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 それから一年ほど後の八月、露のようにはかなく女が失せた。紫の上はこれといった大きな病だったわけではないが、静かに弱り続けて亡くなった。望んだ出家はついに許されなかった。


 公然と源氏は悲しむことができる。土器(かわらけ)など割ることもなく泣き、よろよろと鳥辺野(とりべの)である葬儀に出向いた。

 想像の通り多くの人がその死を惜しみ泣き騒ぐ。弔問の列も重々しく続く。

 世の人々は嘆く。まるで柏木の死の時のように。


 さして害のない高貴な者が命を失えば下の者は無常を感じるものだ。それも娯楽だ。

 もちろん紫の上に仕えていた女房はその限りではない。たいていの者は自分が葬られたかのように悲しんでいる。彼はその女たちを盾のようにめぐらしおのれを守る。


 源氏は気力を失い、二条院を母胎のようにして他者と会うことを拒んでいた。そのくせ未だに出家の気配もない。


 おまえが悼むのは彼女か、それともそれを失った自分自身なのか。

 主を失った女の悲しみに混ぜてくどくどと自己への憐憫を語るだけではないのか。

 嘆き明かす朝方、悩み暮らす夕暮れ、本当にあの人のことだけを想っているのか。


 ならばなぜ出家をためらう。意味などなくとも彼女は喜ぶだろう。


 手の者は伝える。女のための出家と人に言われることを拒んだためだと。この者は日を置いてまた現れ、今度は紫の上の女房たちが気の毒すぎて出家できないと述べていると語った。


 たわけたことを言う。以前、私のせいで出家できないと嫌味を言ったことさえ忘れているのだろうか。

 いや、こちらには伝わらないと思っているのだろう。

 それにしても呆れた言葉だ。いったいいくつの言い訳を思いつくのだろう。


 そのこと以外に目新しいこともなかった。さすがに念仏だけはよく唱えるらしい。

 そして何ごとにも優れた存在である自分がいかに悲しい想いを重ねて生きてきたかを呆けたように繰り返しているそうだ。



 日々は過ぎていく。萩の上葉に風渡る秋が過ぎ、二月の花よりも紅い霜葉も散り、人の心を凍てつかせる冬も終わった。

 源氏は変わらず、人が取りざたするのでもっと落ち着いてから世を離れようなどと未練がましく語っているらしい。そして冬は、いつもは月を眺めたりするらしいが見上げることもなかったそうだ。


 見苦しい。べつに現世にしがみついていてもかまわないが、その言い草が恥ずかしい。人目のせいで捨てきれぬ程度のおまえなど、仏だってほしくはないだろう。


 この男は不要となったものしか捧げる気はない。最愛の女に対してもそうだった。

 紫の上は出家を望んだ。その是非はもはや問わない。けれど源氏は、生前ついにそれを許さなかった。そして彼女が命を失い、言葉さえ交わすことのない(むくろ)と成り果ててやっとそのことを許した。


 絶望的なまでの無意味!


 おまえはその女を本当に愛していたのか。その女の価値を愛していただけではないのか。

 いや、その女を作り上げるのに使った自分の労力を惜しんでいるのではないか。

 女という鏡に映した自分の形影のみに恋々としているのではないか。

 そもそも彼女を本心から想っていたのなら、なぜ私の降嫁を断らなかった。


 もし私がいにしえの藤壺中宮の面影を宿し、行いも才もその身にふさわしい女性であったとしたら、彼女に対して二番目の(ちょう)しか示さなくなったのではないか。

 最愛の者としての彼女の立場は、比較によって生み出されたに過ぎない。


 自分を奪われ夢の女と化し、そしてそれが代えのきく虚像だと知った。

 その後でやはり新たな玩具より、自分の手で丁寧に作り上げた理想の女の形代(かたしろ)であるあなたの方が素晴らしいと、いくら真摯に訴えられたとしても喜べるわけがない。


 あなたは本当に私のことが好きなの?


