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 遠く御簾(みす)越しに見える水面に蓮の花が美しい。静かに微風に揺れている。

 そこだけは時の流れが止まったように見えるがもちろん留まることはなく、柏木の一周忌さえ去年のことだ。

 なのに私は、六条院の中から出してはもらえない。


 源氏は念誦堂(ねんずどう)(お祈り小屋)を作るとの口実で、三条の邸に移ることを許さない。転居した方が人聞きもよかろう、との父の言葉さえ断った。


「離れていては心配でなりません。朝夕お目にかかってお世話させていただきたい。私の余命が長いわけでもないでしょうが、生きている限りはこの志をなくしたくありません」と離さない。

 そして誠意をお目にかけようとばかりに、住んでもいない私の私有財産の三条の邸を飾り立てる。


 私所有の貴重な品はすべてそちらの倉に運び厳しく保管させた。邸自体も手を入れ美しく整えた。

 今までは自分でまかなっていた私や私に仕える者の費えなども、すべて源氏が取り計らうこととなった。


 さすが、人の命さえ金で(あがな)う男。一周忌に支払われた柏木の値は黄金百両だった。

 私の価値はもう少し高いらしい。その必要もないのに他の女君と同じく所有物とされたようだ。

 そして、自分の品には固執する彼は以前よりもずっと執着を見せる。


 春の町の寝殿(しんでん)で開かれる私の持仏(じぶつ)(守り本尊。マイ仏さま)の開眼供養のために、あまたの品が用意された。

 それはかつての源氏の四十の賀さえ思い出させる。けれど今回はこの男がすべてを仕切った。


 無理もない。これは生ける私の葬式だ。


 品物の一つ一つが贅美を尽くして繊細に整えられている。唐の錦を縫った(はた)(仏様の飾りで掛けて使う。現在では木製が多いがこの時代は布製。巨大なスルメみたいな形)や花机の覆いや、式に必要な僧の法服などは紫の上が用意してくれた。

 染めの美しさや模様が目を愉しませる。縫い目の一つ一つさえ心を配ってくれていることがわかる。


 私の御帳台(みちょうだい)の四方の帷子(かたびら)を掲げてその中に、細やかに作った白檀(びゃくだん)阿弥陀(あみだ)脇士(きょうじ)(お供)の菩薩(ぼさつ)像が据えられる。仏のために唐の百歩の薫衣香(くぬえこう)

 後ろには曼荼羅(まんだら)図と(しろがね)の花瓶に大きく豪華な蓮の花。


 閼伽(あか)(仏様に供える水関係)の道具も小さくてかわいい。ここにも青と白と紫の蓮の花。

 蓮に合わせた夏の香りの荷葉(かよう)の香は、蜜を少なめにほんのりとさせているのでこちらの方が好きだ。空薫物(そらだきもの)の香が凄すぎて今はあまり匂わないけれど。


 朝夕読む阿弥陀経は、「唐の紙はもろいから」と紙屋院(かみやいん)の者をわざわざ呼びつけてすかせた上質な紙に源氏自身が経を書いた。


 おびただしい数の人が集まった。公卿(くぎょう)殿上人(てんじょうびと)に数々の僧侶。西の(ひさし)にいる私の周りには、使い立てる女房たちが五、六十人ほども詰め寄せてつぶれそうだ。


 人いきれと過剰な空薫物のせいで少し息苦しい。けれどそのままにしておいた。

 なにせ私の葬式だから、仕える者は大げさに騒ぎたいだろう。

 六条院で最も権威ある正妻に仕えていたはずなのに、経ばかり読むさえない日常に連れ込まれたのだ。たまさかな行事の時ぐらい愉しむがよい。


 蝶のような女房たちは私が出家しても変わらず浮薄で騒々しくて、私はそれが嬉しかった。

 すでに喜びなど無縁となったこの身には、その軽々しさこそがいとおしかった。

 けれど源氏が現れると、その騒ぎはすぐに是正された。


「空薫物は微かに漂ってこそ趣があるのに、これではまるで富士山の煙だ。それと、説教が始まったら静かにすること。はばかりなく衣の音を立てたり身動きしたりしないように。若君は会が終わるまで別の場所に連れて行ったほうがよい」


