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7.婚礼

 前例のないことではある。かの男は準太上天皇じゅんだじょうてんのうなどという大げさな地位についている。一方私は前の帝の娘だ。通常の内親王(ないしんのう)降嫁(こうか)の際の儀式を取るのがよいか、それともその立場の者が入内(じゅだい)するときの慣例に従うべきか。


 結局、中庸(ちゅうよう)の道がとられた。私は入内の作法に従い、あの男は降嫁する姫宮を敬う形をとる。

 牛車が(きざはし)(階段)に寄せられた。

 紅で染められた敷物を踏んで源氏が近寄り、この上もなく尊いものを扱うようにうやうやしく私を抱え上げた。

 女に慣れた彼の男は一瞬、不思議そうな顔をした。

 そこに、期待した生身は感じられぬはずだ。(ぜい)を尽くした衣の重みだけが目立つだろう。

 魂を欠いた人形(ひとがた)を抱いたかのような頼りなさを、おまえはこれからも受け入れなければならない。


 列は長い。えりすぐった殿上人(てんじょうびと)。中でもひときわ重みを添える上達部(かんだちめ)。若く美しくあでやかな女房たち。そろえた衣装の女童(めのわらわ)

 美に慣れ、贅に慣れたこの邸の女たちさえ(おとし)めることのできぬ支度が整えられている。


 口さがない女房たちはそれでも目を光らせて些細(ささい)(きず)を探すのだろう。そしてそれを得意げにその女主(おんなあるじ)にひけらかすはずだ。

 しかし、その主たちはそれによって満たされるほど卑小な人柄ではあるまい。


 扇の影で薄く笑う。この六条院の先人たる女君たちは、その瑕さえ自らまかなうことはできないのだ。

 恩寵(おんちょう)と愛情によってそれを許された女たちよ、心安くせよ。私はそれを奪うつもりはない。


 この豪奢な六条院のすべての女たちが固唾(かたず)を呑んでいる。私は、これまでは源氏の正妻格だった紫の上が住む春の町の寝殿(しんでん)に入ることが決まっている。

 女たちは、(いただき)に立つ女主と世の秩序(ちつじょ)を従える新しい女主との戦いが始まると確信しているはずだ。けれど私はその期待をも満たしてやるつもりはない。



 盛大な宴は続く。

 その賑わいをそのままにして源氏は私を御帳台(みちょうだい)へと誘った。

 素直に従い、なされることをただ受け入れる。中身のない器として、決して抗わない。悦びもしない。声さえ立てない。

 それが朧月夜(おぼろづきよ)と呼ばれる尚侍(ないしのかみ)の指示だった。


「とにかく、手ごたえのない女をあの人は嫌う。大昔の常陸(ひたち)の宮の姫君には困り果てたようよ。逃げるのもだめ。煽るだけだわ」


 寵愛した上皇の娘のひそかな訪れを彼女は面白がった。その甥(柏木)からのとりなしを頼まれていたはずなのに、色好みの男に逆らうつもりの生娘の覇気(はき)に興味を覚えたらしい。親身になった助言をくれた。だから私はそのすべてを知ってはいた。


 予測はしていたが初めてのそのことに、自分のどこかがひび割れる気がした。だけどその怯えをあらわにしたりはしない。


 おまえに快楽など与えはしない。この若さも、容姿も地位さえも無にするほどの味気無さで、不安や惑乱さえ表さぬかたくなさで、おまえの苦手な石のような女と化してやる。

 源氏の気のない睦言(むつごと)だけが虚しく響く御帳台の中で、目さえ閉じずに心を遠くへ運んだ。


 一瞬、あやめの顔が浮かぶ。

 途端に体が反応しかけて私は危うくそれを耐えた。慌ててその面影を追い払う。こんな行為の最中に思うことで彼女を汚したくない。


 疼痛が刻み込まれる。

 痛みはなかなか私にふさわしい。この男に傷つけられることは怒りを呼び、結果として私を悦ばせる。どのようにそれを返そうかと。


 最後まで自分を欠片も見せぬまま、私は定められた儀礼を終えた。



「御酒を召し上がりませ」


 朝方に源氏が東の対に住む紫の上の元へ戻った後、中納言(ちゅうなごん)提子(ひさげ)(巫女さんが御神酒を注ぐあれ)を捧げ持つ。


 なるほどこの女は凡庸とは程遠い。並の女房が事情を知っていたのなら、むしろ事前に勧めただろう。しかしこの女は面憎いまでに(おもんぱか)る。私の挑みを私情を交えずに見据えることができる。


 (しろがね)の杯を傾けて酒を口にした。甘さと同時に刺すような味わい。張り詰めた気持ちを少し緩めてくれる。


 間近に見る源氏は確かに、その年齢にしては美しかった。だがそれが私に何かの感慨を与えたわけではない。むしろそれを見せつける過剰な自信や、幼くつくろった私に感情があるなどと思いもせぬ傲慢(ごうまん)さに憎しみを深めたほどだ。


 なるほど最愛の人を嘆かせてまで手に入れた女が好みに合わなかったことは同情に値する。が、それを断らなかったのは自身の(ごう)だ。さすがの父も強引に押し付けることまではできなかった。


 もう一口含み、あやめを呼ばせた。見慣れた彼女の姿に心が和む。

 私は彼女を見つめ、ふいにその手を取った。


 自分でも驚いた。酔いのせいで抑制がきかないらしい。けれどその驚愕を胸のうちに隠して微笑を浮かべ、疲れた気持ちを紛らわすための貴人の気まぐれに見せかけた。

 あやめは不思議そうに見返したが、私が離すまでそのままにしていてくれた。


 その手の温もりだけを頼りに、三日に渡る儀式を耐えた。

 源氏にとっても試練だったらしい。身分や生活(たつき)で縛ることのできぬ幼い女の情のなさは。並の女ならたやすい。思惑と違ったからと捨て置けばよい。しかし朱雀院(すざくいん)の愛娘である私の扱いは世評に関わる。


