4
ただ待つ、ということは嫌いだ。私はそれをあまりに嗜みすぎた。
仕える者は常に上の者にそのことを求める。日常を引き受け雑事をこなす女房たちは、その代わりに主人に無為の雅を期待する。おっとりと構え、生々しい感情など持たぬ作り物めいた姫宮。私はそれを裏切ったことはないが、好ましいと思ったこともない。
うるし塗りの文机に真っ白なみちのく紙が広げられた。墨もすでにすってある。細筆も使い慣れたものが用意してあった。
膝にじゃれつく猫を下げさせ、筆を浸して考え込む。横に座ったあやめが微笑む。文字は彼女にも学ばせてある。
「何かお手本を取って参りましょうか」
「今日はいらない。劣り字を書かなくてはいけないから」
彼女は首を傾げた。
「劣り字ですか」
「そう。私の手蹟(筆跡)を徐々に稚拙に落としていくのよ。あら、笑ったわね」
乳母たちは私の裳着(平安成人式♀)の準備や将来についての画策のため、つてをたどって動いている。だからいつもより人が少ない。他に仕える者は孫廂に控えさせたので、久々に二人きりだ。
「落とすほど上手い字じゃないと言いたいのでしょう」
「いえ、そんなことは。けれど字を落とすとはどういうことですか」
あやめが傍にいると柔らかな匂いがする。香ではなく彼女自身の香り。いつも気持ちが落ち着く。
「そうね。これが私の普段の手蹟ね」
凡庸極まりない字を書いて見せた。
「この程度しか書けないと思うでしょう」
うっかりうなずいて焦るあやめの頬をつつく。正直な娘。
「そのまま見ていて」
墨の色も鮮やかに、のびやかで大胆な字を書いて見せる。
「これは……」
「小野道風。亡くなった大后は女ながらにこんな字をお書きになったわ」
今度は繊細で静かな楷書を書く。
「これは最澄。細く縦長、品があって清らかな感じね」
次の紙には豊かな唐風の文字。
「空海。字としてだけではなく、生き方の余裕さえ感じさせるわね。お父様が見せてくださった時は手が震えたわ。素敵でしょう。後でこの字で経の一節を書いてあげるわ」
表面上はともかく私自身にたいした信仰心はないが、あやめはごく素直に仏の教えを信じていた。礼を述べたあと彼女は不思議そうな顔をした。
「どうしてそんなにお書きになれるのに、いつものお手蹟は……」
言ってしまってから赤面し、必死に謝っている。年上だけどとても可愛い。
「書には人柄が出るから。それを読まれたくないの」
だからごく地味な字を書いてきた。けれどこれから先のため、もう少し偽る必要がある。
「急に変えると周りの者が驚くから、ゆっくりと少しずつ変えていかなければならないわ」
女に慣れた彼の男が私の中身を見誤るように、いろいろと小細工を弄さねばならない。
「楽器もそこそこにはこなせるけど抑えているわ。恥ずかしいからと言っていつも人払いをしているのはそのためよ」
師の口は止めてある。だけど存分に弾けるのは姉の女一の宮の里でだけだ。
「身近な方々に対してもご自分をお隠しになっているのですか」
「そう。私が素に戻るのはお父さまと一の宮のお姉さまと、おまえの前だけ」
ひた、と見据えると頬を薄く染めた。もともとは孫廂にさえ上がれず白砂の上に控えていなければならない身分だ。ただ私の執着によってここにいる。
彼女が初めてこの院に現れた冬の日のことを思い出した。
その日はすべてが凍りつくように寒く、庭の五葉の松の上に風花が散っていた。
私はいつものように過剰に守られて、綾絹の汗衫(童女の上衣)の下に幾枚も衣を重ねさせられていた。凝った象嵌の火桶も寄せられていて、むしろ外の木枯らしが恋しかった。
遊び相手の女童がいなかったわけではない。家柄も容姿もそれなりに優れた少女たちが私のために集められていた。
厚すぎる衣や不快なほどの温もりと同様、しきりに気を惹こうとする彼女たちにも興味を持てなかった。もちろん、そんなそぶりを見せたりはしない。私は幼いなりに人を読むのは得意だった。
いくつかの遊びごとを微かに首を振って断り、ぼんやりと御簾の向こうの前栽の残菊が枯れかけて縮こもっているのを眺めた。
女房たちの会話は雑音で、気を配られながらも私は一人だと強く感じていた。
遠くから、渡殿を踏む音が聞こえてきた。
その音で誰かはわかる。乳母の一人の侍従だ。そしてそれは渡殿の下の白砂を踏む軽くやわらかな足音を伴っている。
侍従の娘の小侍従が得意げに立ち上がってその母を迎えた。いつものように甘えかかろうとして、ふいに険しい声を立てた。
「だあれ、その子」
「樋洗童として使う子よ。宮さまにご挨拶を」
