お酒は成人してから
カタンという音がして、薄い両扉が開け放たれる。
入って来たのは、身なりのキチンとした紳士風の男。彼は迷いのない足取りで進み、カウンター席の端に腰掛けた。言葉を交わすことなく、彼の席に酒が出される。ここの常連なのだろう。
近くの丸テーブルでは、若い男たちが肉を豪快に喰らいながら、談笑に耽っている。
酒場には多種多様な人間が出入りしているらしい。
「ほらよ」
ガタイの良い強面の店主が、その岩のように節くれ立った手から、バカに小さいグラスを置く。その中には、赤い血のような液体が半分ほど入っていた。
「これは何という酒だ、デカ男」
「ブラッディ・ドラゴン。ウォッカに竜の生き血、それからレモンと香辛料を加えた、ポイニクス伝統のカクテルだ。ここに来た奴は、必ずこれを飲む。一口で寿命が一年伸びるって言われてる」
フィジーの無礼を気にする様子もなく、店主は酒の説明をする。
「人間は血を好んで飲むのか。中々に野蛮だな」
「まあ飲んでみなって。これを飲んだ奴は、みんな口を揃えて同じ事を言う。嬢ちゃんもそうなるぜ」
「ふっ。我が並の人間どもと同じ言葉を口にするとでも?」
フィジーは挑戦的な目つきで店主を見ながら、色っぽい手つきでグラスを掴み、口へと運んでいく。
「いや、ちょっと待て!」
俺は慌てて、グラスの進行を右手で止めた。
「なんだ人間。こぼれたらどうする」
「そういう問題じゃないだろ!」
「じゃあどういう問題だ?」
「俺は未成年! お酒は飲めないの!」
「なんだ嬢ちゃん、未成年なのか? それなら酒は出せねえな。ポイニクスはそういうのには厳しいんだ」
店主がグラスを取り上げようとする。
「冗談だ。我が未成年に見えるか?」
「まあぶっちゃけ、十七、八くらいに見えるな。喋り方だけは一丁前だが」
「ふん。見る目のない男だ」
「よく言われるよ」
他の客に呼ばれ、店主はそちらに向かって行った。
「俺は絶対飲まないからな」
「器が小さいな。たとえお前が未成年だったとしても、これは我の身体だ。我は年齢とか、そういうものを超越した存在。未成年もクソもない」
「いや、でも」
「こいつを見ろ。未成年にも関わらず、狂ったように酒を飲んでるぞ」
フィジーは横目に、隣の席を見る。そこに座っているのは、フードを深々と被ったガータ。
「ウィスキー、ダブル」
「はいよ」
ガータのテーブルに置かれたのは、グラスに並々注がれた琥珀色の液体。彼はそれを一息に飲み干す。
「ウィスキー、ダブル」
「兄ちゃんやるねぇ。でも、そんなに飲んで、後で吐いても知らねえぞ?」
忠告を受けた側から、酒がガータの口へと消えていく。
「え、ガータって未成年だったの…… ?」
「見ればわかるだろう」
「いや、たしかに中性的な顔立ちだけど…… ! わかるか、普通!」
自分の話をされてる事に気づいたらしく、ガータがこちらを向く。彼は無表情のまま、テーブルの方を指さした。
「それ、美味しい」
それだけ言うと、ガータはさっきと同じ酒を注文した。そして、それを黙々と口へ流し込む。
酒ってそんなガブガブ飲むものなのだろうか。
「で、同じ未成年のお前は何を躊躇っているんだ。何がお前をそこまで制御している」
「それは……」
周囲の喧騒が小さくなっていき、代わりに他の音が耳元で聞こえてきた。
『リック様、競う事は悪なのです。必要以上に欲する事は悪なのです。嗜好品は堕落の象徴、存在自体が悪なのです。異性の身体は神聖なもの、それを汚すような考えを持つ事は悪なのです。常に清く正しい心を持つ事が肝要です』
