだから当然だろう。第一に難易度がわからない。どこまでの語彙を言ったら伝わってくれるのだろう。書店のアルバイトで子供と話した時、探し物について日本十進分類法を持ち出してポカンとされた記憶がある。


 人は忘れることで記憶することができるが(正確にいえば忘れることで経験を一般化させることができる。)僕の恥はその忘却とは関係のない部分での話、詰まるところ一般化された小さい子との接し方すら忘れてしまったので、本屋のアルバイトが恥という色で染められてしまったのだ。多分、十年はあの恥を忘れない。


 この異常事態に正確な判断と実行を成立させられる人間も少ないだろう。この状態に他人を置くという無謀を想像してみる。あの鈴木ならばどうするのだろうか。きっと年上の可能性があるトオルさんに対等な立場でものを言い、必要な情報交換を容易にやってのけるのだろう。人である意味のない僕と違ってもっとちゃんとした人と関わろうとする人間ならもっと上手く童女を誘導してやれるのだ。


 そもそもその童女が年相応じゃないのだけれど。


 そんな当てにならないことを想像しながら僕はトオルの腕を掴んだ。それに気づいた童女は深くため息をついてから顔を上げると、ぐっと握り返す。


「行きましょうか」


「あ、ああ」


 困難に陥っていたとして、太陽の暑さも蝉しぐれも消えてくれはしない。


「ここに神がいたということはかなり神聖な場所なのでしょうか」


「人に姿を見せる例はほとんどねぇなぁ。こんなことをするのは神じゃないと思うけどね、俺は。この村の人は超常的な存在を煽てないと日常が危ぶまれたのだと思うんだよ」


 僕はため息のような声を出して返事をした。


「何だよ、タツヒコぉ。俺がただ悪口を言ってる見てぇじゃないか。そこにいて迷惑になるのは決していいことではないだろうよ。ちゃんと自分の悪いところを把握して改善する。それが歩み寄る方法だろうが」


 心が痛い。


「ああまあ、それはそうですよね」


 山の麓にやってきたところでトオルは足を止めた。僕が異常な腐敗臭に気付いたところで石階段の角に下るような一直線の血痕が迸っているのを発見した。血痕は僕の足元で急カーブしており、稲科の雑草群の中に入っている。


 唾を呑んだところでトオルと目が合った。嫌な予感が合致したのである。それは残酷な、あるいは滑稽なものであろう。僕は殺人も事故も目の当たりにしたことはない。インドア派に怠惰が重なった結果、それらに遭遇する確率が極限まで低くなったせいだ。兎にも角にもそんな経験がない僕でもその嫌な予感というものを抱いてしまったのである。


「……みるぞ」


「ええ、トオルさんがいいなら」


 二人で背丈の高い雑草をかき分けると人型の何かがうつ伏せで倒れていた。湿気のせいで澱んでいた空気がより一層重いものになったような感じがする。腰に手を付けて、見上げる。太陽が目に入らないように瞼で蓋をしてため息を吐く。


 察するにトオルさんの体なのだろう。見覚えのある服装をしている。有料サイトに写っていたネイビーのパーカーだ。そこでようやっと、『ミイラ取りがミイラになった』ならぬ『オカルト系動画クリエイターがオカルト的存在になった』ことがわかった。


 そんな驚愕の事実を目の当たりにしたところで蓄積した疲労のせいでやっていられない。今の僕がこんなの何だからトオルのことを考えるとたまったものではない。心身の疲労の上に肉体の死というのが胡座をかいているのだから生きる気力も湧かないだろう。


「ちょっと、ほんのちょっとだけそんな最悪もあり得るんじゃないかと思ってた。もう、俺は俺でいられないんだ」


 不思議だ。異臭を放つ直視を避けてしまうものの前でさえ腹が減る。そういえば、早朝以降にロクな摂食していない。食い気をなくす場に直面したとしても本能的にその三つのうちの一つは再起してやってくる。


「一度戻りませんか。荷物が気になるんです」


 顔を下げたままのトオルの腕を軽く引っ張ると抵抗することなくこちらについてきた。僕は子どもの考えていることがわからない。

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