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 闇にまぎれて牛車が止まった。

 墨染めの衣に身をやつして、一人の男が訪れた。

 光に対比するその装束(しょうぞく)のその男はひどくなまめかしく見えた。

 いつものように。

 けれど源氏は、そのことに初めて気づいたかのように驚き戸惑っていた。


 父の突然の六条院訪問は源氏を、かつてないほど焦らせた。彼は言い訳をしながら私の御帳台(みちょうだい)の前に席を用意した。

 私も女房たちに手伝われて御帳台の浜床(はまゆか)を下りる。

 五十の賀の時の対面より間近に見える懐かしい父の顔。飾り気のない清らかな姿。


「まるで私は夜居(よい)(夜勤)の僧のようだね。(げん)の力はまだないけれど」


 彼は面白そうに言ってみせた。噴き出しそうになりながら同時に涙が出る。

 うかつには動けない上皇の身分でありながらそして世を捨てた身でありながら、人の噂も気にせずに私が必要とした時に訪ねてくれた。

 それだけで充分と思いながらも、欲深い私は利用させていただく。


「長くは生きられないと思うの。このついでに尼にしてください」

「そのお気持ちは尊いけれど、命の程はわからないよ。先行き長い若い人は後に困ることになりかねない。気を変えた方がよくはないかな」


ーーーーでも、そう決めたの。自分の言葉の責は負うわ


 眸で告げると父も応える。


ーーーーまったく、困った姫宮だね


 それから源氏に向き直った。平静な声で私の意志を肯定する。


「今は限りの病人の望みですので叶えてあげたいと思います」


 もちろん、父が涙ながらに止めると思っていた源氏は驚愕した。


「今までもそうおっしゃっていましたが、(もの)()のためと思って聞き入れませんでした」


 表情には出さないが、父は源氏のこの惑乱を愉しんでいる。


「たとえ物の怪のせいだとしても、悪いことならともかく仏により近づく出家のことならば。聞き過ごして万が一のことがあったとしたら、きっと後悔するでしょうから」


 まあ出家後も世話はしてくれるだろうし。そんな功利的な考えさえ浮かんだかもしれない。

 人は父を見誤っている。彼は穏やかなだけの男ではない。どんな非情な決断でも自分で決めて揺るがない男だ。


 源氏は取り乱している。ついには几帳(きちょう)の内にまで入って私を留めようとする。


「老い先短い私を捨てていくのですか! それよりもまずはご自身をいたわることこそ大事です。そう弱ったお身体では仏へのお勤めもおできになりませんよ。出家の話はその後でも」


 誰が聞くか。思いっきり頭を振って否定した。

 今まで表面上の私の態度に疑いを持っていなかった源氏は、呆然と私を見る。

 自分の行いを悔いて許しを請うかわいそうな姫宮。そんな者はここには存在しない。

 

 やさしく親しみやすく、いつも自分の後塵(こうじん)を拝してそのことに不満を持たないはずの朱雀院(すざくいん)もまたいつもの兄ではなかった。もの凄く冷静に自分の都合を述べて私の出家の遂行を促した。


「帰りの際に明るくなりすぎると人目につくので」


 すでに夜明けが近い。父は私の祈祷(きとう)のために呼ばれていた僧の中でも、特に徳と身分の高い者を呼んで私の髪を下ろさせた。


 受戒(じゅかい)(仏門に入る者がルールを授かること、その儀式)の作法の時、耐え切れないかのように源氏がひどく泣き始めその声が部屋中に響いた。

 この声を私のものとはしない。あやめに捧げる。


 さすがに父の目にも涙が滲み袖に落ちた。心中で不孝をわびる。それでも生き方を変えたりはしない。

 父自身もそうだ。涙をぬぐうとすました顔で、本気なのかからかっているのかわからないようなことを言ってくれた。


「尼となってもお健やかに。せっかくだから念誦(ねんじゅ)(仏の名や経文の音読)でもなさるように」


 また噴き出しかけて言葉が出なかった。あわてて顔を伏せ、消え入るように見せかける。

 源氏はまだ呆然としたままで、いつもはよくまわる舌までろくには動かない。


「まだ、夢の中にいるようです。心が乱れて昔のようにおもてなしもできません。またこちらの方から伺いますので」


 父はあくまで冷静に皮肉を言い、今後の私の処遇について圧力をかけた。


「あの頃は特に寿命に限界を感じていて明日をも知れぬ命だと思っていました。他に身寄りのないこの子のことが心配であなたにご迷惑をおかけしましたが、おかげでしばらくは心安く過ごすことができました。もしこの子の命が助かりましたら、尼姿では人の多いこちらの住まいは不似合いでしょうね。かといってしかるべき山里などに置くのも心配です。お見捨てなきように」


