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 桜のつぼみがようやく膨らみ始めた二月半ば(旧暦)に六条院に入り、季節は過ぎた。花は開きそして散っていった。(かえで)の木に小さくとがった赤い芽が現れ、それがしだいに赤子の手のように開いた。


 今では、青々とした葉が涼しげに風に揺れている。少し髪の重くなる夏の頃、孫廂(まごびさし)にいた猫を蹴飛ばしそうな勢いで小侍従(こじじゅう)があわただしく部屋に入ってきた。


明石(あかし)女御(にょうご)さまが御懐妊(かいにん)のようです。こちらの御殿の東面(ひがしおもて)にお入りになるとか」


 私のいる春の町の寝殿(しんでん)の半分を分かちあうことになるらしい。年配の乳母(めのと)の一人が顔をしかめた。


「たかだか戸を一枚隔てただけの場所ですよ。面倒ごとが起こらなければいいけれど」



 その言葉は杞憂(きゆう)ではなかった。

 表だって私たちに逆らう者のないこの六条院に現れた新たな女君、それは私の義理の娘にして兄嫁だ。つまり源氏の一人娘が身重となり、里に安らぐこととなったのだ。


 兄は東宮(とうぐう)だから、彼女はいずれは帝の妃となる存在である。だから丁寧にかしづかなくてはならず、小侍従の言葉の通り私の住む寝殿の片側に居を移した。


 近すぎる住まいは確執を生みやすく、ことに浮薄(ふはく)な蝶として集められたわが女房たちの多くは軋轢(あつれき)をかわすすべを持たない。


「こちらが譲るのが当然だと思っているのですわ」

「波風を立てるべきではないと気を配ってるだけなのに」


 年若な女房たちが口々に中納言(ちゅうなごん)に訴えている。

 相手方の女の中には、東宮の(ちょう)を一身に集める女主(おんなあるじ)を誇り権高(けんだか)な者もいる。普段は女御の実の母である明石の女がよく治めてはいるが里のこの六条院では、養母である紫の上に遠慮して、彼女は自らの領する冬の町に下がっている。


 抑える女を欠いた女御側の者たちは、優位に立とうとこちらに仕掛けることがあるようだ。まだ若すぎる女御はいさめることなどできぬらしい。あるいは、その意思もないのかもしれない。


