離婚届を出す朝に 番外編 エピソードゼロ
(あ、あの人だ!)
紫奈は帰りの通学電車の中で『あこがれの君』を見つけてドキリとした。
少し遅くなった日に見かけるから、何か部活をしているのだろう。
着ているブレザーは、紫奈の女子校から二駅離れた超進学校の制服だった。
いつも難しそうな参考書を開いて熱心に読んでいる。
少しばかり地味な雰囲気の人だが、紫奈にはドストライクだった。
自分が生まれつき茶髪のくせ毛で派手な雰囲気だからか、それとも勉強が得意ではなく女子校でも落ちこぼれのせいなのか、いつも真逆の人に憧れてしまう。
電車の中でわざわざ勉強しようなんて絶対思わない紫奈だったが、そんな自分だからこそ少しの時間も惜しんで勉強する男性がすごくカッコよく見えてしまうのだ。
「あれ? 紫奈」
あこがれの君に見惚れていた紫奈は、急に声をかけられて振り向いた。
「優華……」
優華は同じマンションで小学校から同じ女子校に通っている親友だったが、高校生になってからは疎遠になっていた。
中学までは優華の家の車で学校まで一緒に送迎してもらっていたから、クラスが離れても仲良くしていたけれど、高校になって自分で電車通学するようになると話す事もなくなった。
もともと違う人種の人間だった。
優華は勉強も運動もなんでも出来て、先生の信望も篤く紫奈とは正反対だ。
中学まで仲良くしていた方が不思議なのだ。
紫奈は優華といると自分が惨めになるから、疎遠になれてホッとしていた。
でも誰にでも気さくに話しかける優華は、たまに電車で会うと声をかけてくる。
(あーあ、せっかくあこがれの君をゆっくり見られると思ったのに)
紫奈は少し迷惑に思いながらも、仕方なく優華に話しかけた。
「部活の帰り? バドミントンだっけ?」
「うん、大会が近いから。紫奈は? こんな時間まで何してたの?」
優華と話していると責められてるような気がする。
小さい頃からダメな私の面倒を見ていたせいか、母親口調なのだ。
「うん。バイトしようかと思って。面接に行ってたの」
「バイト? え? 校則で禁止されてるでしょ?」
「あ……うん。でもほら、うちはお母さんがパートの掛け持ちで、もう体がきついみたいだからさ。自分の小遣いぐらいは自分で稼ごうかと思って」
「だからって見つかったら停学か、バイトの内容によっては退学になるよ」
紫奈は余計な事を話さなければ良かったと思った。
優華はこういうところがめんどくさいのだ。
「でも家計が苦しいから仕方ないのよ。お願いだから誰にも言わないでね」
「う……ん。もちろん言わないけど……」
優華は約束を絶対破らない人だ。
だからきっと誰にも言わない。
それは充分に信頼出来る人柄だったが、真面目過ぎて一緒にいると疲れる。
優華と近況を話している内に駅に着いてしまった。
あこがれの君は数駅先で降りるはずだ。
最後に一目見ておこうと思ったが、見当たらなかった。
(あれ? 別の車両に移ったのかな?)
