29 わたしの聖水をご覧なさ……い?
しばらくは、ミリアム先生の座学が続いた。
どれもこれもが一度学んだもので、しかも優等生だったわたしはその内容をほぼ完璧に覚えているものだから、時間の無駄でしかなく、結果、居眠りの常習犯となった。
理由はわからないけれど、わたしは学内の生徒や先生に関する記憶が定かではない。行事についても『そんなことがあったっけ』くらいしか思い出せない。なのに、勉強の内容だけははっきりと覚えている。
これは、神様がおまけしてくれた、ということで合っているのだろうか。
それとも、巻き戻したことで多くの人々の運命が変わってしまって、彼らに授かった才能にも変化があり、結果として学院に集まった人々の顔ぶれが変わったのだろうか。
聖女科では、座学の知識がどの程度定着したのかを調べるため、たびたび小テストが行われた。その度に満点を出すわたしのことを、先生は変な虫でも見つけたような表情で見ていたが、だからといってわたしの居眠りを見逃すわけでもなかった。
「先生、睡眠学習というものがあってですね」とまことしやかに言い訳をした時は「わたしの授業を起きたまま受けるのも、聖女としての勉強です」と、廊下行きにされてしまった。
ミリアム先生はある意味、大変公平な教師であると言えよう。彼女の辞書には『お目こぼし』という言葉はなさそうだ。
というわけで、わたしは廊下でぼんやり立っていたり、反省室、もといお祈り室の常連になった。
先生には申し訳ないけれど、足腰が異常に丈夫なわたし(もちろん、メンダル師匠のしごきの成果である)は何時間廊下に立っていてもまったく苦にはならなかったし、いつの間にか顔馴染みになった通りすがりの同級生や先輩とひそひそお喋りをして、ちゃっかりおやつを貰ったりしているので、そこそこ楽しく過ごしていた。
お祈り室では、暗記している聖句をとっとと書いてから、本来の使い方をして神様にお祈りをし、学院生活が意外に楽しいのですよとか、最近ルークが変だけど、わたし、彼になにかしたかしら? なんてことを報告している。
もちろん神様の返事はないけれど、たまに小さな青白い光をチカチカしてくれるので、面白がって聞いているのかもしれない。
わたしが奮闘した話が一番光るのよ。
あと、ウケるのはミリアム先生との攻防ネタね。
「今日は、神殿での授業となります」
ミリアム先生がそう言って、わたしたち聖女科の学生は先生の後について学内神殿に向かった。
「いよいよ実技ね」
「神殿には見学でしか行ったことがないから、緊張するわ」
聖女科のお嬢様方が、お上品に囁き合っている。
わたしたちが聖女や神官としての活動をするための訓練が、この学内に建てられた神殿で行われる。ここには聖女・神官の魔法を効率よく使うための道具や施設が備わっていて、小ぶりながら、そのレベルも作りも国の正式な神殿とほぼ同じである。
二度目の学院生活なのでわたしには見慣れた建物だが、リリアンは「すごーい!」を連発して神殿内部を見回している。確かに、品のよい壁画や彫刻が施されていて、見た目も美しい建物だ。
ここで聖女科の学生が制作したものが王都で販売されて、その収益がこの建物の維持に使われている。王都には聖女科マニアという人々もいて、文化祭では特別に売り出される『出来たてほやほやな聖水』が大人気だそうだ。
そんな人たちもさすがに神様のことを畏れているらしく、学生に対してあまり不届きな振る舞いをする者はいないのが幸いである。
最近わたしは、リリアンを少しわたしから距離を置かせている。
入学当初はわたしがいないと不安になるのかべったりくっついて離れなくて、このままだと姉離れができないのではないかと思い、エマに相談した。
その後に、エマの策略で「お嬢様に不利なことがないように、リリアンさんはなるべく多くの学生と交流して、噂や内緒話などの情報を手に入れてもらえないでしょうか? 聖女科だけではなくて、学院の生徒の中に密やかに潜入するのです。そして、このことはお嬢様には内密にお願いいたします」と謎のミッションを告げられたリリアンは、元々の明るい性格を生かしてコミュニケーションを取りまくり、入学して間もないのに一学年での有名人となっていた。
彼女は当然ながら、妹分としての位置は他に譲らないものの、多くの友人もできて楽しそうに毎日を過ごしている。ふわふわした小動物っぽいリリアンは、男子学生にも人気があるらしい。ルークに続いてモテ期が来たのだろうか。
わたしはというと、誤解されやすいチェスター伯爵家令嬢の通訳として、クラスで活動している……わけではないけれど、それなりに楽しく過ごしている。
チェスター家はリーベルト家に並ぶほどの力を持った伯爵家なのだが、アライアさんの独特な口調とわかりにくい性格のせいで、学院でうまくやっていけるのか、下手したら多くの敵を作るのではないかとご家族に心配をされていたらしい。
そんなアライアさんの手紙に、こともあろうにシャンドラ・リーベルト伯爵家令嬢という大物の名前が出てきて慌てたらしいが、素早く調査をした結果、わたしのおかげでアライアさんが誤解されることなく、スムーズに学院生活を送れていると知り安堵したとのことだ。
これは、学院に紛れ込んでいたチェスター家の間諜を捕まえて聞き出したので、確かな情報である。
いえ、拷問なんてしていませんわよ?
