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 水面(みなも)の泡が消え行くように柏木が死んだ。世は嘆いた。

 致仕(ちじ)の大臣もその北の方も、彼の弟妹たちももちろん妻たる二の宮も泣いて悲しんだ。

 権大納言(ごんのだいなごん)の地位を贈ってまでこの世に引きとめようとしたわが兄帝もひどく彼を惜しんだ。


 死ぬ必要のない者が死に、死など恐れぬ者が生きる。世の中は矛盾に満ちている。


 時おり、衣の裾が重くなる。彼の者が訪ねて来ているのかも知れない。

 私は話しかけてみる。死にたいとも思わぬがほしければ命などいつだってくれてやる、と。


 けれど死者は何も答えず、微かな重みを加えるだけだ。


 それが彼の望みなら好きにするがいい。おまえのためにも経を読んでやろう。

 もちろん、あやめの次にだが。その程度しか与えるものはない。


 生前にすら、たいした物は与えなかった。私自身と、小侍従(こじじゅう)に強要された幾枚かの文。その程度だ。


 柏木はすべてをくれた。命さえも。ほしいなどとは思わなかったのに。

 最後の文を覚えている。苦労して書いたらしい鳥の足跡のようなあやしげな文字。煙になろうとも私から離れないと誓った和歌が、怖くなるほどの執着を見せていた。

 おまえが望むのならばそうすればいい。


 生前のこちらの望みはすべて聞いてくれた。話すなといったことは話さず、死に際は姉に対しても気をつかって、誰彼かまわず彼女の後見を依頼してくれたらしい。

 父の賀の試楽の際も最善を尽くしてくれた。


 おまえは死ぬべきではなかったのに。いや、いまさら無駄なことだ。

 柏木は死に、私は生きる。宿命など信じないけれど厳然たる事実だ。

 だが、それもほんの少しの間だ。どれほど生きても大して遅れるわけではない。


 たちそひて消えやしなまし憂きことを 思ひ乱るる煙くらべに


 彼への慰めのために詠んだものだ。今は消えたいなどとは思わぬが、煙くらべはいずれできるだろう。もっとも、おまえの想いと較べるのはあやめへの想いであるが。


 思いもかけずに涙が一筋流れた。私のあやめへの想いも、彼の私への想いも同じなのだ。人が人を恋うことに変わりはない。彼もあの子も私も違いなく憐れな人という存在だ。


 ふいに裾が軽くなった。もう、往くらしい。気が変わったらいつでも祟りに来い。


 けれど私は知っていた。柏木は逝った。あやめが残らないのと同じように、二度と現れぬ。


 暮れなずむ空を見上げた。茜色が美しい。

 墨染めよりも、世に華とされた人を送るのにふさわしい色だと思った。

 燃えるような真紅に見守られて彼の男は去る。

 火葬の焔に心の朽木(くちぎ)をくべる。

 ひときわ濃い色が、わずかに滲んだように見えた。



 切りそろえた髪の裾が広がる。撫でつけても今までのようには落ち着かない。黄を帯びた今様色(濃い紅梅色)を重ねた鈍色(にびいろ)の衣と共に、立場の違いを感じさせる。


 わが息子である赤子を仮に(かおる)と呼ぼう。この子の五十日(いか)の祝いも無事に済んだ。源氏は実務面には能力があり、適切に場を設定した。


 けれど、そのこと以外は以前と変わらない。すでに私は世から離れているのに、強引に几帳(きちょう)をどけて身近な場所へ入り込む。得ることができなくなって急に惜しくなったらしく、三条の邸に移ることも許さず尼姿に好色な視線を当てている。

 そして墨染めの衣を責め私を責め、気の毒な自分を嘆いて見せた。


 むしろ安心した。やはり私は純粋にこの男が嫌いだ。あやめのことだって按察使(あぜち)の件があろうとも、手を出さなければよかったのだ。明らかに世慣れぬ娘に対して自分の欲のため、非道なまねをするべきではなかった。


 幼い頃からの憎しみが静かに私を満たしていく。もう、人の手など一切借りずにこの憎悪を源氏自身に返してやる。偽りの自分をまとったままではあるが、多少は本性をちらつかせてもかまわないだろう。