他人に興味を持てない。父以外は誰も同じ。だから私は人をえり好みすることはなく嫌うこともなかった。彼女に会うまで。
御簾越しに遠く白砂の上。それでもわかるほど安っぽい生地の汗衫。薄すぎる袷。綺羅で飾られたこの朱雀の御所にふさわしからぬ小娘。
彼女は脅えているようではなかった。ただあきらめているように見えた。砂上に膝をついて頭を下げる。侍従が言葉を継ぐ。
「あやめと申します。今後はお目汚しせぬように控えさせます」
もちろん侍従はそのつもりだった。でも、私は違った。
「…………近くに」
珍しい私の意志を女たちは驚いて否定した。
「お目の障りになるような卑しい者です」
「ご挨拶さえはばかられる身の者ですわ。侍従に多少の縁がありましたのでこうしておりますが」
口々にそれを止めようとする。
「許します。近くに」
幼い私の声がきっぱりとそう告げた。女房の取次ぎを拒否して直接話しかけた。
「あやめというのね。ここには初めて来たの」
直答が許される身分ではない。でも私は促した。恐る恐る答える彼女の声は甘くも高くもなく、水の音に似た静かさを持っていた。
たぶん周りの者は不快をあらわにしていただろう。けれど私は気づかなかった。三つ年上のこの少女を見ることに夢中だった。
少し大柄で、年の割には落ち着いて見える。容貌はさして際立つわけではないが感じがよく、浮ついた派手さは欠片もない。ありふれた娘だった。ただ、一目見たときから私にとって大事な何かを持っていた。
「あやめを傍に置くわ」
逆らったこともない生き人形たる姫宮が、普段は素直に受け入れる言葉をはねつけ、宣旨にも似た強さで決めつける。
「まともな衣を選んであげて」
幼さゆえの気まぐれ。続くはずのない遊び。彼女たちはそう考えてしぶしぶ言葉に従った。けれど女房たちの思惑に反して私は、この少女に飽きることはなかった。
それから三月ほどたち正月が過ぎた。
私は御帳台(平安ベッド)でうとうととまどろんでいた。そこに、声がした。
衣擦れの音が誰にも聞こえないように裾を押さえてそっと覗いてみると、小侍従があやめに激しい口調で何か言っている。
「厚かましい。親にも捨てられた卑しい者のくせに!」
ぶたれたのだろう、あやめの白い片頬は赤くなっている。私は優しい乳母に娘を止めさせようとして、帳の中から侍従を探した。
彼女はそこにいた。蔑んだ笑いを薄く浮かべて。
ぞっとして周りを見渡すと私には優しい女房たちが皆、面のような顔でその様子を眺めている。
瞬時に理解した。かの者どもは、下の身分の彼女に向けた私の気持ちが気に入らないのだと。そして私の目がない時は、いつもこんな風にあやめをいじめていたのだろうと。
だが彼女たちはしくじった。眠っている時であったとしても、私の前では責めるべきではなかったのだ。
身じろぎを一つした。途端に外の気配が変わる。
「お目覚めですか、宮さま」
蜜のような侍従の声。寝ぼけたようにそれに答えた。
人を信じなくなった。そして偽ることを覚えた。私は小侍従に甘えてみせた。彼女がそれに慣れたころ、そっと囁いた。
「ねえ、小侍従は外を知っているのでしょう」
「もちろんですわ」
普段は言葉の少ない私の声に、この浅い性格の小娘は張り切って答えた。
「うらやましいわ。それを話して」
彼女は得意げにその見聞を語った。感心するふりをしてそれを聞いた。全てを語り終えると、それをほめる言葉を与えた。
「小侍従は話すのが上手ね。まるで見ているような気持になったわ」
彼女の手に小さな自分の手を重ね、香の匂いが移るほど身を寄せる。
「もっと小侍従の話が聞きたいわ。だから、外を見てきて。全部話して。大人じゃなくてあなたがじかに見たことを話してほしいの」
いたいけな稚児がねだるように。あるいは実の妹のように。
「侍従にも頼むわ。あなたを連れていろんなところへ行ってと」
上目遣いに見上げて微笑む。大抵の人間は信頼には弱い。ましてや、以前から私の寵を望んでいた彼女は、わが意を得たりと有頂天になった。
彼女たちは留守がちになった。その上私はあやめを人前では時たま冷たく扱うことにした。
人の心は操れる。そのことを知らずに育ったなら、外出さえもままならぬこの暮らし、ずいぶんと退屈だったと思う。私自身も朦朧とした虚を宿す姫宮として、漫然とただ生きていたかもしれない。
あやめは私に意志をくれた。それは水に波紋を起こすように様々な動きと影を生んだ。私の根幹をなす暗い心は、それを持たない彼女によって与えられた。
稚拙に偽った字を書く手を止めて、傍らに座る彼女に微笑む。邪気のない瞳がやさしく私を見返した。




