31.疑惑
人の誕生は人の死に似ている。どちらも穢れとされて日常から遠ざけられ僧侶を肥やす。周りの者に喜びや嘆きなど強すぎる感情をもたらすことも同じだ。
脳裏のうちは活発に動く私でも、その身体をほとんど使う必要のないことは他の女君と同じだ。そのためか出産はえらく辛かった。
この時ばかりは明石の女御を尊敬した。私とさして変わらぬ体格であのように何人も子を産めるとはうらやましいほどの健やかさだ。
前日の暮れより苦しみぬいて、朝日の射す頃にようやく生まれた。男の子だった。
息をすることすら辛くて、放心したように横たわる。薬湯さえ口にできなかった。
このまま、死んでしまえたらいいのに。
苦しみの最中もそして今も、自分らしくない考えが浮かぶ。
肉体の辛さが心まで支配するなんてあまりに安易だ。
それに、どうせ私は地獄に行く。あやめには会えない。
その上今死んだら源氏が喜ぶ。さめざめと泣いて見せながら安堵のため息をつく彼を想像した。
癪に障る。誰が死んでなどやるものか。
私は生きる。たとえ人が死んだとしても生き抜いてやる。
浅ましかろうが情けなかろうが、生き残って笑ってやる。
それが源氏に対する最大の嫌がらせだ。
胸元に手を当てて守り袋を掴んだ。もう、彼女の匂いの消えたただの布切れ。それでも私に唯一残された宝物だ。その袋から微かなぬくもりを感じるような気がする。
わずかなあやめの気配。それだけを頼りにこの世に残る。悪意の主にふさわしい凄惨な道筋だ。
産養いの儀式は盛大に行われた。その祝いの品も各方面から、競うように積み上げられた。けれど宴につきものの楽の遊びなどはなかった。
源氏は人目をつくろっているが「まだ生まれたばかりなので」と近寄りもしない。
年老いた女房などは「なんと冷たくていらっしゃるのでしょう。こんなにゆゆしいまでに愛らしい御子なのに」とつぶやいていた。
泣き声は隣の女御の部屋から響くのを聞いたことがあるが、赤子など見たことがないので戸惑った。
この妙な生き物は愛らしいのだろうか。人気がない折りに近づいて、それの寝姿をしげしげと見つめる。
するとふいに目を開いた。驚く私に向かって、不思議なことににっこりと笑った。
この赤子はただの必然。私にとって道具に過ぎない。
なのに、なぜ笑う。名ばかりの母になぜその手を伸ばす。
私は恐怖を覚えて人を呼んだ。乳母より早く中納言が控えた。
彼女は意外になれた手つきで赤子を抱き上げこちらを見た。
「お抱きになりますか」
「怖いわ」
「猫と大して変わりがありません」
恐る恐る受け取ると確かにそんなぬくもり、そんな重さ。けれど妙に心を揺らす。
まだ見えてないと聞くけれど確かに私を見てにこにこする。
身を起こすことはまだ辛くて、現れた乳母にすぐに渡した。
ひどく疲れた。そのまますぐに眠りに落ちた。
源氏は泊まることもなく、昼などにわずかに訪れる。そして心のこもらぬ挨拶を口にする。
「うつし世のはかなさを思うにつけ、老い先短い身としては勤行に明け暮れております。こちらは何かと騒がしい様子なのでお伺いし難くなっておりますが、いかがですか。ご気分は晴れましたでしょうか。お気の毒に思っております」
上っ面だけの態度を見ているうちに新たな悪意が沸き起こった。
瞬時に図が浮かぶ。彼が特に心を傷つける二つのことが明瞭に提示される。
香木の枕から頭を上げ、彼を真っ向から見つめはっきりとした声で告げた。
「この様子では生き残ることはできない気がします。産で身まかる者は罪が重いということですので、尼となり後生(来世)を償おうと思います」
