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私の乳母の一人はその父の身分により、中納言と呼ばれる。なかなかに悪くはない筋の者だが、他の乳母より年かさだった。それが主人である私のために奔走しすぎたせいか病を得た。心弱くなり、里へと下がった。
いい機会だと思い、父に人をねだった。
まだ嫁ぎ先は定まるに至っていない。けれど私は決意を変えず、そのための用をなす有能な者が欲しかった。
父に呼ばれて朱雀院の寝殿の御座所に向かう。几帳の陰にいた彼が私を手招く。
人払いは済ませてあった。腹心の女房が一人だけ控える。
そこへ、その女が現れた。
几帳と御簾の先の廂に膝をつく。父がそっと女の身元を囁く。
「中納言の縁の者だ。祖父は権中納言。その父も参議までは行ったようだがずいぶん昔に亡くなっている」
年のころは三十路半ばほどか。権高な印象で、痩せてはいるが零落した様を見せてはいなかった。身に着けた装束も地味だが、場所柄も自分をもよく心得ている。中背だが大きく見える。
父の女房が厳しい態度で声を促した。
「直答のお許しを賜った。無礼のないように」
その女は凍りつくような笑顔を見せた。面よりも冷たい。内心を見せぬための礼儀としての表情。
「わたくしは、彼の院(源氏のこと。六条院)が憎いのでございます」
作られたまま少しも変わらないその顔は、強い言葉によっても歪みはしない。語り口も淡々としていて激する様子を見せない。
女には年の離れた妹がいた。世話する人があって三条の大宮の元へ仕えることとなった。そこで珍しくも訪れた源氏の目に留まったそうだ。
「そちらには彼の君と長い付き合いの女房などがおります。ずいぶんと嫌味などを言われたそうですが、それは想いと比べれば何ほどのこともなかったと申しておりました」
わずか十五のその娘は舞い上がった。数ならぬ身、じかに仕えることを願うことさえ恐れ多いが、次の訪れを待ち焦がれながら日々を過ごした。
時を経て源氏は、再び三条の大宮の邸に現れた。
そして朋輩(同僚)の前で、期待に頬染める娘に言った。
「見たことがある顔だね。以前からこの邸に勤めていたのか」
姫君とは違って、あまたいる女房など道端の花だ。気が向いてた折ることがあろうとも色など覚えていないのだろう。
娘が年若くなかったら、あるいは勝気に言葉を返す性質だったならば、さしたる逸話ではないはずだった。
意味ありげに娘を見つめ、笑いさざめく女房たち。中でも、声も立てずに片頬を歪めた源氏と付き合いの長い女房、中務。
娘は宿下がりを申し出た。
父母を亡くしたこの娘の唯一の頼りのこの姉は、受領(地方長官)の男の妻として任地に下っていた。知らせを受けて急ぎ都へ戻った時には、誰ともわからぬほどやつれはてた妹の姿があったという。
「夢見がちで無邪気な娘でした。一人置いて下るのは辛うございましたが、大宮様のお人柄を頼りに預けました。身内誉めになりますが、可憐でよく笑う妹でした」
か細い声で男の名を呼び、ふいに物の怪にでも憑かれたかのように荒れ、忌むほどの言葉で呪い、突然自分を取り戻してそれを恥じる。
長期に渡ったその状態に、下仕えの者さえ幾人も離れた。
「戻れ、という夫とは別れました。そして冬寒のある日のことでございました」
前駆(貴人の先導)の声さえ聞こえぬのに、あの方の牛車の音だ、と娘は急に起き上がった。肩さえ動かせぬようであったのに、止める姉を振り切って彼女は化粧を始めた。
美々しく装った狂乱の娘は、はだしで門まで走り出た。
「病人の異常なまでに研がれた感覚ゆえか、本当に彼の君は現れたのでございます。ただ、通り過ぎるために」
随身(平安SP)は、貴人の車が来る前に飛び出した怪しげな娘を突き飛ばした。
直後に源氏の牛車は現れ、物見の窓に顔を覗かせることもなく、泥にまみれた娘を見もせずにすぐに消えた。
「その夜、ほんのわずかに目を外した隙に、妹は床を抜け出し命を絶ちました」
女は静かに締めくくった。
この女は哀れみなどを期待していない。うやうやしげな態度に隠して、時たま御簾のうちに測るような視線を向ける。私たちが上手く利用できるかを考えているのだろう。院(これは朱雀院)やその娘に対する敬意などは表面だけだ。
私はこの女に心を許すことはないだろう。だが、気に入った。
父に向ってうなずくと、彼は扇の音を二度たてる。仕える女房がすぐに従った。
「おって沙汰する。下がりおれ」
女は廂を去った。その動きで御簾が微かに揺れた。
「あの者を中納言と取り替えることはできて」
尋ねると父はあらかじめ予想していたかのように答えた。