首を傾げながらホームに下りると、驚いたことに目の前に立っていた。
「あの……」
しかもためらいがちに向こうから話しかけてきた。
(え? これってまさか……)
「は、はい!」
紫奈は緊張しながらあこがれの君を見つめた。
しかし。
彼の目線は完全に隣の優華だけを見ていた。
「以前から時々見かけていて、ずっと話をしたいと思ってたんです」
「え?」
「友達からでもいいので、お付き合いしてくれませんか?」
あこがれの君は隣の紫奈の事など眼中になく、優華に超ストレートに告白した。
紫奈の心の中はガーンという効果音が聞こえそうなほどショックを受けていた。
「ごめんなさい。私、そういうのはお断りしてるので」
そして優華は紫奈のショックにも気付かず、あっさり断った。
喜んで受け入れてもショックだが、紫奈のあこがれの君を容赦なく振ってしまうのもまた、やるせない気持ちになる。
自分と優華の差を、まざまざと見せ付けられた気がする。
「じゃあ、失礼します。行きましょ、紫奈」
未練たらしく目で追っているあこがれの君を置いたまま、優華は紫奈を連れて改札に歩き出した。
「ゆ、優華。振っちゃって良かったの? 結構素敵な人だと思うけど」
紫奈は不本意ながらも、あこがれの君を庇っていた。
「そう? 私は全然タイプじゃないわ。ああいう人、ちょっと苦手」
「そ、そうなんだ……」
自分の好きな人が目の前で振られて、こき下ろされるのは結構悲しい。
(優華にはもっと素敵な人がいくらでも現れるものね……)
優華と一緒にいると、こういう惨めな思いをする事が多いから嫌なのだ。
優華自体は、優しくて親切で嫌いじゃないのだが、自分との差を感じるのが辛い。
マンションに辿り着くと、家の前に風間康介が立っていた。
目にかかる前髪からのぞく人懐っこい目が、嬉しそうに細まった。
「おお、紫奈。良かった。家の鍵持って出るの忘れて困ってたんだ」
「また? おじさんがあとに出る時は気をつけなさいよ」
「わりい、わりい。腹減ってるんだ。なんか食わせてよ」
「もう、しょうがないなあ」
康介は小学校から近くの公立校に通っていて、一度も同じ学校になった事はないが、同じマンションの一階同士で、昔から仲が良かった。
「じゃあ、また明日ね、紫奈」
優華は康介を見つけた途端よそよそしくなって、さっさとエレベーターに乗って行ってしまった。
「相変わらずお高くとまってんな、あいつ」
康介は優華が気に入らない。
同じように優華も康介を嫌っているようだった。
「康介って変わってるよね。普通の男子は優華みたいな子が大好きでしょ? さっきだって他校の人に告られてたし」
言いながらも心がチクリと痛んだ。
「ふーん。興味ないな。俺は紫奈の方が全然可愛いと思うぞ」
「あっそ。食べさせてもらう時だけは口がうまいよね」
「なんだよ。俺はいっつも紫奈が一番だろ?」
「はいはい。焼き飯でいい?」
「おお! ラッキー。紫奈の貧乏チャーハン大好きなんだよ」
「貧乏で悪かったわね」
調子のいい康介だが、おかげで少し気持ちが晴れた。
紫奈は昔から、なぜか康介のような遊び慣れた男によくモテた。
でも女性関係の多い康介をいつも見ているせいか、紫奈の好みは堅物というぐらい真面目な人なのだ。そしてそういう人はいつも優華を好きになる。
結局、未だに心が通じ合う恋愛をした事がなかった。
◇
人材派遣会社に登録していくつかメールで届いた仕事の中で、紫奈は友人と一緒に一番わりのいいキャンペーンガールのバイトをすることにした。
巨大ショッピングモールでフリーペーパーを配る仕事だった。
自宅と学校から離れた場所だったが、一応学校にバレないよう化粧をして髪型も変えた。
「紫奈って化粧ばえするよね。綺麗なお姉さんに見えるよ」
「え? ホント? 良かった。派手過ぎないか不安だったのよ」
「派手といえば、派手だけどね」
「やっぱり? この衣装のせいもあるよね」
キャンペーンガールの衣装は、クリスマスシーズンに入ったせいか、もこもこの白い縁取りのあるサンタ色の赤のミニスカワンピースに、白の長ブーツだった。
髪型は友人と二人おそろいのツインテールに、猫耳カチューシャだ。
はっきり言ってなんの統一感もなかったが、スタッフの趣味なんだろう。
週に二日だけだが六人のキャンペーンガールでシフトを組んでいる。
紫奈と友人以外はみんな大学生のようだった。
「じゃあ皆さん集まって下さい。今から仕事内容を説明しますので」
スタッフの茶髪にピアスの陣内が紫奈たちを集めた。
今日は創刊初日なので六人全員が稼動していた。
「陣ちゃん、うちら中にしてよ。外は寒いんだもん」
「そうそう。やっぱ外は若い子に任せてさあ」
大学生たちはスタッフの陣内と知り合いらしく、仲が良さそうに話していた。
そして新参者で高校生の紫奈たちと仲良くなる気はなさそうだった。
「ダメダメ。わがままだなあ。ちゃんと交代でやってもらうから」
「えー、いじわる。じゃあランチおごってよ。休憩合わせてさ」