「私を厭って三条へなどお行きになれば、捨てられたこの身がどんなに恥ずかしくも辛くもあることでしょう。この私をあわれとお思いください」


 まったく男というものは、誰も彼もがあわれと言われたがる。本来ならそう言われるにふさわしい女たちは、ただ黙ってそれを吞み込む。

 だが私は違う。そんな言葉など許容しない。


「このような身の者はもののあわれなど知らぬと聞きます。まして私は、昔からそのようなものは知りません。どのようにお答えすればいいのでしょうか」


 幼いだけの正妻であった女にしては異質な面持ちで冷たく答えるが、源氏は何も気づかない。


「甲斐のないことですね。あわれを知っていた頃もおありのようでしたのに」


 皮肉を言うとはらはらと様子をうかがう乳母をなだめるために、彼女の抱える薫を受け取った。色白くよく太って愛らしい赤子だ。


 源氏は腕の中の薫を見つめた。赤子は声を立てて笑った。そしてその手で源氏の袖を掴んだ。

 彼は驚いたようにその子を見た。ゆゆしいまでに美しい赤子。何の邪気もないその笑顔。

 薫は源氏の袖を口元まで持っていき、口をとがらせてそれを吸った。


 弥生のうららかな陽射し。世から消えた男の面影。世を捨てた女の思惑。世を捨てきれぬ男の驚愕。


 なぜか源氏の目に露が宿った。その口から白居易(はくきょい)律詩(りっし)が漏れた。


「汝が父に似ることなかれ」


 苦い色を宿した言葉。似るべきではない男は柏木か、それともおまえ自身か。


 女房たちが下がり人気のなくなった部屋に、今や夫婦でさえない一組の男女が赤子を挟んでおのおの別の感慨に捕らわれている。


 明らかに源氏はこの赤子に常とは違う感情を見せている。憐憫か。それとも畏怖か。さんざん表した怒りでも不快でも無感情でもない。


 薫を見つめていた彼は、ふいにこちらに目をやると慣れ親しんだ冷たさで装った。その子を抱いたまま私の方に向ける。


「どのようにこの子をご覧になることでしょうね。こんなかわいい子を捨てて背くほどの世でしょうか。私に辛い思いをさせてまで」


 いやみな和歌まで詠み上げた。

 誰が世にか種はまきしと人問はば いかが岩根の松は答へむ(お父さん誰って人が聞いたらこの子はどう答えるの)


 あまりに露骨すぎる悪意に軽侮の念さえ沸き起こり、それを表さぬためにうつ伏せた。

 いつもより洗練を見せぬ稚拙な悪意。薫のせいか。この愛らしい赤子の笑みは、人の中の核にあたる部分をむき出しにしようとする。


 私と源氏の重なる軽侮に染まりもせずに薫は笑った。形骸たる仏の像、それを思い出したのは何故だろう。人でありながら人以前の存在である赤子は、人を越え人以上の存在となった如来(にょらい)の何かに似ているのだろうか。


 父に似るべきではない赤子を抱いたまま、源氏はその場に立ち尽くしていた。




 日々は過ぎ行く。薫の成長はそれを顕著(けんちょ)に表す。横になったまま手足をむやみに動かすだけだったのが、いつの間にか寝返りをうつようになり更に這いずりだした。意外に広範囲に移動するようになり、乳母のもとにいたはずがいつの間にかわが膝元にまでにじり寄っていたりする。今や私も脅えずに対することが出来るほどに彼に慣れた。


 ある日、信じがたいことが起こった。蒔絵(まきえ)御厨子(みずし)につかまって立ち上がったのだ。驚いて目を見張る私に赤子は得意そうに笑いかけた。


 私は彼に何もしない。乳も与えず抱くことさえも稀だ。だが薫はそんなことは気にもせずに私を見つめる。意思などない人以前の生き物だからと視線を返す私に、明らかにこちらの反応を喜ぶ目を向ける。


 赤子は不思議だ。悪意をもとに生まれたものであっても、悪意など超えた存在だ。

 薫はやがて伝い歩きを始め、よろよろとその足を私のもとへ運ぶ。歯も生え始めていろいろなものを(かじ)りだした。


 そんな頃に父から届け物があった。彼の入った寺近くで取れる筍と野老(ところ)だ。

 私が出家して後、それまでは源氏をはばかって控えていた便りを頻繁(ひんぱん)にくれる。もちろんあの男の視線を意識した害のないものだが、ともにいそしむ仏の道を言い訳に絶えず消息を伝えてくれる。このたびも山里の実りに寄せて文が添えてあった。


(かすみ)深い春の山からあなたのために掘らせました。ほんのしるし程度ですが。

世をわかれ入りなむ道はおくるとも同じところを君も尋ねよ

そのための修行は大変でしょうけれど」


 父はどんな所にいるのだろう。私が訪ねるべきその場所は仏の世界なのか。それともまた別の域なのだろうか。


 考えあぐねているうちに源氏の渡りの気配がした。彼を不快にすべく急いで父への返歌を詠み、頼りない手蹟で記すと書き損じに見せかけて几帳の端よりのぞかせた。

 案の定それを取り上げた源氏は顔色を変える。私の返しはこの世を厭い、父のいる山路へこそ惹かれる気持ちを強く詠んである。この世とはすなわちこの六条院のことだ。


 面子の立たない源氏は声に出してそれを責めた。

 聞く耳持たぬこの私は几帳の影で顔を背けている。が、完全に姿を隠しきっているわけではない。源氏はさらに責めようとしてこちらを見つめ不意に黙った。

 強くあてられた視線が疎ましい。失ったからこそ惜しむその浅ましさが厭わしい。


 寒々しい気配の中、乳母のもとで眠っていた薫が起きて這いずって来た。

 源氏は目線をその子に移した。それはそのまま留まる。赤子は何心なく動き、ずれた衣を引きずりながら物にすがって立ち上がる。私のもとに寄ろうとして父からの届け物に気づき、よろよろとその品に近寄った。そのまま、こてん、と座り込み筍を取り上げるとそれにかぶりついた。

 眺めていた源氏は意外なことに微笑んだ。


「こら、お行儀の悪い。誰か片付けなさい。食い意地が張っているなどと言われてしまう」


 そのまま薫を抱き上げ話しかける。


「若君の目元は趣があるね。幼子をあまり見たことがないためか、このくらいの頃は可愛いだけだと思っていたよ。女宮さえいる場所でこんなに魅力的では不安だね。……まあ、そんな頃までは私は生きてはいられないだろうけれど」


 縁起が悪いと囁く女房たちには振り向きもせずに抱いた赤子を見つめている。しかし薫は握った筍を離さず、(よだれ)を垂らしながら噛り続ける。


「おかしな色好みだね。辛いことは忘れられなくともこの子は捨てられないなあ」


 そこに確かに悪意はある。しかし、それだけではない。私に対してはともかくも薫に対する感情はそんな一つの色に塗り込められてはいない。


 薫は無邪気に笑い、彼の膝から離れて騒ぎまわった。



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