 出家の望みは彼女の問いかけだったのかもしれない。そしてそれは否定された。源氏は彼女よりも自分自身の方が大事だと証明してしまった。


 そのことを同情はしない。そう問いかけることさえ許されない女たちもいる。否定を前提としてその諦念(ていねん)矜持(きょうじ)と変える者さえいるのだ。


 だが残念だとは思う。すずめの子を惜しんだ少女がそのままに育ってたならなりえたはずの彼女自身。その幻想が私を捉える。

 けれどその幻の美女は、死霊よりはかなく夢のかなたに消える。


 春は深くなっていく。一重の桜は散り、八重のものも盛りを過ぎた。それでも樺桜(かばざくら)は爛漫と咲き乱れ藤の花も遅れて色づく。鮮やかな山吹もひときわ色濃い。春を愛したかの人の名残りが虚しいほどの豊穣(ほうじょう)を見せる。

 それに誘われたのか、久々に源氏が二条院から戻ってきた。


 女房に抱かせてつれてきた明石中宮(あかしちゅうぐう)(「御法(みのり)」から中宮とされる)の三番目の息子、匂宮(におうのみや)(かおる)を誘って走り回る。

 それは廃墟の地を破って芽生える新芽のように鮮やかな生を感じさせる。

 閼伽(あか)の花が照り映える夕暮れ。その気配に背を向けて、穏やかに経を読む。


 簀子(すのこ)に立ち子どもたちの様子を眺めていた源氏は、その活力に疲れたのか御簾(みす)をくぐって入ってきた。

 その動きで西日が深く差し込み白檀(びゃくだん)阿弥陀(あみだ)仏が輝く。私は振り向かない。


「春に心を寄せた人を失ってから、変わらずに咲く花の色さえ人の心も知らぬ興ざめなものと思っていましたが、仏の供えとして見るならば価値はありますね」


 経の終わりに話しかけてくる。胸の底に不快な感覚がよぎる。

 私自身はこの男のことを微塵も慕ってはいないが、通常の人柄であったとしたら適切な寵を妨げたその人への想いに冷静ではいられないだろう。

 わざわざ口にすることは挑発か、それとも人でさえなく尼とすら思えぬ人形にただこぼした愚痴なのか。


「東の対に咲いている山吹は房も大きく、この世にありえないほど素晴らしいですよ。品があるとは言えませんがにぎやかで、その華やぎは非常に趣深い。それを植えさせた人がすでにないことも知らずに、常よりも匂いやかに咲き誇っていることこそあわれに思います」


 なるほど、彼の人を東の対の山吹になぞらえた上での私への嫌味か。わざわざ品のことを持ち出したのも、二品(にほん)内親王(ないしんのう)の私に対して、あたりまえだが品位は持たない紫の上を表すための方策だ。


 わたしを見くびる源氏は、慰めの言葉を待っている。幼い人柄の女が、その意味に気づかずに間抜けな同情を示すことを。

 そうはいくか。何心なく見えるように気を配って、さらりとひとこと返した。


「谷には春も」


 源氏の顔が青ざめる。

 光なき谷には春もよそなれば 咲きて()く散るもの思ひもなし

 清原深養父(きよはらのふかやぶ)の歌だ。もともと光のない谷に春も来ないので、花が咲いてすぐ散る心配もない。


 自分を卑下しているように装って、そのくせもの思いのない立場を見せつける。出家の意思に捕らわれながら果たせない源氏には効果的だ。


 そして私の真意はさらに深い。この歌には詞書(ことばがき)がある。

 『時めいていた人がにわかに失意の状態になって嘆くのを見て、日ごろ、自分自身の嘆きもなく喜びもないことを思って詠む』

 そこに私の悪意がある。まさにその通りの状況だ。

 加えるに率直な思いもある。光のない谷、つまりおまえがいなければ嘆きなどないわ。


 もちろん源氏は気づかない。いつまでも幼さの抜けない女が深い考えもなくつぶやいたひとことだと考えている。

 そしてたぶん、亡くなった方はもっと情のある人であったと惜しんでいるはずだ。その基準は自分に対する優しさだ。


 いたわれることを望むこの男は、春霞(はるがすみ)の中、明石の女のもとへと向かった。

 その女は礼を示し心を配ってもてなすだろう。そして出家の望みを口にすれば、言葉を尽くして引き止めるに違いない。けれどそれは、春宮(とうぐう)の処遇にはそれが有利であるからに過ぎない。