「分かった、分かった。その代わりちゃんと真面目に働いてよ。今日はスポンサーの人も何人か見に来るって言ってたし」
「え? それって社長さん? 青年実業家?」
途端に大学生たちの目の色が変わった。
「まあ社長さんが自分で見に来る会社もあるだろうけど……どうかな?」
「チャンス! 陣ちゃん、社長さんが来たら紹介してよ!」
「はいはい。まずは仕事内容を聞いて下さい」
陣内はやれやれと仕事口調に戻った。
でもやっぱり知り合いの女子大生には弱いらしく、紫奈と友人は朝一番と夕方に外の担当で、女子大生たちは暖かい昼間に外の担当になっていた。
「なんか疎外感。むかつくよね、あの女子大生たち」
バイト慣れした友人は結構腹を立てているようだったが、初仕事の紫奈はドキドキしながらフリーペーパーを渡す動作を練習していた。
「みんなちゃんと受け取ってくれるかなあ。誰も受け取ってくれなかったらどうしよう。スポンサーの人にクビにされちゃう?」
「ないない。大丈夫よ。受け取る人の反応を見たいだけで、私達の仕事っぷりなんて大して見てないんだから。それかナンパ気分で寄ってくる親父ばっかだから、気をつけてね、紫奈。あんたってなんか遊び人の男が寄ってきやすいタイプだから」
「うん、分かってる」
分かってはいたが人に言われるとショックだ。
類は友を呼ぶじゃないけど、自分にはやっぱり真面目な人は寄ってこないのだ。
◇
午前の仕事はショッピングモールの入り口付近で配っていたのだが、自動ドアの内側でも結構風が入ってきて、ミニスカワンピースでは寒かった。
あまり受け取ってもらえず、途中で見に来た陣内に注意された。
「もっと積極的に渡しに行ってね。中の特設コーナーの半分も配れてないよ」
その後も成果は上がらず、しょんぼりと中の女子大生と交代する時間になった。
宣伝の幟を立てた中の特設コーナーに行くと、女子大生たちがきゃっ、きゃっと騒いでいた。
「ね、やっぱりあの人いいよね」
「あ、分かる。芥城さんだっけ? IT関連の会社やってるって言ってた人よね」
「あの若さで社長さんなんて素敵よね」
「しかも真面目そうで、女性慣れしてない感じがまたいいわ」
「夕方にまた来るって言ってたでしょ? 連絡先渡しちゃおっかな」
「あ、ずるい! 私も渡そっと」
どうやらスポンサーの人が何人か来たらしい。
紫奈たちの外には誰も来なかった。たまに陣内がダメ出ししに来るぐらいだ。
「あの、交代です。私達食事休憩に入りますので」
紫奈が言うと、女子大生たちは迷惑そうに振り向いた。
「えー、もう? ホントにぴったりに来るよね。少しは先輩に気遣ってゆっくりめに来るとかってないのかしら。最近の若い子ってそのへん遠慮がないよね」
どっちがだ! と紫奈と友人は心の中で思ったが、大人しく休憩に入った。
そして休憩後は暖かい中で配っていると、交代した女子大生二人は三十分も早く、もう二人の女子大生と交代していた。
「寒い~。無理無理。これ以上外だと風邪ひくわよ」
「まだ三十分あるよ、二人とも」
「でも彼女たちの二倍は配ったわ。出来高制でしょ?」
「えー、もう、しょうがないなあ」
陣内は何か弱みでも握られているのか、結局彼女たちの言いなりだった。
そしてもう二人の女子大生もノルマ分は配ったと、早めに帰ってきた。
紫奈たちはラスト二時間のはずが三時間ちかく外で配ることになってしまった。
だいたい紫奈たちだけ二回も外の配置にされてるのに、時間まで延びるってあんまりだ。
でも陣内は、古参の女子大生四人の顔色ばかり気にしていた。
「ごめんね。でもほら君達あんまり手渡せてないからさ。出来高で考えるとこのダンボール分は配ってもらわないと。これだけ配ったら中に入っていいからさ」
そう言って、ダンボール一杯のフリーペーパーを指差した。
「外に出た方が受け取ってくれるかもよ。がんばって!」
チャラい笑顔を残して陣内は中の特設コーナーに戻っていった。
「もう! なんなのこのバイト! 女子大生も陣内もむかつくっ!」
「しょうがないよ。確かに私達、全然渡せてないんだもの」
「もう紫奈ったら、いつものチャラ男キラーで陣内を落としてよ」
「無茶言わないで。色気たっぷりのお姉さんには勝てないわよ」
あまり楽しくないバイトだったが、紫奈にとっては初バイトで緊張していたのもあって、友人ほどは腹が立たなかった。
それよりもいつもの不器用でクビにならないかの方が心配だったのだ。
「ねえ、陣内さんが言ったように外に出て配ってみようか。その方が受け取ってくれそうな気がするわ」
「えー、寒いから嫌よ。紫奈ったら変なとこ真面目よね。私はやらないからね」
「じゃあ、ちょっと試しに外で配ってみるわ」
紫奈は友人を自動ドアの中に残して外に出てみた。
袖つきのワンピースとはいえ、さすがに冬の寒風はこたえる。
それでも、買い物モードに入ってしまう中よりも格段にフリーペーパーを受け取ってくれる。
(この分なら、全部配り終えるかも)
寒さに身を震わせながら配っていると、目の前に驚いた顔で立ち止まっている男がいた。
(?)