 それでも彼は一番鶏の声が尾を引く間に部屋を出て行った。その後ろ姿に中納言の声が重なる。


「…………闇はあやなし」


 彼女らしい戯言(ざれごと)だ。漂う香への陶酔に見せかけて、闇さえ隠せない何かを皮肉っている。



 或いは、人はそのようなたくらみを持つ女がいつしか相手の魅力にからめとられ、別種の憎しみを持つことになる物語を望むのかもしれない。

 しかし、それは私の話ではない。私は女の姿を持った悪意だ。今も形ばかり整えられた文にどのようなつまらぬ返しをするかに心をつかっている。


 ことさら目立つ紅の薄様(うすよう)に包まれた稚拙な文字を、あの男は苛立ちと共に見ることだろう。和歌もけして苦手ではないが、その真価を見せるつもりはない。かと言ってこの劣り字と同程度の作ではかえって目をそばだてる。だから無難な程度のものを書き上げた。

 くつくつと私はほくそ笑み、源氏の傍らで安堵(あんど)と軽侮の入り交ざった視線をあてるはずの女に思いをはせる。


 紫の上に罪はない。憎しみも感じない。ただ、めぐりあわせを恨むがよい。脇腹とはいえ親王(しんのう)の娘でもあり、美しく世の評判も高いこの方を必要以上に追い詰めようとは思わない。けれどそれはある種の偽善だ。

 なぜなら、私はいつでも彼女を好きに動かすために必要な手の者をすでに持っている。


「出家の後は不要になると思ったが、あなたには役立つはずだ」


 そう言って父は要所に入れた幾人かの女房を譲ってくれた。なるほど、男らしい種類の才はいくらか劣るとされた彼は、それとは真逆の才にたけていたらしい。

 引き継がれた彼女たちは興味深い話を数多くもたらしてくれた。


 例えば、源氏の娘の入内のための香合わせの話だ。去年の梅の花の盛りの日に、訪れた源氏の弟である(ほたる)兵部卿(ひょうぶきょう)判者(はんじゃ)(審判)として私的に行われた。


 この六条院は、季節を表す四つの町に分かれている。あらかじめ源氏は香を作る素材を各町の女君に渡し「二種ずつ作ってください」と依頼したそうだ。


 ただし秋の町の女主は今の帝の中宮なので誘わなかった。代わりに源氏の従姉の朝顔の前齋院(さいいん)が加わった。

 結局、兵部卿の宮は優劣を決めることはしなかったが、それぞれが趣深い香だったそうだ。


 源氏自身と朝顔の前齋院はそれぞれ二種の香を合わせた。そして春の町の主である紫の上は女房さえ近づけないほど苦心して、三種の香を用意した。その中では梅香の匂いの品が特に華やかに今めいて優れていたそうだ。


 冬の町の主は明石(あかし)の女だ。彼女の父の明石入道は、たどれば血筋も正しく財産家でもあるが、受領(ずりょう)となり下がったうえに都には戻らなかったので身分はない。この六条院では唯一源氏に頼らずに暮らしを立てることができる者だが、最も見下される地位にいる。しかし、源氏の娘の実母であることは世に知られている。

 この女は二品合わせた。それも、定まった香を合わせることを(いと)って、世にもまれなものを用意した。


 夏の町を司るのは、かつて桐壺院の女御だった方を姉に持っていた花散里(はなちるさと)と呼ばれる人だ。噂ではすでに女としての立場ではないが、別の形で源氏を支えているらしい。

 源氏の息子の夕霧の母代わりでもあるこの人は、趣の変わるしめやかなものを一品だけ届けた。懐かしいような香だったという。


 逸話を聞いて、最も用心するべき相手が分かった。花散里だ。


 無心に行っただけかもしれない。ただ穏やかな人柄なのかもしれない。しかしそれが図った上のことならば、相当に賢明で油断のならない相手だ。


 この院の他の二人の女は思考の道筋が見える。過剰に走った紫の上も、定められた二種を守りながらも、そこに優れた自分を表さずにはいられなかった明石の女も恐れるに足りない。けれど花散里は読み切れない。用心が必要だ。


 乳母を使って、浮薄(ふはく)な私の女房たちが夏の町の主に敬意を欠くことがないように特に注意させた。

 もしこの方が想像通り(さと)い方であったとしても、礼を失さなければある程度は見逃してくれるだろう。その知性はさして認められず、生活は源氏を頼らぬわけにはいかず、春の町の女主には妬心を持つ価値さえ認められていない。おくびにも出さずとも不満がどこかに潜んでいるかもしれない。まっとうな敬意を支払えば意味のない悪意をぶつけられることはないと見た。


 もともと決めたことではあるが紫の上にも押さているようにふるまう。その方が都合がいい。表面は賢しげな明石の女など、さぞや憐みの視線を向けてくれることだろう。


私はまた口もとをわずかに緩め、脇息(きょうそく)に肘をついて脳裏に図を描き始めた。


「あら、邪魔してはだめよ」


途中強引に膝に乗って来た猫にだけ聞こえる声で叱り、それでも聞いてくれないので頭を撫でてやった。

小さな獣の温もりは、興味さえないのになぜだか高ぶった気持ちをほんの少しだけ鎮めてくれた。




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