驚いた源氏があわてて止める。
「なんと不吉なことを。亡くなるはずがありませんよ」
内心、それも悪くはないとの考えがかすめたはずだ。けれどそうなると人の口のそしりを止められない。
だけどこのままの状態であったとしても、内親王に対する配慮のなさがそのうち噂となる。そしてそれは兄や父の元へ届く。責められるのは源氏だ。
私にその罪を負わせるためには奪われた事実も晒す必要があり、それは見栄っ張りな源氏には取れない手段だ。
さらに柏木の重病の理由も囁かれるはずだ。帝の寵もあり重い病の者は責めにくい。噂は源氏に得なようには流れぬはずだ。
人の評判と仏への道心。この二つが何よりも有効だ。それを使って悪意で源氏を包囲する。
そのためならこの意味のない私自身、仏にだってくれてやる。
無邪気な赤子の笑顔でさえ止められない。
「気を強くお持ちください。命が危なかった二条院の者だって治ったように、いくらでも平癒の例はあるのです」
急に親切に薬湯などの世話を始めた。
見ていて実に面白い。たとえ産褥に伏していようとも、わが心の内は充分に自由だった。
常に横たわって身を安らえていると音に敏感になる。
普段なら北の孫廂の声など届かないのだが、この日は妙にはっきりと聞こえた。
女童の幼い声に、蔑視の強さが混じっている。
「見える所にいないでよっ。汚いっ」
謝罪の声が隠れるほど高い声が相手を否定する。
「二度と目の前に出てこないでっ」
たぶん、不浄なものを抱えた樋洗し童(トイレ掃除係の子ども)に出くわしたのだろう。怒った様子のままの幼い足音が廂の中に入ってくる。
私が身体を起こすと按察使が支える。近くにいた少納言に命じてその子を呼んだ。
緊張で顔をこわばらせる少女に微笑みかけた。こんな私でも仕えるべき主だ。
腕を伸ばしてまだ伸びきっていない髪を撫でてやった。童女の顔が赤くなる。上気したその子に話しかけた。
「…………優しくされると嬉しい?」
声も出さずにこくん、こくんとうなずく。出会った頃のあやめと同じ年頃だ。
少しも似たところなどない顔立ちだがそれでも彼女を思い出す。私は偽り以上にやわらかな声を出した。
「先ほどの子もきっとそうよ」
樋洗し童など人とは思っていなかった女童はしばらく考え、それから耳まで赤くした。
私はもう一度微笑み、その手を取って自分の手で包んだ。
「ここは他の御殿と違って仕事の後なら好きな遊びごとを楽しんでもいいし、遠慮して静かに暮らさなくてもいいわ。だけど、下の立場の者に辛くあたってはだめ。それだけは約束してね」
先ほどよりも強く少女はうなずいた。手を離し、菓子を与えて下がらせた。
もちろん、立ち向かうなら自分より立場の強い相手の方が面白いとの意見は語らず胸に秘めた。
あやめが幼かった頃に、誰かこうして周りを止めてくれる者がいたらよかったのに。
あの時まだ私は、そんな力を持っていなかった。小侍従はともかく乳母たちから彼女を守ることはできなかった。
今の私ならもう少しは上手く立ち回れるのに。
胸の奥がひどく痛む。時はさかのぼれない。辛すぎる真実。もう二度と彼女は戻らない。
だから源氏が憎い。罪を元手に平然と高すぎる位置にあって人を省みることのない彼がひどく憎い。
持て余すほどの女を手にしながら、私の唯一の光まで奪い去ったあの男をもっと思う様に傷つけてやりたい。
女君も召人(情人)も過剰なほどいるではないか。あの、無力なあやめにまで手をつける必要などまるでない。
臓腑を灼くような怒りがこみ上げてきて苦しい。が、その怒りに冷たい色合いの糸が通る。私はその糸をたどりながら考える。