髪をオールバックに流した、真面目そうな二十代半ばぐらいの人だった。
「あの……良かったらどうぞ」
紫奈がフリーペーパーを差し出すと、男は素直に受け取ってくれた。
「ありがとう。あの……ずっとここで配ってるの?」
「え? あ、いえ。さっきまでは自動ドアの中で……」
紫奈が中の友人を指差すと、男はホッとしたような息をもらした。
「そ、そうか。ビックリしたよ。こんな寒空でそんな恰好じゃ寒いでしょ。ここでも配ってるとは知らなかった」
「え?」
「あ、俺、このフリーペーパーのサイト運営に関わってる芥城那人と言います。ご苦労さまです」
男は紫奈に名刺を渡して頭を下げた。
代表取締役と書いてあるから社長さんなのだろうが、それにしては腰が低く若い人だった。
しかも……。
(カッコいい……)
優しそうな目といい、不器用なほど生真面目そうな態度といい、もろにタイプだった。
「とにかく……中に入ろう。まるでマッチ売りの少女みたいだよ」
「え?」
「寒さで手が震えてるし。なんか女の子に非情な労働をさせてるみたいで心が痛む」
那人は自分のコートを脱いで紫奈の肩にかけながら、中に連れて入った。
「ちょっとスタッフに文句を言ってやろう。ここまでしろとは言ってない」
「あ、いえ。私が勝手に外の方が受け取ってもらえると思っただけなんで言わないで下さい」
紫奈は慌てて那人を止めた。
「そうなの? 君って意外に……」
そこまで言いかけて那人は口をつぐんだ。
言いたいことは分かっている。
『見た目の割りに真面目なんだね』
やはりこの人にも、そんな見た目なのだと悲しかった。
「紫奈、誰? その人」
友人が怪訝な顔で紫奈と那人を交互に見た。
「あ、スポンサーのえっと芥城……さんだって」
紫奈は名刺を見ながら友人に告げた。
「ご苦労さまです」
那人は友人にも同じように名刺を渡した。
誰にでも腰が低くて親切な人らしい。
「紫奈ったら、外で渡すのはいいけど、ちょうどここにゴミ箱があるからみんな捨てて行くのよ。見てみなさいよ」
友人に言われてゴミ箱を見ると、フリーペーパーがフタからはみ出すぐらい捨てられていた。
「え! そうなの? いっぱい受け取ってもらえて良かったと思ってたのに!」
「全然良くないわよ! まるで私が配りきれなくて捨てたみたいになるからやめてって言いにいこうとしてたのよ」
「そ、そうだったの……。あっ! す、すみません! 芥城さん」
自分の関わってるフリーペーパーが山ほど捨てられているのは気分が悪いに違いない。
紫奈はあわてて那人に頭を下げた。
いよいよクビかもしれないと恐る恐る顔を上げると……。
那人はおかしそうに笑っていた。
くしゃりとした笑顔がまた、紫奈のドストライクだった。
(素敵……)
「気にしなくていいよ。フリーペーパーは用のない人には捨てられるもんだから。とりあえず受け取って用のあるものか無いものか判断してもらっただけでも意味はある」
なんだか言うことも康介のような高校生と違って知的に感じる。
「あ、体が冷えただろう。待ってて。温かい飲み物でも買ってこよう」
そんな気配りも大人の余裕に感じる。
「素敵……」
那人の立ち去る後ろ姿を見つめながら、思わず呟いていた。
「あはは、紫奈のタイプだよね。でも、私もあの人はカッコいいと思うわ。そういえば女子大生たちもさっきあの人のことで騒いでたんじゃなかった? 紫奈、負けちゃダメよ」
「そ、そんなんじゃないわよ。向こうは高校生なんて相手にしてくれないだろうし」
「じゃあ大学生のフリしとけばいいわよ。化粧してたら分かんないって」
「そ、そうかな……」
全然楽しくないと思ったバイトだったが、紫奈は那人に会えるかもしれないという期待だけで、なるべくシフトに入るようにした。
那人はこれが会社を立ち上げて最初の仕事だったらしく、マメに様子を見に来て、スタッフに受け取った人の反応を聞きにきた。
そしていつも気の利いた手土産を持ってくるので、女子大生は那人が来るとテンションが上がる。