『兄様は素晴らしいお人です。聡明で慎ましく、何事にも真摯に取り組み、万人に分け隔てなく平等に接する。私はそんな兄様を尊敬しております』
俺は小さく首を横に振る。すると、音はたちまち消えていった。
嫌な記憶を思い出してしまった。
「世の中、生真面目に生きている奴が損をする。さっきのクズを見ただろう? あんなクズが、大願の成就を目前にしている。自分の欲望に忠実。そのために、利用できる物は全て利用する。それが最も賢い生き方だ」
その言葉には心に響くものがあった。
「昨夜だってそうだ。お前がもっと早く自分の欲を言葉にしていれば、我の身体をほしいままにできた。いや、それ以前に、あの時我など見捨てて逃げてしまえば、お前はまだ生きていられた」
「まさか助けた事まで説教されるなんてな」
「勘違いするな。感謝はしている」
憎めない奴だ。
「この一杯は、いわばお前が殻から抜け出すための糧だ。これから血の味を覚え、他者から嬉々として生き血を啜る。そのための第一歩」
左手がグラスを掴んだ。中身の液体が天井の灯りを照り返し、まるで不吉な満月のようだ。
「でも……」
「いいと思うよ、あたしは」
意外にも、アイラが賛成する。テーブルにあぐらをかいているが、魂だから誰にも注意されない。
「リックはずっと我慢の人生だった。色んな職を転々として、少ないお金でどうにかやり繰りして。あんなクズたちみたいにはなって欲しくないけど、少しは蜜の味を覚える事も必要だよ」
「蜜!? いいな〜、私も飲みたいな〜それ。甘いのかな?」
店主側の方からこちらへ、テーブルに身を乗り出すシエラ。なぜわざわざそっちに行った。
「シエラ、あんた店主の話聞いてたか? 絶対甘くないだろ……」
「リック、私にも後で飲ませてね〜」
「全然人の話聞いてない…… そこも可愛いけど」
アイラはシエラには甘々なのだ。
「わかったよ! 飲むよ! 飲めばいいんだろ!」
俺はフィジーの左手に、右手を重ねた。そして、口元まで持っていく。
鼻につく強い匂い。
あれ、こういう時って、何か言わなければいけなかったような。
「我々の未来に」
先にフィジーが言ってくれた。
「お、俺たちの未来に」
ぎこちなく俺もつづく。そして、ぐいっと、飲み込む。
口の中に広がる、舌全体が痺れるような鉄の味。それを覆い隠すように、後から現れる香辛料の刺激的な風味と、レモンのほのかな酸味。そして,最後に熱い液体が喉を通り、鼻に独特な香りが抜けていった。
これは……
「まずい……」
「ははっ! なんだ嬢ちゃん。あんな大口叩いておいて、結局他の奴と同じセリフじゃねえか!」
店主は抱腹絶倒とばかりに大爆笑をする。
だが、「まずい」という発言は、俺の意思とは関係なく発された。つまり、これはフィジーの感想だ。
「え、そうか? これ美味しいぞ?」
こっちが俺の感想。
「は? 何言ってるんだお前…… 正気か…… ?」
「いや本当に。おっちゃん、これもう一つお願い」
「待て、我はもういい。他のをーー」
「いいね。これを連続で頼む奴は滅多にいない。特別に増量だ」
ゴトンという重い音。出てきたのは、さっきの十倍以上はある、鉄製のジョッキだ。
「ありがとう、おっちゃん! いただきまーー」
「いただくな馬鹿! 我を殺す気か!」
「魂は死なないんだろ? それに、欲望に忠実になれって言ったのはそっちだ」
「こいつ、急に強気になりおって…… ! おいよせ! 頼む! 何でもする! だから、考え直せ! 人間! 人間ーーーーッ!」
フィジーの嘆きは、液体を飲む喉の音へと変わっていった。
ああ、なんだかよくわからないが、幸せだ。