お酒に弱いフィジー
「お酒最高〜!」
「最高〜」
俺の後に続いて、陽気にシエラが言う。
「もう嫌だ…… 我、お前、嫌い……」
時々えずきながら、フィジーは片言でそう言う。
もうどのくらい酒を飲んだだろう。
視界はぐらぐらで、身体は浮かんでしまうと思うほどふわふわ。それでいて気分はすこぶる良くて、踊り出したいくらいだ。
ちなみに、シエラは俺が感覚連結を使って、口だけを実体化させ、酒を飲んでもらった。「甘くないけど好きかも〜」が彼女の感想だ。
「なあ、そろそろ切り上げた方がいいんじゃないか? ほら、あんまり金もないんだし」
遠くの方で、アイラの声がした。
「そうだった〜! おっちゃん、お会計お願い!」
他の客と話していた店主が近づいてくる。
「だいぶ飲んだじゃねえか。そんなに気に入ったか?」
「うん! めちゃくちゃ美味しかった!」
俺の手持ちは銀貨八枚。そこらの宿に一泊できるくらいの価値はある。
まあ、酒しか頼んでないし、足りる足りる。
「全部で大金貨五枚だ」
「へ?」
俺は一気に血の気が引くのを感じた。
「大金貨五枚って…… リックの給料一年分を余裕で超えてるじゃんか!」
アイラの言葉が胸に刺さる。
「うわ〜、ぼったくりだ〜。リック可哀想〜」
他人事かよ!
いや、まだわからない。もしかしたら、冗談かもしれないし。
「あ、あれ、俺そんなに飲んだっけ?」
「余所者は別料金。さっさと払いな」
顔がマジだ。
「いや、でも俺そんな金……」
「なら、衛兵に突き出すしかねえな。それが嫌なら、嬢ちゃんの身体で稼ぐって手もあるぜ。うちの常連が、嬢ちゃんの事気に入っちまってな」
さっきのテーブル席の客から卑しい視線が向けられる。
大金貨なんて、すぐに手に入る額ではない。どうするべきか。
「はあ、何をしている」
俺の口が動く。
「また、いいように搾取されるのか? さっきは何のための乾杯だったんだ?」
その諭すようなセリフと裏腹に、フィジーの声はしわがれていて気怠げだ。
そうだ。
俺は酒を口にした。もう今までのお利口な自分は死んだのだ。
「よし、逃げよう!」
「ふざけんなよ! 誰が逃すとーー」
店主の鬼の形相に、突如赤い液体がかかる。
横を見ると、ガータがジョッキを店主の方に向けている。銀色の縁からポタポタと垂れる、同じ色の雫。
彼はジョッキを置くと、ゆっくりと立ち上がる。そして、俺の腰に手を回した。俺の身体が浮かび上がる。
「逃げる」
ガータが呟き、膝を少し曲げる。そして、一瞬で加速。
酒場の扉をぶち破り、人の往来を流れるように抜け、ついには建物を駆け上がる。
「うわぁぁぁぁぁ!」
屋根から屋根へ、一っ飛び。まさに疾風。本当に宙を浮いているようだ。
「衛兵! 衛兵! 食い逃げだ! 早く来てくれ!」
店主の野太い声が、店周辺のざわめきが、どんどん遠のいていく。冷たい風が、痛いくらいに顔に当たる。西の空へ沈んでいく、茜色の夕日がひどく美しい。
やってしまった。悪い事、では済まされない。犯罪だ。
だが。
「なんでだろう…… 悪い事したのに、なんか楽しい…… !」
俺はおかしくなってしまったのか。こんなにも楽しいだなんて。
でも、俺を縛っていた何かから解放された気がして、身体も心も軽い。
「おお! お前の感情が伝わってくるぞ…… ! そうか、なるほど! これは愉快だ! 気持ちが良い!」
ガータは一定のリズムで走り続ける。
それが心地よい。ずっと続いてもいいような気さえする。
「ところで、人間。お前はなぜ欲情している?」
「え、欲情なんてしてないけど」
「何を言う。胸の辺りがモヤモヤするぞ。これは欲情してる合図であろう」
胸の辺りがモヤモヤ?
本当だ。言われてみれば、胸が変に熱い。しかも、それは段々と上へ昇っていく。
「たしかに欲望に忠実になれとは言ったが、こうもところ構わず欲情されては敵わん。ま、我の身体が罪深いほど艶美なのはわかるがーー」
「違う。これは…… ガータ、一回ストップ! それ以上身体を揺らされたらーー」
あ、だめだ。
次の瞬間、俺の口から見たことのない汚い色の液体が流れていった。
どこかの平な屋根に下ろされ、しばらくガータに背中をさすってもらう。ようやく気分が落ち着くと、俺は仰向けになって寝転んだ。
決めた。酒はもう飲まない。
その数分後、遅れてアイラたちが合流。
俺の悲惨な状態を前に、彼女は少し引いていた。
「まったく、こいつ速すぎだろ…… もう少しで見失なうところだった…… ていうか、シエラ。あんたは早く背中から降りろ」
「え〜、いや。アイラちゃんの背中がいいの〜」
「酔ったら甘えるタイプか。可愛いな。他の奴にはやっちゃだめだぞ?」
「は〜い」
あっちは天国だ。一方こっちは。
「あー、気持ち悪い……」
「お前が我の忠告を無視して飲み続けるからだ…… あ、これ、また…… 人間、早く向きを変えるぞ。口から性欲が出る」
「だから、この胸のムカムカは欲情してるとかじゃないって……」
フィジーとの共同作業で、俺はうつ伏せになる。
「うへぇ…… そんなんで大丈夫か…… ? 謁見まで後二時間だぞ?」
アイラに言われるまで、完全に忘れていた。
「大丈夫! しばらく休めば」
無理して作った俺の笑みは、アイラの顔を引きつらせた。
「何を言っている、人間。ここからがお楽しみだろう」
「もう十分楽しんだよ。これ以上は…… って、何してるの! 今立ち上がるのはやばいって!」
俺の必死に抵抗も虚しく、フィジーが無理矢理身体を起こした。
「後二時間か。十分時間はあるな」
「今度は何をする気なんだ?」
「決まっている。あのクズの泣きっ面を拝みにいく」
覚束ない足取りで屋根を歩いていく。途中で小さな段差に足を取られた。
「あっ」
俺はそのまま、路地裏にあるゴミ山に墜落した。