「きゃあ、芥城さんだ! 昨日は来なかったから淋しかったんですよ」
「那人さん、今日こそ飲みにいきましょうよ」
「いや、ごめん。この後も仕事があるから……」
「えー、今日ぐらいいいじゃないですか」
「いや、まだ少人数の会社だから、俺が抜けるわけにはいかないから」
「もう、つまんない。ホントに真面目なんだから」
女子大生の色気たっぷりの誘いにも簡単には応じない。
そういうところも好感がもてた。
「あ、えっと紫奈ちゃん……だっけ? 今日は外じゃないんだね」
那人は女子大生を振り切り、立ち去ろうとして紫奈に気付いて話しかけた。
「あ、はい! 初日だけ人数が多かったから外もあったみたいです」
「そうか。良かったよ。今日は友達は一緒じゃないの?」
「はい。今日は休みです」
初日以降は三人体制のシフトなので、二人で入るのは難しかった。
女子大生二人と離れてポツンといたので気にしてくれたらしい。
「君は……他の子たちと雰囲気が違うよね」
それはきっと高校生だからだと思ったが、あえて口にしなかった。
「そ、そうですか?」
「うん。なんかすれてないというか、一生懸命というか……」
それは初バイトだからだと思ったが、それもあえて言わなかった。
「じゃあ、もう行くよ。がんばってね」
「は、はいっ! あの……芥城さんもお仕事頑張って下さい!」
紫奈は話せたことが嬉しくて、必要以上に気合を入れて叫んでいた。
「はは。ありがとう。なんかパワーをもらったよ」
那人はくしゃりと笑って去っていった。
(あの笑顔を見れた……)
それだけで一日ハッピーな気分になれた。
それからも何度か会って会話することが増えていった。
那人は受け取る人の情報を欲しいようだったので、紫奈はフリーペーパーを配りながらどんな人が受け取って、どんな人が興味を持って見ているのかを伝えられるように、意識して観察するようになった。
「若い女性は結構捨てちゃってます。女子高生なんかは字が多いと読まないですから」
主に自分の感想だが、那人は興味深く聞いてくれた。
「いつもありがとう。紫奈ちゃんの情報は役に立つよ」
「ほ、本当ですか? じゃあもっとよく観察するようにします」
「はは。紫奈ちゃんは意外なほどに真面目だよね」
「はいっ! そうなんですっ! いつも頑張ってるつもりなんです。ただ……」
「ただ?」
「あの……結果が伴わないというか……、失敗ばかりというか……」
「はは。そうなんだ。でも俺は結果よりも一生懸命に頑張ることに意味があると思うよ」
「!」
そんな風に男の人に褒められたのは初めてだった。
同年代の男の子も、先生ですら結果重視だった。
どんなに頑張っても、優華のように結果を出せる人が高く評価される。
紫奈に集まるチャラ男たちは、外見の華やかさだけに集まってくる。
紫奈の内面を見てくれる男の人なんて、一人もいなかった。
(この人はちゃんと私の中身を見てくれる)
この頃にはもう紫奈は那人にすっかり心奪われていた。
◇
紫奈が那人と出会って、二ヶ月が過ぎていた。
その間にクリスマスシーズンは終わり、年が明けていた。
キャンペーンガールの仕事はまだ続くが、那人の関わったフリーペーパーの仕事は最後になった。
(今日も来るかしら? 来たらまた会ってもらえないか聞いてみようか。でも、なんて言えばいいんだろう。こんな時に一人でシフトに入るなんて……)
友人は今日は休みというか、紫奈にシフトを譲ってくれた。
「会えるのは最後かもしれないんだから、積極的にいくしかないでしょ。頑張ってよ、紫奈。女子大生たちに負けるんじゃないわよ」
友人の期待を背負ってシフトに入ったが、夕方になっても那人が姿を現わすことはなかった。
「えー、今日は那人さん来ないのかなあ」
「最後だと思ったから他の予定断ってバイトを入れたのに」
女子大生たちもがっかりしている。
紫奈もがっかりしていると、誰かにポンと肩を叩かれた。
まさか、と振り向くと。
「優華?」