 源氏はほうほうのていで言葉を搾り出す。


「これほどおっしゃられる程とはかえって恥ずかしいです。今は心が乱れて何ごともよくわかりませんので、また改めまして」


 充分に衝撃を与えて父は去った。墨染めの衣が薄闇の中に消えていった。



 夜半から明け方に行う加持(かじ)の際に、物の怪が現れて笑った。


「いかにも、わが執念はこの通り。一人の命を取り戻したと得意げでいるのが憎くてこの辺りにいたことに気づきもせずに。さて、今は帰ろう」


 かつて現れたあの方だと思う。以前の言葉を覚えていたらしい。素直な死霊だと私は思った。

 はっきりと聞いてしまった源氏は悪夢の中に閉じ込められた表情で、弱りきった風を装う私に視線を向けた。今までにはないほど苦い色を含んで苦しそうな目をしていた。


 自由に扱える高貴な若い女の肉体に対する未練か、そこに執着の色を見たような気がした。

 それでも彼は女房や僧侶に指示を出し、ふらふらとここを出て東の対に戻っていった。



 女の叫びで目覚めた。

 御帳台の近くで誰かが争っている。

 兵衛(ひょうえ)が、必死に按察使(あぜち)の手を押さえようとしている。


 昨夜の按察使は里にいた。今朝方戻ってきたらしい。そして今、刃物を振りかざしている。

 突き飛ばされた兵衛がそれでも必死に足にすがりついた。


 私は小声で呼びかけた。按察使の動きがぴたりと止まる。

 手だけを少し持ち上げて(とばり)のうちに招いた。


 死霊よりも蒼ざめた顔の色。幽蘭(ゆうらん)(墓場の蘭の花)の露を宿した眸。


「出家は許さないわ……理由はわかるでしょう」


 彼女は肩を落とした。私は安堵せずに見守った。想定したのとまったく同じ彼女の動き。

 が、その刃がひらめく直前に叱咤した。


「死ぬことだって許さない」


 絶望は時に無感情に似ている。彼女は人形のように見えた。

 微笑みかける。私の生きてきたすべての偽りを必要とした。


「あなたのことを話して」


 彼女は躊躇(ちゅうちょ)した。悪意の器である私たちは言い訳を好まない。おのれの浅ましさを言い連ねて憐憫(れんびん)を買うくらいなら命など惜しくはない。が、あえて求めた。


 観念したように彼女はうつむき、しばらく言葉をためらった。それを強いる。


「…………ご存知のように私は、按察使大納言(あぜちだいなごん)の娘です」


 語り始めた彼女の自嘲の苦味。張り裂けそうなものを抑えた感情。


「私は入内(じゅだい)を前提に育ちました。あるはずもないことなのに、父は中宮(ちゅうぐう)となることさえ考慮にいれて幼い頃から漢籍(かんせき)まで学ばせました。その頃の私の母は、彼の一の人として扱われていました」


 突然、境遇は変化した。大納言は彼女の母よりも血筋のよい女を手に入れた。それは夕霧の正妻である雲居(くもい)(かり)の母君だった。

 按察使の母は周りが自然と認めていたその地位を失った。


「父は当然新しい正妻の、血のつながらない娘も得たと考えました。太政大臣(だじょうだいじん)の孫であるその姫はいっそう入内に有利です。私は見捨てられました。ところが……」


 資産たる娘を失うことを惜しんだ雲井の雁の父は彼女をその母から引き剥がし、自分の母たる大宮に預けた。あてが外れた大納言は再び按察使に光をあてた。


「もちろん素直に従いました。頃合の年になるまでは。そして父の奔走を尻目に、男を引き入れました」


 大納言は激怒したがどうにもならない。入内は流れた。せめて五節の舞姫として上がる予定も、色好みとしての噂が流れかけていたので別の脇腹の娘が立つことになった。


 按察使は色事自体を気に入り、いくつもの恋を重ねていった。


「今つき合っている源の中将は人柄も家柄もよく、それなりに気の合う相手です。けれどその思考も存在も、飢えた私を満たしてはくれない。けれど時たま遊ぶ娘たちは、情こそ満たすがその知性は私を孤独に陥らせる。お話を受けてあなたに仕えることになった時もまったく期待していませんでした。が、宮さまは他とは違う存在でした」


 彼女は語ることをやめた。私もそれ以上は促さなかった。


「…………出家をお許しください」

「いいえ」


 首を横に振った。寒さに啼くうさぎのように彼女は震える。


「言葉は変えないわ。そのことも死ぬことも許さない。恋人と別れることだって許可しない。いつかはその人を夫として迎えるがいいわ。このうつし世で、普通の娘たちと同じように生きていくことがあなたの罰」


 按察使のすべらかな頬を涙が伝う。その意味は問わない。

 宙を見上げた。あやめは優しい娘だった。それ以上のことは望まないだろう。


「宮さまはこの後どうなさるつもりですか」


 先ほどの無表情とは違った表情のなさ、感情をどこかに閉じ込めた顔で按察使が尋ねた。


「三条に父から譲られる邸があるの。そこに移ることになるでしょうね」


 そこで経を読み、たまに訪れるはずの源氏にささやかに仕掛ける。


「お供させてはいただけないでしょうか」


 胸のうちの葛藤を外には出さない。私は彼女を許すことができるだろうか。

 自分の指で自分の髪に触れる。長めに残されているがそれでも以前よりは短い。そのせいで少し身が軽い。


 許さなくてもいいのだろう。完全に、許したように振舞えば。いつかは本当に許すことができるかもしれない。


「もちろん。これからも傍にいて手伝ってくれる?」


 按察使は深々と頭を下げた。


「仰せのままに」


 そして片頬を歪めた。それでこそ私の悪意の同胞。鏡に見出す相憐れむべき形影。


 彼女が御帳台の外に出ると、気をもんでいた兵衛が泣き言を述べる。按察使は落ち着いた声で自分の乳母子(めのとご)をなだめ始めた。



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