 そう言って、人の多さに驚いてぼんやりしている薫の手を引いて乳母(めのと)に渡して下がらせる。

 寝殿の北の襖障子(ふすましょうじ)を取り外して御簾に替えさせ、余った女房をそこに移した。


 もたらされる静かで敬虔な雰囲気。源氏好みの葬式。

 この男はご親切にもこの私に、説法や聴聞(ちょうもん)の心得をご丁寧に説明してくれた。


「このような仏事を若いあなたが営まれるとは思いもよらぬことでした。今はこのように道が分かれようとも、後の世こそ極楽の同じ蓮の花の上で共に暮らすことを頼みにしています」


 私の中の獣は長い間、薄く眼を開いたまま眠っていた。

 だがこの時、その目をかっと見開いた。


 何人その蓮の上に乗せる気だ。

 極楽の池でおまえの蓮だけがずぶずぶと沈んでいく様が目に見えるようだ。

 そんな蓮になど乗りたくない。


 はちす葉を同じうてなと契りおきて 露のわかるるけふぞ悲しき

 (来世もいっしょと誓いながら、涙の別れの今日が悲しい)


 私の香染めの扇に源氏は歌を書きつけた。即座に返しを横に添える。


 隔てなくはちすの宿を契りても 君が心やすまじとすらん

 (心隔てず来世の約束をしても どうせあなたの心は澄むこともないし、住まないでしょう)


 思っても見ない反撃に彼は「申した甲斐もなくおっしゃいますな」と薄笑いを浮かべた。

 驚いてはいるようだがそれが私の本質であることは気づかない。


 式が始まり講師の僧は語る。若い盛りで入道する尊い心の持ち主と、法華経(ほけきょう)により結ばれるその元夫の深い縁を。

 まさかその直前に、入道の姫宮自身の手で相手に引導を渡したとは思いも寄らないだろう。


 親王(しんのう)たちも数多く集い、競うような布施(ふせ)さえ積み上げられ、父や兄からも使いが来た。

 その華々しい弔いが終わった。これを機に、尼である立場を自分に確かめる。


 守るべき十戒のうち出家用の戒は仕える者に障りがない限り守る。

 残りの戒の中の呑むな殺すな盗むな乱れるな。これはその通りにしよう。


 だが仏よ、不妄語戒(ふもうごかい)(嘘をついてはならない)の一つだけは貸しておけ。

 それと心以外のすべてをおまえに捧げる。後の世のことも何も望まない。地獄に行くのも先刻承知だ。

 けれど、偽り無くして私はない。そのこと自体が今や私だ。


 僧侶たちは去り、人も去った。法会(ほうえ)の余韻でいまだ涙ぐむ女房の中に、すでに涙など無縁の私は去ることもできずに残る。鈍色(にびいろ)の衣に身を包み、数珠(じゅず)を手にして現実(うつつ)の中に残される。