紫奈の前に立っていたのは、清楚なワンピース姿の優華だった。
紺に白襟のワンピースは品が良く、長いストレートの黒髪を後ろで軽く結わえている。
派手なキャンペーンガールの衣装を着た自分と見比べて、急に恥ずかしくなった。
クリスマスシーズンが終って、今は銀色のタイトなワンピースだった。
しかも頭の猫耳カチューシャは健在のままだ。恥ずかしい。
「なんだか紫奈が心配になって来ちゃった」
この間また電車で一緒になった時に、問い詰められて思わず仕事場所を言ってしまったのだ。
そんな目立つ仕事をして、学校にバレないだろうかと心配していたが、まさか見に来るとは思わなかった。
優華は時々、面倒見が良すぎてウザイのだ。
「化粧してるから最初紫奈だって分からなかったわ。これならバレないかしら? でも紫奈って可愛いから、変な男の人に声をかけられないか心配だわ」
たぶん本気で心配してくれてるのだ。
でもそういう過保護なところもちょっとウザイ。
「大丈夫よ。スタッフの人もそばについてくれてるし」
「スタッフってあのチャラチャラした人?」
優華は胡散臭そうにスタッフの陣内をチラリと見た。
「うん、そうだけど……」
その時「きゃあっ!」という女子大生二人の黄色い声が聞こえた。
見ると、那人が手土産を持ってやって来たようだった。
「那人さん! もう会えないかと思いました」
「ねえ、今日こそ最後だから飲みにいきましょうよ」
「今日は断らないでしょ? 最後なんだもん」
女子大生が那人に言い寄っている。
「あの人は?」
優華が紫奈に尋ねる。
「あ、スポンサーの社長さんよ。時々様子を見に来てくれるの」
「社長さん? あんなに若いのに?」
「うん。会社を立ち上げたばかりだって言ってたけど」
「そうなんだ。感じのいい人ね」
「う、うん。そうでしょ」
答えながらも、紫奈は嫌な予感がしていた。
あれほど同年代の男子に興味を持たなかった優華が珍しく気になってるらしい。
そして那人も、こちらに気付いたらしくチラチラと視線を向けてくる。
それがどうにも紫奈ではなく優華を見ているような気がした。
(まさか芥城さんも優華を……)
今までも紫奈がいいと思った相手は、ことごとく優華を好きになってきた。
今度も例外ではないような気がする。
そして今回は、優華もまんざらでもない雰囲気だ。
「あ、あのね、優華。仕事中だから、もう帰ってくれる? あんまり話してるとサボってると思われるから」
紫奈は思わず優華を追い払おうとしていた。
(私ってなんて嫌な人間なんだろう)
そう思っても、このまま那人に優華を紹介したら、きっといつものパターンになる。
今回だけはどんな卑怯な手を使っても阻止したかった。
(芥城さんだけは優華にとられたくない)
「ごめんね優華。バイト代が出たら今度おごるから。じゃあね」
紫奈は優華を追いやるように背中を押して那人から遠ざけた。
「あ、うん。お仕事の邪魔してごめんね、紫奈。じゃあ私は少し買い物してから帰るわね」
「うん。心配して来てくれてありがとう」
優華の姿が遠ざかって小さくなると、紫奈はホッと息を吐いた。
「今のは友達?」
ふいに背中から声をかけられて、紫奈は驚いて振り返った。
いつの間にか、那人がそばにきて遠ざかる優華の後ろ姿を見つめていた。
「芥城さん……」
「真面目そうな子だね」
「は、はい……」
「あのさ、バイトが終わったら少し時間あるかな? 話があるんだけど」
「えっ?」
「出来たら夕ご飯でも一緒にどうかな?」
「で、でも今日は最後だからあちらの人と飲みに行くんじゃ……」
さっき誘われてたはずだ。
「うん、断った。バイト終わりに待っててもいいかな?」
「は、はいっ! もちろん!」
夢のようだと思った。
まさか那人の方から誘ってくれるなんて。
なにかの間違いじゃないかと、バイトが終わるまで落ち着かなかった。
そして待ち合わせ場所に行くと、那人が照れくさそうに待っていて、舞い上がった。
(夢じゃなかった。芥城さんと二人で食事なんて……)