 かつて源氏はこの女を道具として利用した。今、丁寧にかしづきながら女は同じことをしている。彼はこの一族の栄華の道具だ。


 源氏の心を慰める者はいない。紫の上の可愛がっていた女房がわずかに気を惹くが、それもささやかな気晴らしだ。


 形代に重ねた形代は、もはや意味がない。その人の微笑みはその人だけのもので、他者にはその役目は果たせない。けして。


 憐憫など持たない。それでも、脱ぎ捨てることのできぬ衣のように人の死の悲しみが付きまとうことだけは理解している。

 出家すらできぬあの男であろうと、喪失の虚だけは確かに持つのだろう。


 案ずるな。その虚は生涯の友だ。どれほど取り繕っても離れることはない。

 私ですらいまだ抱いたままだ。もはやもの思いのないはずのこの身も、失われた面影に震えるのだ。



 夜明け近くに雨音で目覚める。宿直(とのい)の者たちはすべて眠っている。

 衣を重ねず単衣(ひとえ)のままの姿で端近に寄る。何年も隔てたいまでさえ珍しくもない夢。


 御簾の外にはせんせんと細い雨が降る

 季節は無情に移りゆく 爛漫たる春でさえも

 夜は明けかけているが黎明(れいめい)の歓びはそこにはない

 目覚めなければよかった 夢にはあなたがいたのに


 薄明にまぎれて御簾をくぐる

 高欄(こうらん)にもたれて眺めるが、整えた自然があるだけ

 あやめ、あなたはここにいない

 あんなにたやすく別れて、そして二度と会えない

 (みぎわ)の樺桜が雨に濡れ、花びらを散らす

 あなたは天にあり、私はここにいる


 人目につく前に御簾の奥に戻る。しょせん枠内の日常。戯れに言葉を変えた『浪淘沙(ろうとうさ)』など慰めにすらならない。奥の寝所に戻ると人影が傍に控えた。


「……起こす気はなかったわ」


 按察使(あぜち)は黙って私の横に座った。

 あやめを失くして一番辛かった時に慰めとなった懐かしい温もり。


 しばらくそのままでいて、それからそっと彼女から身を離した。

 彼女はほんの少し片頬を上げた。


「…………仏を信じていらっしゃるのですか」


 薄い笑みと共に答える。


「信じていないわ。話しかけてみたことはあったけれど答えはなかったし」

「ではなぜ」

「戒を破ることは怖くないの。でもね、自分の選択は曲げたくない」


 これ以上彼女を傷つけたくなかった。按察使は私の大事な女房だ。


「辛かったらここを下がってもいいのよ。寂しいけれど許すわ」


 彼女は私の手を握った。それはなめらかで、育ちのよい上臈(じょうろう)のものだった。

 その温もりも嫌いではなかった。けれど私は別のものを求めていた。

 彼女はそれを知り、私もそのことを知る。


「離れませんよ」


 彼女は口の端をわずかに歪めた。皮肉だけれど綺麗な笑い。


「苦痛がある種の快楽であることは事実ですから」

「長いうちには気が変わると思うわ」


 彼女は答えず、その手にただ力をこめた。




浪淘沙 李煜

簾外(れんがい)に雨はせんせんたり

春意 らんさんたり

羅衾(らきん)は耐えず 五更(ごこう)の寒さに

夢のうちに身はこれ客なるを知らず

しばし歓びを貪りぬ


ひとり暮れに欄によれば

限りなき江山(こうざん)

別れる時はたやすく あう時は(かた)

流水 落花 春去りぬ

天上と人間(じんかん)



次回最終回。一気に行きたいのでしばらく休みます

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