メンダル師匠譲りのにこやかなお顔でお話し申し上げただけでございますわ。
さて、本日の実技は聖水作りである。
聖水とは文字通りの聖なる力を封じ込めた水で、魔除けとか、アンデッドという呪われた魔物を退治する時にとても効果を発揮する。
教会や神殿での儀式に使われるし量が限られたものなので、裕福な貴族や平民の家でしか手に入りにくいが、大事なものや食べ物に振りかけたり、飲み物に入れて飲むこともある。
ちなみに、その効果はというと、神様への敬虔な気持ちが強く信心深い者ほど、大きな効果を発するらしい。
わたしは飲んだことがないから、よくわからない。
教会で、信心深い神父さまが神託をいただけるように、聖水を飲んだ信心深い人が特別なお恵みをいただき、病気が快癒したり望みが叶ったりするのだろう。
ちなみに、個人的な欲望はほとんど叶えられないらしい。
素敵な男性と出会いたい、とか、お誕生日のプレゼントは欲しかったおもちゃがもらえますように、くらいの可愛らしいものならよいという。
神様は『面白いか面白くないか』も重要視しているのだと思う。
そんなことを言ったらミリアム先生に立たされるから、言わないけれどね。
で、今日はその聖水を作るのだが……実はわたしは、前世でもこの聖水作りが苦手であった。なんと、いまだに一滴も作れていないのだ。
まあ、世界を滅ぼすような邪悪な心を持つ闇聖女だったのだから、当たり前だわね。聖水じゃなくて変な汁を作り出しそうよ。
わたしたちは先生の指示に従って、神様の像(全然イケメンじゃない……こんなの神様じゃないから作り直しを要求したい! リーベルト家から寄付をしてもらおうかしら)の周りに置かれた人数分のクッションの上に、靴を脱いで座った。
そして、学内神殿の神官様が、わたしたちひとりひとりにティーポットくらいの壺を手渡してくれた。
「気持ちを楽にしてくださいね。上手くできなくても、神様は優しいお気持ちで見守ってくださいますよ」
まだお若い神官様は、そんな優しい言葉をかけてくれた。わたしが暗い気持ちになっているのに気づいたのかもしれない。
「ありがとうございます」
わたしはお礼を言って、カラカラに乾いた壺を受け取って、絶望した。
ああ、聖水を出せる気がしない……。
皆のもとに壺が行き渡ると、神官様は神様の像に向かって感謝の祈祷文を唱えた。そして、学生で聖歌を斉唱する。神様の像に、キラキラした青白い光がまとわりつくのが見えた。神官様の魔力かもしれない。
それからわたしたちは、それぞれの壺に向けて、聖水を賜るための祈祷文を唱えた。すると、斜め前にいたリリアンが「あっ、先生!」と声をあげた。
「リリアンさん、どうしましたか?」
「壺がいっぱいになりました」
「そうですか。それでは、こちらの瓶に注いでください」
先生は、台車に乗った巨大なガラス瓶を示して、リリアンは壺を持って立ち上がると瓶に近づき、壺からほのかに光る聖水をあけた。
「自分の場所に戻り、祈祷文を……」
「あ、またです。いっぱいになりました」
さすがは大聖女だったリリアンだ。あけたばかりの壺には、なみなみと聖水が満ちている。
「……あなたは瓶の脇に立って、祈祷していなさい」
「はい」
リリアンは壺を持って立ち、聖水ができたら瓶をあけ、またできたら瓶をあけ、という聖水製造機と化した。
「魔力が尽きそうな感覚はわかりますね? そうなる前に止めるのですよ」
「はい、先生」
いや、リリアンの魔力は無尽蔵なのだ……しばらくしたら、もう一台の台車がやってきた。ガラス瓶のお代わりを用意したようだ。
「ある程度聖水ができた学生は、わたしに見せてからこちらの瓶に注いでください」
聖水作りに成功した学生たちが、嬉しそうに立ち上がって、できたての聖水を先生に見せては瓶に注いでいく。
それを横目で見ながら、わたしは必死に壺に力を込める。
「聖水……聖水、出てこーい……」
やっぱり無理。
一滴も出ない。
ふんばっても出ない。
「あとは、シャンドラさんだけですね」
しまった。
いつの間にか、わたし以外の学生は皆、聖水作りに成功していた!