連れて行かれたのは、車で十五分ほどのところにあるお洒落なイタリアンの店だった。
「ここはワインも美味しいよ。俺は運転するから飲めないけど好きなの頼んでいいよ」
那人はまだ紫奈のことを大学生だと思っているようだった。
「いえ、お酒は飲めないので……」
体質ではなく年齢のせいだとは今さら言えなかった。
「君ってホントに真面目だよね。服装も私服はそんな感じなんだ」
いつもキャンペーンガール姿の派手な衣装とツインテールに化粧で会っていたが、私服に着替えると、どうしてもまだ高校生の垢抜けない雰囲気があるのだろう。
一番お気に入りのジャケットとデザインスカートの組み合わせだが、足元は靴下とローファーで、バッグはデニムの肩掛け鞄だ。大人の男性からすれば子供っぽかったに違いない。
こんなことなら、友人に借りてでももっと大人っぽい服装をするべきだったと、今さらながら悔やんだ。なんとか挽回しなければと焦る。
「き、今日はバイトだったので動きやすい服にしようと思って……。ふ、普段はもっと大人っぽい恰好なんです」
必死で取り繕ってみても、バレバレだったのだろうと思う。
那人は穏やかに微笑んで言い換えた。
「違うんだ。言い方が悪くてごめん。その方がいいなって言いたかったんだ。俺もそんなに女性慣れしてるわけじゃないし、あまり遊び慣れてる人は苦手というか……」
「え?」
「つまり……、うん、可愛いなと思ってさ」
「か、可愛い……」
少し照れたように言う那人に、紫奈は天にも舞い上がる気分だった。
(も、もしかして那人さんも私のことを?)
しかし、すぐに絶望に落とされた。
「ところで、さっき話してた友達のことだけどさ……」
「え?」
すぐに優華のことだと分かった。
「えっとその……同級生とかかな?」
「ど、どうしてそんなこと……」
言いながらも心臓がぎゅっと縮んでいくような気がした。
(まただ)
急に食事に誘われるなんておかしいと思ったのだ。
那人は優華に紹介して欲しくて、紫奈を誘ったのだ。
『彼女のことを教えて欲しいんだ。一目ぼれなんだ』
那人の次の言葉が浮かぶようだった。
今までも何度か頼まれたことがある。
でも今回ばかりは好きな人の頼みでも協力したくなかった。
「ゆ、優華は今はあまり男の人と付き合ったりしたくないみたいです。学校でも優等生でとても真面目な子だから」
紫奈は聞かれもしないのに、答えていた。
(私ってホントに嫌な人間だ。こんなことわざわざ言ったりして)
もしかして大人な那人は、こんな紫奈の黒い心に気付いてるんじゃないか。
恐る恐る顔を上げて那人を見た。
しかし那人は気にした様子もなく、深く頷いていた。
「優等生なんだ。うん、そんな感じだったね。いい子そうだった」
しまった。
優華を諦めるように言ったつもりが、却って気持ちを向かわせてしまった。
「……はい。とても……いい子です……」
もう泣きたかった。
優華から遠ざけたいはずが、どうして正直に褒めてるんだか。
でも悪口を言いたくても、優華に悪いところなんてどこにもない。
素直に白旗を上げるしかなかった。
「芥城さんも……優華みたいな子が好きなんですか?」
「え?」
「いえ……やっぱり芥城さんもそうなんだなって……」
「あ、いや……、まあ感じのいい子だと思ったのは確かだけど」
紫奈の心の中は再びガーンと効果音が響いていた。
いや、今回は山びこのようにガーン、ガーン、ガーンと鳴り続けている。
もう辛くて食事なんて出来る気分じゃなかった。
「あの……優華もさっき芥城さんの事を見て、感じのいい人だって言ってました。優華がそんなこと言うなんて初めてです。だから芥城さんの気持ちは伝えておきます。優華にその気があったら名刺の番号に電話するように言っておきます。それでいいですか?」
「え? いや、ちょっと待って……なに言って……」
「じゃあ私は用を思い出したので、やっぱり帰ります」
紫奈はガタリと椅子を引いて立ち上がった。
「ま、待って、紫奈ちゃん。誤解してるよ」
「え?」