 秋の風が吹き始めた。愛らしい虫の声が程近いところから聞こえてくる。離れたい気持ちを隠さない私を引き止めるために、源氏の用意したものだ。


 春の町の寝殿と西の対との間に通した渡殿(わたどの)の前にある塀で仕切られた前栽(せんざい)を野の趣に仕立てあげ、涼しい声で鳴く虫たちを放った。


 春の町に囲われた秋の破片。清秋を(とざ)索漠(さくばく)たる梧桐(ごとう)の深院。調和を乱す異質な空間。私に似たその場所。


 ここの端には閼伽の棚をしつらえた。そこに、初々しい尼姿の女房が供え物を運ぶ。


 私の出家により仕えていた者の多くが後に続こうとした。あわてて止めて、間を置いて決意の程を確かめた。源氏も同調して、はやり病のような出家熱を抑えようとした。

 乳母や年を取ったものはともかく若い娘にふさわしいことではないと、珍しく意見の一致を見た。

 それでも十数人もの女が世を捨てた。


 その自由を持たない按察使(あぜち)が恨めしそうに地味な色合いの一団を見つめている。


 涼しげなその列に、私の蝶の中でも特に軽々しく華やかな兵衛(ひょうえ)少納言(しょうなごん)が並んでいる。

 希望を聞いてもちろん止めた。華のないこんな生活に彼女たちが耐えられるとは思えなかった。けれど二人の気持ちは強固だった。


「だって生きていくことをやめたくなるほど辛いのです、もう何年も」


 兵衛がほんのりと笑いながら告げた。


「宮さまには申し訳ないことですが、わたしの思い人は殿でした」


 気まぐれのように与えられる行為を恋の証として、それだけを頼りに想い続けた。


「身分のせいで(ちょう)が薄いのだとずっと自分をごまかしていました。けれど、そうではないことに本当は最初から気づいていました。なのに、あの光のような微笑みを向けられるとそのたびに期待してしまうのです。あの方にとってわたしは、目についた時だけこの世にいるに過ぎないのに。出家も止めてくださいました。この部屋を訪ねる楽しみがなくなるとまでおっしゃってくださいました。けれどそれはただのやさしい偽り」


 細い涙が笑みの形の口もとにまで伝わる。


「あの方が悪いわけではないのです。ただわたしは、それでも望んでしまう自分や、あの方やその寵を受ける相手を憎んでしまうことがもう嫌なのです。望みなどない穏やかな世界でひたすらあの方の幸福を祈りたいのです」


 浮薄な蝶の真摯な願い。傷ついて悩んだ末の決断だ。

 あの男は言う、浅い道心の女たちと。

 けして思索的な入り方ではないが、苦しんでなお相手のことを思うこの娘の心より深い道心など源氏ごときが持てるものか。


「わたしの好きな方も恋の多い方です」


 少納言が言葉を継いだ。


「身近にいる方なので、望めばいつでもとろけさせてくれます。甘い言葉や気のきいた愛想も欠かしません。だけど、その方は本当に大事な相手は別にお持ちなのです。あまたの恋などただの慰み。約束もなく束縛もない恋は割り切ることができるのなら潤いにもなるのでしょうけれど、わたしはあつかましくて自分だけを見つめてほしくなるのです」