というか、失敗するのが難しいと言われている、聖女の仕事の基礎の基礎なのだ。
「祈祷文を唱えるのに、気持ちがこもっていないのではないですか?」
「そんなことはないと思います! めっちゃ気合いを入れてます!」
わたしは壺を抱えて「ふんんんんんんぬぬぬぬぬぬぬ」と魔力を込めた。しかし、わたしの聖女的な魔力はほんのちょっぴり光る程度のものなのだ。
「先生、出ません……」
一滴も聖水が作れない。
わたしは本当に、才能がないのだ。
しかし、先生は許してくれなかった。
「出ません、ではありません。神様にお祈り申し上げて……」
「お祈りしてます! でも、わたしには作れないんです! わたしには聖女としての才能はないんですよ、先生!」
「シャンドラさん、落ち着きなさい」
逆ギレしたわたしを見て、ミリアム先生はため息をついた。
「才能があるかないかは、神様がお決めになります。確かにごくわずかでしたが、シャンドラさんは魔力測定の石を光らせたではありませんか」
「ちょっぴりにも程がありましたけど! あれではせいぜい壺が湿るくらいしか……聖水、出せません……」
わたしは悲しくなって「わたしは落ちこぼれだから、聖女にはなれないんです」と壺を抱えてクッションにうずくまった。
他の学生たちがわたしを同情の目で見ているのが辛い。
ミリアム先生は、わたしの言葉を聞いて、ふんと鼻で笑った。
「そうですわね、シャンドラさん。あなたは授業を真面目に聞かないし、教科書を真面目に読まないし、内容にケチをつけるし、困った学生です。なのに聖句も祈祷文もしっかり覚えていて、お祈り室に入ると暗くなるまでずっと神様にお祈りをしている、変な学生です。そんなあなたは、なんのために聖水を欲しましたか?」
「……え?」
わたしは、いつものように冷たい声でわたしを叱るミリアム先生を見た。
「あなたは、なぜ、聖水が欲しいと思ったのかと聞いているのです」
「なんのため? それは……なんのためかしら……」
この壺に聖水があったら。
「聖水は……誰かを癒すかもしれないし、守るかもしれない。神様へのお祈りに使われるかもしれないし……誰かを幸せにするかも……だから、聖水があったらいいと思う……」
「そうですか。ならば、その気持ちを聖なる壺に伝えて、聖水をくださるように神様にお祈りしなさい」
わたしは、わたしを見下ろすミリアム先生に「祈祷文は?」と尋ねた。
「心の伴わない祈祷など、子守唄にもなりません」
「眠くなるから子守唄にはなると思います」
「お黙り」
ミリアム先生に睨まれたので、肩をすくめ、また壺に向き合った。
「神様、聖水をください。わたしの大切な人を守るために、聖水が欲しいのです」
すると、壺から手のひらになにかが響いて伝わってきた。
「……ああっ!」
わたしは壺の中を覗き込んで声をあげた。
「できたわ! 神様が聖水をくださったわ!」
壺の底には、ティースプーンに五杯程であるが、青白い光を放つ聖水が湧いていたのだ。
「できたではありませんか」
ミリアム先生はまた鼻で笑うと「それでは、お道具を片づけたら教室に戻りますよ」と、皆に授業の終わりを告げた。