那人は困ったように頭をかいた。
「い、いや、その……俺もこういうのは苦手で……ホントにダメダメだな」
「こういうの?」
「つ、つまり類は友を呼ぶって言うだろ? あの友達と仲がいいってことは、紫奈ちゃんもやっぱり思った通り真面目な子なんだなって、改めて思ったんだよ」
「わたし?」
実際には類は友を呼ぶの通り、気の合わない二人は最近疎遠になってたのだが、ここは言う必要はないだろう。
「つ、つまり見た目と中身のギャップというか、そういうのいいなと思ってさ。俺は自分が地味なせいか華やかな子にすぐ気持ちがいってしまうんだけど、中身は真面目な子が好きだからいっつもうまくいかなくて……、いや、何の話してるんだ」
那人は自分の言葉に自分で突っ込みを入れて焦っている。
「だ、だからつまり、紫奈ちゃんの事が頭から離れなくて。また外の寒空で一人で配ってるんじゃないかと思うと心配で、用もないのにいつも見に来てしまって」
「え?」
那人は照れくさそうに微笑んだ。
「良かったらまた会って欲しいんだ。今日で会えなくなると思うとじっとしてられなくてさ」
「うそ……」
紫奈は信じられない思いで那人を見つめた。
「うそじゃないよ。親父くさく見えるかもしれないけどまだ二十五才だから。真面目に考えてくれたら嬉しいなって思ってるんだ。どうかな?」
「二十五才……」
実際には高二で十七才の紫奈とは八才も差があるが、たぶん那人の方は大学生だと思ってるから三、四才の差だと思ってるんだろう。
でも今は余計な事を言って嫌われたくなかった。
ただただ、那人の言葉が嬉しくて……。
涙を浮かべて那人の言葉に応じた。
「嬉しいです。夢みたい……」
那人はハンカチを差し出し、ほうっと長い息を吐いた。
「良かったー。気持ちの悪いセクハラ親父だと思われたらどうしようかと思ってたんだ」
「まさか……」
「今日のバイトに来てなかったら諦めようと思ってたんだ。きっと縁があるんだよ」
「はいっ! 私も最初から、そんな気がしてました!」
元気一杯に肯定する紫奈に、那人がいつものようにくしゃりと笑った。
「じゃあ、紫奈ちゃん。これからよろしくお願いします」
那人は、生真面目な性格のままに、深々と頭を下げた。
「はい……」
こうして紫奈のシンデレラストーリーが始まった。
まさかこの一年後には結婚するとまでは思っていなかったが、紫奈は人生初の大金星をつかんだ気分で、那人との幸せな日々を過ごすのだった。
那人が付き合って二ヶ月後に、初めて紫奈が高校生だと知ってひっくり返るほど驚いたのは言うまでもない。
だがその頃には年齢差を障害とは思わぬほど二人の気持ちは強く結びついていたし、那人はむしろ男としての責任をさらに意識するようになった。
そうして紫奈の高校卒業と同時に二人は結婚した。
「おめでとう紫奈。まさか結婚までするとは思わなかったから驚いたわ」
「ホントよ。彼氏一人出来なかった紫奈が一番とはね」
「いつの間にあんな素敵な人と知り合ってたのよ」
「ああ~いいなあ。私にも誰か紹介してよ」
ウエディングドレス姿の紫奈の周りで友人達が祝福の言葉をもらす。
そして優華も。
「紫奈、とっても綺麗。なんだか淋しいような気もするけど、芥城さんなら紫奈を幸せにしてくれるわね。新居にも遊びに行かせてね。本当におめでとう」
優華は心の底から祝福してくれた。
紫奈はようやく優華と対等になれたような気がして、初めて自分が誇らしく思えた。
幸せの絶頂にあった紫奈には、これから起こる様々な苦難など想像すら出来なかった。
だから厳しい課題の前の幸せなひとときを……。
紫奈は永遠に続くものと疑いもせず……。
結婚生活を始めたのだった。
お読み下さりありがとうございました。
これに続く本編が一迅社さま「メゾン文庫」より『離婚届を出す朝に』として6月9日に発売します。WEB版に加筆修正し、紫奈ちゃんと那人さんのエピソードをさらに充実させた書籍版の方も手に取って頂けたら幸いです。
どうぞよろしくお願い致します。