「本当の母君の出自はあの程度なのに」

「ゆくゆくは中宮(ちゅうぐう)になる身と思い上がっていらっしゃる」


 中納言は冷たく答えた。


「そうおなりになると思っておいた方がよい。父君の立場からしても、東宮さまの覚えからしてもその地位に最も近いお方です」

「まだわかりませんわ」


 兵衛(ひょうえ)が口を尖らせた。


「男御子とは限りませんし、後に入内(じゅだい)なさる方に寵が移るかもしれません」

「出自の(きず)の件もありますし」


 少納言(しょうなごん)もそれに言葉を添える。なるほど、共通の敵の存在は結束(けっそく)の力を高めるらしい。


「それでも、事を起こすと困ることになりかねぬ。くれぐれも自重するように」


 彼女たちは膨れたまま下がった。

 中納言が寄ってきて目で問いかけた。私はうなずき、囁いた。


「そのまま捨て置けばいい。あちらから動きがあるはずだから」

「東面の方が動きましょうか」


 疑問を持ったらしい。私は声を殺したまま少し笑った。


「その、義理の母が動くはず」

「紫の上が」

「そう。自ら私に礼を示しにくるわ。そうなればその義母を敬愛するその娘も、こちらを無碍(むげ)に扱うことはできない」


 六条院をつかさどる紫の上のもとに、この噂を流せばいい。叱ることのできぬ貴人となった娘をいさめるためにも、あの方はこの部屋を訪れざるを得ない。


「現れましょうか」

「もちろん。前の帝より直々の文を受けておいて捨て置くわけにはいかないわ」


 父は源氏はもちろん紫の上にも文を送ったが、娘である私の世話を頼むその内容も、返しの歌さえも知っている。こちらの息のかかった女房がすべてを伝える。


 それを聞いて中納言は納得した。私はさらに言葉を加える。


「それでも女御さまはご不満でしょうから、そのうちあなたと按察使(あぜち)に動いてもらうわ……悪人の役を頼んでもかまわないかしら」

「ご随意に」


 目の底が光った。その様子は頼もしかったが、それはまた先の話だ。



 明石の女御と呼ばれるこの方は、私よりも二つほど年若い。源氏の娘であるためか、なかなかに美しいらしい。いくらか丈の高いその母と違って、小柄で細い。

 その姿は私と通ずるところがあると乳母のひとりが述べていた。東宮の寵愛はそのためであると断じている者もいる。


 源氏はこの娘を、過剰なく不足もない人柄に育てさせたそうだ。遊びごとなども心得て恥をかくようなこともなく、かといって一つの才だけが際立つこともなく。


 さすがは源氏。相手が娘であろうとも、容赦なく女の気骨を抜いて自らが思うような器に埋めることがお好きだ。しかし男はどうかは知らないが、女はどのような器であろうと完全にその身をゆだねることなどありえない。女房たちを見ていると確信する。そこからあふれた部分が棘になる。


 この女御は私に含む思いがあるらしい。理由はわからない。兄が私に示す好意への反感かもしれないし、自分とさして変わらぬ年頃の女を父が手にしたことへの不快感かもしれない。


 よろしい。ならば時をかけて、それを別の形に導いてやろう。


 女房たちと違って私は偶然の幸運など信じない。中納言の言うとおり、彼女はいずれは中宮となりわが身分を超えるであろうし、生まれてくる子も次の東宮にふさわしい男の子に違いない。常に最低の条件に陥った時の対処を考慮すべきだ。



 源氏を通して正式に申し入れがあった。


「夕方に対の者が娘に会いに来るのですが、この機会にお近づきになりたいと申しております。許してやってはいただけませんか。人柄もよく、若々しいので遊び相手には向いていますよ」


 おっとりと答えてみる。


「恥ずかしいわ。何をお話すればいいのかしら」


 説教じみたお言葉を賜った。


「お返事はその場に合わせてするものですよ。ただ、隔てなどおかずに会ってやってください」


 紫の上がどういう話題を好むかせっかく尋ねてやっているというのに、気の利かぬことだ。

 まあ、そこまで見くびられていることは悪くない。こちらの意図が読まれることはなかろうし、さまざまな話も集めやすい。


 下の立場を余儀なくされた紫の上は、自ら申し出たことなのに沈み込んでいるそうだ。

 もの思いを詠み込んだ閨怨(けいえん)(一人寝の怨み)の古歌を無意識に書きつけ、そのことに自分で驚いているとか。その際にふとこぼした言葉が運ばれてきた。


「私より上の者などあるべきなのかしら。見初められた時の様子こそ普通ではなかったけれど」


 美貌と才に恵まれ、源氏の寵愛を一身に集める方らしいお言葉だ。

 源氏の周りには身分だけは彼女に劣らぬ女もいる。気位と美しさだけはさしてかけ離れぬ女もいる。引くことによって静かな矜持(きょうじ)を示す女もいる。

 その誰もが一の位を譲りながら、心の底から満ち足りていたのだろうか。


 心優しい者の気持ちなどわからない。彼女たちは他者の視点を持たないのか。

 悪人である私はいつだって人の心理を考え、行動を予測し、状況を有利に運ぼうとする。でも完全には理解に至っていないらしい。


 私は源氏の愛情の一位など興味はない。だがたとえば、父からの愛情を誰か別の女が奪ってそれが当然だという顔をしていたなら、表面には出さずとも相当に不愉快だ。


 紫の上はその立場を他者に与えた自分には気づいていない。ただ己の悲しみだけを見つめている。


 私が何心なくここに来ていたのなら、同じように嘆く女になっていたのだろうか。

 あの男にそこまでの感情を注ぐ自分など、想像することができなかった。肌を合わせても彼は憎しみの対象でしかない。私が心を許す相手ではない。


 考え込みながら(ひさし)の隅に目をやると、そこにはあやめが控えている。自然と頬が緩む。高ぶった悪意が暖かな日差しに溶けるように消えていく。

 そばに呼びたい気持ちを抑えてただ見つめる。もどかしいような気持ちが湧き上がる。

 視線が、あの時触れた指先に動いたとたん、ふいに体が熱くなった。


 理由がわからない。あわてて顔をそらし、慣れた意識を手繰り寄せた。


 源氏の最愛の相手を傷つけることは私の理にかなうが、あくまで的は彼自身だ。

 だから、紫の上が壊れるほど追い詰めることは望ましくない。ましてや、彼女が自分を失うほどあの男の心を奪うことなど考えもしない。その程度でも十分に楽しめる。


 私が嫁いできたことでこの方は相当に思い煩っている。そこにほんの一押し。しかも邪気なく見えるように。彼女の心の傷が、私ではなく源氏自身に対してその責を求めるように。




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