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入内して帝の妃となった場合、並の者と同様に三日続けての夜の儀式がある。そして五日目は昼に妃への訪問がある。
この例をまねて源氏も五日目に、春の町の寝殿の西側に定まった私の部屋へ現れた。命じて用意させた重めの装束に身を包み、あどけない微笑と共に迎えた。源氏は豪華すぎる室礼(平安インテリア)に目を向けた。
私の部屋の調度品は、この男の手で整えられてはいない。私自身が趣向を定め父が細かく指示を出し、目のある女房や殿上人が動いた。もちろん費用も父による。
それがいかに贅沢なことか。世間にうらやまれる六条院の他の女君たちはその自由を持たない。
「格のあるすばらしいものですね」
男はにこやかに続ける。
「けれどあなたの可憐で優しい雰囲気には、少し重々しすぎるのではないでしょうか」
幼い声でそれに答える。子どもめいた印象を損なわないように。
「お父さまが選んでくださいました」
それは彼も否定できない。自分の花園で他の男のにおいがすることに内心忸怩たるものがあるはずだが、さすがに上皇の意向は排除できない。
「なるほど院はひとかどの見識をお持ちだ。かねがねご趣味の方面はことに優れてらっしゃると思っておりましたが、日のあるうちに拝見させていただくとそれが際立ちますね」
おっとりとした笑顔の裏に感情を隠したが、ふいに蒔絵の唐櫃を開けられた時だけは肝を冷やした。そこには漢籍の一部が詰まっている。ほとんどは塗籠(閉鎖的な部屋。倉庫的に使うことが多い)の中の櫃にあるが、ここにもそれなりの数がしまわれている。
女の読み物にふさわしくないそれを見て源氏は驚きの色を浮かべた。
「それはわたしが管理しております。男御子に恵まれた時のためにお傍に置いておくようにと院がおっしゃっておりました」
極めて落ち着いた声が横から響いた。按察使と呼ばれる上臈女房(上級女房)だ。
「用意のいいことだな」
源氏は苦笑しつつ巻いてある紐をほどく。鼓動が高くなるのを何とか抑える。
「開いた痕がありますね」
顔色を赤く変え、恥ずかしそうにそれに答える。
「真名(漢字)を読める女房がいますの。眠れない時に読んでもらうと、すぐに眠ることができるので」
男は笑いながら書物を巻き取った。
「それはいい使い方だ」
不審の念は見出せない。表面の愛想と内面の軽侮だけが読み取れる。安堵した。
彼はすぐに年に似合いの説教に移った。もしくはそう見せかけた自分の権利の主張。
「月の内には院も山の御寺にお入りになる。お心残りでしょうが、彼の方はすでに仏の道を行く方。俗世のよしなしごとで煩わせるわけにはいきません。これからは私をお頼りください。院の分まで充分にお世話させていただきます」
「はい」
素直を装って微笑むと、源氏は満足そうにうなずく。そして、取るに足りないと内心で評価することを隠し切れない。手ごたえのない幼いばかりの女。宵の帳の内でさえ興をそそらぬと。
実にわかりやすい。源氏ほど見られることに慣れた男でも、主体としての自分があるばかりで相手にそれがあるとは気づかない。笑顔に裏があるのはおまえだけではない。
機嫌よく東の対に戻る彼を見送り、肩の力を抜いた。
もちろん漢籍は私の蔵書だ。女は漢字を読まないもの、ちょっとしたものでさえ目を通すことは恥ずかしい。その常識に外れて私は書を読むことを好む。人前では一の字さえ読めないようにふるまうが、その実ある程度以上の域には達している。
幼い私に手ほどきをしたのは父だった。人払いをした二人きりの部屋で、父はその世界を開いてくれた。私はもちろん夢中になった。
「確かに王維は自然を主題にした漢詩が多いが、人嫌いだったわけではないよ。友情を歌ったものもかなりある」
「だけどこちらの方が好きだわ。最初は確かにいたはずの自分がいつの間にかいなくなって、自然だけが残ってしまうのがいいの」
私は彼の鹿柴の詩を読み上げた。
空山人を見ず ただ人語の響くをきく 返景深林に入り また青苔の上を照らす
人を見かけぬ山の中で、かすかに聞こえる人の声。それはいつしか途絶えていく。青い苔を照らす西陽。自分をも照らしているはずなのに、それはすでに自然の一部であり我はない。
日本の歌でそう感じるのは難しい。そこにはいつも人がいる。花鳥風月を詠もうとも、それを見ている誰かを感じてしまう。自分の国の言葉だからかもしれないし上手く同調した時はまた別のよさを感じるけれども、ある種の唐土の作の感性とは気が合った。
漢学は源氏ほどではないとされる父ではあるが、もちろん人以上にはこなすことができるので、字を教え書き方と意味も教えてくれた。
私はやすやすと身につけた。韻文はもとより散文にもすぐ慣れた。
「思った通り、君はこの種の才がある」