「そのつもりだよ。あの乳母は気の張る新しい場には不向きのようで、むしろ喜んでいた。それに彼女は一族の者でもあるしね」
「憎む者であることをあちらの女房たちは気づかないかしら」
艶なる風情の前の帝は薄く微笑み、立ち上がって端近に寄った。
ふわり、と御簾を掲げる。ちょうど黄昏の光が差し込む頃合いで、父の装束はそれに照り映えて黄金の色に輝く。
「見くびられているからね、疑いもしないと思うよ」
上皇というよりも高貴の女に見えるほどの様子で言葉を継ぐ。
きらめく日の光。その残影。現実を夢に変えるようなその微笑。そこに痛みはなかった。軽視に慣れた人の乾いた許容があるだけだった。
ある程度年かさの女が、新参者をそしる者の多い場に加わることはかなり難しいと思う。ましてやその者が愛嬌の一つも持たぬ者ならばなおさらだ。
しかし名を引き継いだ新たな中納言はこともなげにその役を果たした。
実の乳母ではないのに乳母の役目。それだけでも妬まれそねまれることが不思議ではないはずのこの場だが、彼女はするりと入り込み侮りを許さなかった。人が他者をほめる長所とは違うある種の才を十分に所有している。
「調度の類はどのようなものを」
私は裳着を控えている。その祝いのために少しずつ集まりだした品々を見て彼女が尋ねた。
「お父さまが唐土の品をそろえてくださっているわ」
事実、小物一つをとってもいかめしいほどの威儀に満ちた唐風の品があちらこちらから届けられてくる。
帝からも秘蔵の唐物が供された。由緒正しく大仰な数々。源氏もおびただしいほどの祝儀をよこし、斎宮上がりの中宮からはいわれのある髪上げの道具などがもたらされた。
父の体調ははかばかしくはないようだが、それでもかつての思い人である彼女の品にだけは懐かしむような視線を向けた。
「帝を下りたことをあの時だけは悔やんだな」
昔のゆかりを伝える櫛を取り上げると、箱の中に父への贈歌があった。時の流れを詠んだ寿ぎの歌だが、その感慨の中に淡い想いが残っていた。
中宮は彼に与える心がなかったわけではないらしい。だが父は自分の感情を見せず、私の立場を通した返しをなした。
中納言はその様を横目で見ながら表情を出さない。年を経た女房の中でもごく限られた女の持つ冷徹な色を潜めていた。
唐の后を模した装束を届けられた時も変わらぬ面のような顔で傍にいたが、疑問を持たぬわけがない。威儀を正したその衣装や調度は、小柄な私には重々しすぎる。
「より幼く見えるし、過剰に権威を誇示できるわ」
この女には何も隠すつもりはなかった。また彼女もその一言で呑み込むほど聡い。
帝の地位はすべての者の形代だ。そこにはきら綺羅しい空白のみがあり、人々は心に持つ栄華をそこにあてはめて憧れる。私を見ることのできない男たちも、贅を凝らし格を極めた品々に力の頂の幻影を重ねる。
そしてその象徴たる内親王。もたらされる噂では美しく、可憐。
あふれるほどの財と力に添えられるか細さが男たちの心をそそる。
彼らにとって私は生身の女ではない。一つの夢だ。たおやかでかつ力である女は、男たちに至上の力をたやすく扱う夢を見せるのだ。
源氏はその夢を見ない。力も権威も自力で購える。しかし、彼は色好みを囁かれる男だ。熱ある噂に無関心ではいられないだろう。そのためには。
「腰結(裳着の時、腰ひもを結ぶ役)は太政大臣(元頭中将)にお願いしたそうよ」
父からの情報をさっそく中納言に知らせる。彼女は納得したようにうなずく。
本来ならばこの役は一族の最上位の者に頼むことが適切だ。この場合は父の弟である源氏がふさわしい。けれど父はそれを避けた。さすがに彼は賢明だ。私の実態を源氏に見せることを回避したのだ。
「好みに合わない可能性もあるし、何よりうかがい知れない女は神秘性を身にまとうことができるわ。女人に慣れたあの男は雰囲気だけで何かを察するかもしれないし」
彼女は乾いた瞳で私を眺め「充分にお美しいと存じますが、その方が確実でしょうね」と冷静に述べた。この主人にさえ頓着しない豪胆な所がなかなかいい。
「ええ。今は大臣も遠慮して断っているけれど、父が押せば引き受けると思うし」
父とつきあいの長い太政大臣は、彼の意志に背いたことがない。少々不自然な頼みでも必ず呑むはずだ。
「こちらの方でもいかに宮さまがお美しく、裳着の品々が豪奢であるか、存分にうわさを流しておきましょう」
「期待しているわ」
中納言は面白みのない無表情な顔でうなずいた。その様子は充分に頼もしかった。私も無表情に、揃えられた華麗な品々に視線を流した。物は物でしかないけれど、なかなかに美しく人の気をそそった。
訂正ついでに。秋好中宮からの贈答品は原作では裳着当日の夕方です。