冷たい北廂。几帳さえ与えられずに横たわっていた彼女。頬を伝う清らかな涙。あの夜の彼女の言葉。
『……あの方が漢籍を探して塗籠(壁に囲まれた部屋。倉庫としても使う)に入られた時、紙燭(平安ライト)を持つことを命じられたのです』
灼かれていたはずの臓腑が凍りつく。野分(台風、大風)が木の葉を撒き散らすように、過去の記憶が脳裏に広がる。私はゆっくりと視線を部屋の隅に移す。
そこに、蒔絵の唐櫃。父の用意した格のある調度。漢籍を満たした私の用具。
「お疲れではありませんか」
身体を支える按察使の声が甘く響く。私は何心なく見えるように微笑んで答えた。
「少し。しばらく休むから下がっていいわ」
彼女は優しく私を横たえ、衾(平安布団)を肩まで掛けてくれた。
私の漢籍について知る者は按察使と中納言の二人だけだ。源氏が知る分は唐櫃に入っていたものだ。わざわざ塗籠の中を探しに行くにはそれを知らせた者がいる。浮薄な私の蝶たちは、そんなものに興味を示さない。
まずは中納言について考えた。
初めて彼女に会った時、去り際の動きで几帳が揺れたことを覚えている。けれどそれ以後に知った彼女の動きは音もなく静かだ。
あの時、表情には微塵も出てはいなかったが彼女はその妹のことでひどく激していた。つまり中納言は妹を大変にいとおしんでいてそこに嘘は欠片もない。
だから、その妹の品を貸し与えたあやめに悪意を持っていたとは思えない。
さらに言えばもう一度彼女が音を立てて現れたことがある。あやめの死を告げた時だ。
もし際立った頭脳の持ち主である彼女があやめを追い込んだのなら、もっと慎重に行動して足音など立てないだろう。
裏切りの針が胸を刺し貫く。それは按察使以外ありえない。
たぶん、あやめに紙燭を持たせて源氏と共に塗籠に入らせたことも彼女の指示だ。
どくどくと心から生温かい血が流れすぐにそれが凍りついていく。
軋んだ音を立てて私のどこかが壊れていく。
対応を間違わなければあやめは失われることはなかった。
ひどく単純なその事実が私を傷つける。
なのに、殺意が沸く。心の中はどこもかしこも悪意の極みに陥っている。
いや、それは逃避に過ぎない。按察使ひとりにおのれの咎を押し付けている。
私は知っていたはずだ。飢えて乾いた色合いの按察使の眸。彼女の中の獣。
けれど許せない。罪一つ持たなかったあやめは、悪意の祭壇に供えられた贄だ。
私はもう、彼女に何もしてあげられない。
部屋のすべてが紅く染まる。
自分の意識から逃げたい。理性など失くしてしまいたい。
帰りたい。あやめと父のいたあの頃の朱雀院へ。
抑え切れなくて、様子をうかがいに来た中納言につぶやいてしまった。
「長くお会いしなかった時よりもお父さまが恋しいの。もう無理な話だけれど」
その言葉は、すぐに父に伝えられた。
死にたいとは思わなかった。その意思はすでに放棄した。だが、しょせん私は小娘で、意外なほど按察使に依存していたらしい。
皮肉な笑いで口もとが歪む。彼女とは、中納言以上に書の趣味が合った。互いに気に入りの一つの韓非子に、君主は人を信じてはならないと、そして好悪の情を見せてはならないと書いてあるではないか。怠ったのは私の罪だ。
しかも私は充分に彼女を傷つけている。それでもあやめを思うと切なさが火打ちの石と変わり、怒りの松明に火を点ける。
胸もとの守り袋からみちのく紙を取り出して眺める。
偽りの手蹟のまがいものの経文。けれど末期の彼女を慰めたただ一つの書。
すでに私は知っている。必然の道は敷かれている。後はそこを歩くだけだ。