「どうして思った通りなの」
父はくすりと笑った。ちょっと間をおいて言葉を探しているように見えたが、思いもかけぬことを言い出した。
「おばあさまが得意でいらっしゃる」
なるほど大后はいかにもこの種の学がありそうな方だった。
「おばあさまと似ていると言われたことはないけど。むしろ一の宮のお姉さまが再来とされているわ」
「彼女は意外に似ていない。けれど君は、表面はともかく似たものを持っているよ」
彼は何かを探すように宙を見つめ、すぐに視線を戻した。
「どちらも私の大事な方だ」
「あら、私が一番でなくてはいや」
「そっくりだ」
胸の奥が少し疼く。父にはもう会えないのかもしれない。気を紛らわそうと視線を廻らすと、按察使が口の端をわずかに上げた。
彼女は婚姻の前に集められた一人だ。しかし他の華やかな娘たちと趣を異にする。
正妻腹ではないが、按察使大納言の娘なので入内さえ望めたほどの身分だ。背の丈は並より高く、顔立ちは派手ではない。切れ長で細い目がいつも眠そうに見える。姿かたちに取り立てて目立つところはないが、膚はきめ細かい。
いくらか口重な性質に見えたので中納言に視線を向けると、表情を変えずにうなずいた。意識的に加えられたものだろうと思った。
そば近く仕えることになった彼女をうかがった。仕事はほどほどにこなす。普段は出すぎることがないので朋輩(同僚)との関係も悪くはない。恋人もいるらしいが誇るわけではなく目立たぬように過ごしている。
あの中納言がわざわざ選んだものにしてはありふれて見えた。少しでも人目を引くのはむしろ按察使の使いだてている乳母子の方で、こちらは容姿も性質も華やいだ娘だ。
しばらく様子を見ているうちに、兵衛と呼ばれるその乳母子が騒ぎを起こした。
もとから勤める者に少納言という女房がいる。女童であった頃から仕えていたので、年若いが古株だ。
彼女は新参者に反感を抱いており、ことに父の身分が比較的低い兵衛を目の敵にしていた。兵衛もあまり大人しい娘ではない。居丈高に自分をいたぶる少納言に不満をためていた。
ある日、湯をためた泔杯を捧げ持つ兵衛の衣の裾を、少納言が故意に踏んだ。無様な姿をさらしながら兵衛は相手をにらみつけた。
「私のことはともかくとして、これは宮さまに運ぶものなのに」
「だからこそ気をつけねばならぬのに、不注意なこと。さっさと始末なさい」
肩を震わせながら兵衛は耐えた。しかし少納言はなおも言いつのった。
「しつけが悪いのかしら。派手な駄犬だこと」
限界に達した彼女が、胸元に挟んでいた扇をつかむや否や投げつけた。目下の女の行動に少納言も気色ばんだ。その頬を激しく打つ。兵衛が勢い込んだ時に様子を見計らっていた中納言が割って入った。
「宮さまの前で何を騒いでおるのです」
彼女も新参ではあるが、少納言程度につけ込まれる女ではない。感情を表さないのに迫力のある目にねめつけられて二人は黙った。
そこへ、控えていた按察使が身を挟む。まずは中納言に頭を下げた。
「不行き届きですみません」
それから少納言に微笑みかけた。何事かを小さな声で囁く。相手は微妙な顔をした。
三人が下がり、中納言が私に近寄った時に尋ねてみた。
「今宵ゆっくりと謝ります、と申しておりました」
その日の宿直は少納言と、按察使ではなく別の者だったが、交代することはよくある。交渉して代わるのだろう。反感を抱くあの娘をどうなだめるのか興味を覚えた。
夜は更けていた。待ちくたびれてついまどろみ、かすかな声でふいに目覚めた。
部屋の隅に大殿油が一つだけ灯してある。格子はすべて下りていた。
そっと身を起こして御帳台の帳の影から様子をうかがう。当時の私は垣間見えたことの意味に気づくのに時間がかかった。
寄り添っている按察使の姿に乱れはなかったが、少納言には余裕が見出せなかった。ほの暗いので気づくまい、とたかをくくって眺めていると、按察使の視線がわずかにこちらに動いた。その直後、見えやすい形に位置を変えた。
面白い。明らかにこの私、前の帝の娘たる内親王に挑みかけている。
確かに私は小娘だが、この程度のことに怯えたりはしない。そんな女だったら分を知って、源氏との婚姻をたくらんだりはしない。臆することなくそれを見つめた。
力を失った少納言を腕に、按察使が薄く笑う。主人たる私は表情を変えず、その身も一切動かさない。
彼女は笑いを止め、こちらに向かって頭を下げた。
少納言は飼い犬と化した。それを按察使は巧みに扱い、変わらぬ態度で仕えている。私ももう疑問は持たない。偽らずにすむ従者として彼女を扱う。たぶん、男に対しても同じような実力を見せるのだろう。
小さなあくびをかみ殺している彼女が目に入り、頬を緩めた。
いつも眠そうな按察使の目は、明らかに眠りが不足している時でも変わらなかった。それでも私の視線に気づき、またわずかに口の端を上げた。