 彼女に尋ねてみた。


「その人を恨んでいるの」

「いいえ。もとより承知の恋でした。あらかじめ与えられた(のり)を超えた自分自身を恨むだけです」


 娘たちの潔さは痛々しいほどだった。私は許しを与え、もし次の恋を得たのなら還俗(げんぞく)の申し出をするように告げた。彼女たちは礼を述べ、それを否定した。


「気持ちは変えません」兵衛の言葉に少納言も賛同する。

「一生尼として生きます」


 先のことはわからぬが、二人の決意をただ受け入れた。


 小侍従(こじじゅう)は列に並ばない。以前より暗い面持ちで何事もなかったかのように雑事をこなす。

 それはそれでいい。だが私は、その心のうちで人ばかり責めているらしい彼女が気になった。

 悪意を持つことは別にいい。が、それをただ胸の内で育てることは幼い心の彼女を損なう。自分を手放すことが彼女にこそ必要だと思えたが、強要するつもりはなかった。


 驚いたのは中納言だ。一度里に下がって、この場に戻って来た時にはすでに尼姿だった。


「あなたに道心があろうとは思わなかったわ」


 思わず囁きかけると平然と答えた。


「これで堂々と真名(まな)(漢字。経と見せかけて他もいけそうですね)が読めます」


 笑いを含むと、すましたまま「それに菩提(ぼだい)を弔いたい者も多少いるので」と言葉を添えた。



 夕暮れの虫の声に閼伽坏(あかつき)(仏様に水を備える器。金属製が多い)に水を汲む音が混ざる。

 少し端近により、御簾の外を眺めながら経を読んだ。十五夜ではあるがまだ月は出ていない。


「虫の音がしきりに乱れる夕べですね」


 いつものように源氏が渡り、この場に合わせて陀羅尼経(だらにきょう)を微かに唱えた。華やかな鈴虫の音に男の声が重なる。


「以前、秋好む中宮(ちゅうぐう)が野辺の松虫を庭に放ったことがありましたが、あまり鳴きませんでしたよ。名と違ってはかなく、愛想を見せないよそよそしい虫ですね。鈴虫は気軽でにぎやかに鳴くのがかわいいですね」


 その言葉が以前に聞いた遠い過去の逸話を思い出させる。夢多い娘たちがあこがれて語る野の宮の別れ。伊勢に下る六条の御息所(みやすどころ)と源氏のしめやかな決別。その時の和歌さえ悲恋好みの女たちのせいで伝わっている。


 おほかたの秋のあはれも悲しきに 鳴く音な添へそ野辺の松虫


 娘の名と松虫の否定で彼の女が近くに寄り添うのを感じる。直接に呼ばれてはいないので、ただ見つめているだけだ。私は心の底で誘った。


ーーーー死霊よ、このひと時わが身に宿れ


 捨てた女と捨てられた男の形だけは過去と同じでも、抱く未練はそのときと逆だ。鬼神とも呼んだこの身を利用して、思いの丈を語るがよい。


「おほかたの秋をば憂しと知りにしを 振り捨てがたき鈴虫の声」


 わたしの声が女の想いを語る。あなたが飽きたことを知っているけれど、それでもあなたを捨て去りがたい。


 源氏は気づかぬ。それを私の歌だと思っている。


「想いの外の言葉ですね。心もて草の宿りを厭へども なほ鈴虫の声ぞふりせぬ」


 ご自分の心からこの場を捨てたあなたなのに、そのお声はいまだお若い。

 そう語る源氏は過去との相似にさえ気づかぬ。これほどに昔の歌をかたどった和歌を聞いてさえ、その人の名さえ思い出さない。さらにその人が辛い思いをしていた年のことを出して、若い私を上げようとする。


 苦笑の気配。長く虚しいその恨みに疲れ果てた女の干からびた情愛。二人共に抱いたはずの悲哀の水底は涸れ果てている。荒涼たるその景色。一人でさまようには長すぎる夜。


 珍しく源氏が琴を取り寄せた。

 秋の気配を音に詠む。程ほどには上手い和歌よりもよほど深く秋は音に宿る。

 忘れたはずの悲しみも心浮き立つ憧れも恋を得た喜びも変わらずそこにはある。


 月が昇った。その影は冴え冴えと辺りを照らす。

 数珠を繰る手を止めて音に聞き入る。死霊と共に。

 

 憎しみは愛情で敬意は軽侮で言葉は無意味でそのくせ束縛。私とは違うその恋。

 彼女は私ではなく私は彼女ではない。それでも二人で琴の音に耳を傾ける。


 恋を宿したその音に彼女はいつしか溶けていく。

 すべてを招く琴の音はすべてを送る。過去の夢さえ。


 差し込んだ月影で一瞬、消えゆく女の輪郭のみがわずかに見えた気がした。


 存在さえ知らぬ虚無の葬送。人を捨てたものは人たるものを傷つけることはできない。

 それは私の役割だ。


 すべての熱を手放す秋は人の思いを冷やすには似合いの季節だ。

 優艶なる冷酷は定まった形の中でこそ輝きを見せる。

 琴の音は甘い毒のように流麗にただ流れた。



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