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今日の源氏は一段と顔色が冴えない。普段よりも辛く私にあたり、いらだった様子で説教を重ね、かなり早めに二条院に戻った。
理由はわかっている。朧月夜の君が出家したのだ。
柏木とのことが成り立った後この方にだけは報告するべきだろうと思い、ていねいに作らせた藤の花の心葉を名のらずに届けさせた。すぐに彼女は私であることに気づき、返しを持たせてくれた。
何も書かれていない鈍色の薄様。それを見て彼女の決意を知った。
やがて、出家を実行したことを手の者が伝えた。特に人に告げようとはせず、彼女は世を捨てた。
かねてからの悲願であると言っているくせに、源氏にそのつもりはない。彼にとっては浅い心しか持たぬはずの者たちに先を越されていく。
「当然、私のことを真っ先に祈ってくれますよね」そう書かれた源氏の文に彼女は答えた。
「みんなといっしょになら祈るわ。明石の浦で釣りまでしたのに、どうして尼舟に遅れちゃったの?」
手の者から私のもとに運ばれた朧月夜の文は、墨つきも鮮やかで美しい手蹟(筆跡)だった。独特の癖はあるけれど、それさえも彼女を思わせて魅力がある。気づかれる前に源氏の元へ戻さなければならなかったけれど、しばし見とれた。
彼に届く主要な文は、隙さえあれば過去のものさえ運ばれてくる。その中でもこれは特に私の心を惹いた。字の上手な六条の御息所や紫の上にも劣らぬ風情だった。そしてその潔さもあの方の本質を見事に表していた。
父の言ったように、彼女は自分が捧げるにふさわしいものを仏に捧げて、何一つ迷わずにその道に入った。
散華の花びらが美しくこぼれるように降りそそぐはずだ。私は心の底で、価値ある生き方をしたその方に別れを告げた。
朧月夜の出家を聞いて、きっと父は微笑んだと思う。
彼は秋好む中宮に惹かれ、私の母をいとおしみ、朧月夜を愛した。そしてその誰も傍にはいないのに勤行に励んでいる。
文こそ届くがその心はわからない。耳に残る彼の声。遠い面影。
今も私のことを思ってくれているのだろうか。そう考えて不安定な自分に気づく。
父への賀はいまだ行われない。そのことを彼が不満に思うことはないだろう。しかし不審の念は持つはずだ。
劣る立場に嫁いだ姉宮が、華々しい位置の男の妻に先んずる。このことにより父は何かを悟ったのだと思う。伝え聞く噂、手駒からもたらされる情報、すべてを合わせてかなりのところまで読み取ったはずだ。
そうして、源氏をいらだたせそうな文を送ってくれた。幼い頃、読みたがった漢籍を充分に与えてくれた時のように。
一言も源氏を責めず、嫁いだ娘に訓戒を施す。その形を取りながら、出家した上皇たる自分が心を傾ける相手はただ私のみであることを示す文。
人の気づかぬ聡さを持つ父は、源氏を傷つけることも巧みだった。
やってきてその文を勝手に手に取った彼は顔色を変えた。
「お返しをどうするつもりです。このように過剰な配慮をされるこちらこそ苦しめられていますね。いったい誰が心配すべきことがあると院に伝えたのでしょうか。人が見咎めるほどの事を行ったことはないのですがね。私の方が心外です」
確かに人前での取り繕いは上手い。吐き気がするほどに。
舌打ちでもしてやりたい気分を押さえ込み、彼の叱責に傷つき沈み込んでいるように、悲しげにも恥ずかしげにも見えるように身をそむける。その姿がいっそうこの男を煽り立てるとわかっている。
「院をご心配させたくなくて抑えていますが、すべてはあなたの幼すぎるご気性のせいです。このようなことは申し上げたくはないのですが、他に告げるわけにも行かずわが身の証を立てることもできず、ただ黙して呑み込むことはあまりに私には辛すぎるのです。思慮のないあなたのお心では私など愚かしく浅はかだとお思いで、年老いてしまった様なども馬鹿にしていらっしゃるのでしょうね。口惜しくも悲しくも思います。けれど院がご存命のうちは、彼の方の思し召しだとお耐えになってこの年寄りを貶めなさるな。遠い昔から私は仏の道を志していたのですが浅い道心の女たちに先を越され、それでもなお出家できないのは院にあなたを託されたためなのですよ。他に気がかりな方々は今はほだしとはならない。わが娘の女御でさえ幾人もの子を産みとりあえずは安泰ですし、あなた以外の妻たちは共に世を捨てても惜しくない年ですしね。院のご寿命も先が長いとは思えません。お体の具合も悪く心細げにしていらっしゃるのに、さらにあなたがお心をお乱しになったとしたら、ああ恐ろしい。後の世さえもお迷いになるのではないでしょうか」
小侍従並みの長台詞にうんざりする。その上すべてが無礼に過ぎて一つ一つにこだわることさえ愚かしい。大体妊娠中の女性に向けての脅迫にしては度が過ぎる。
とりあえずさめざめと泣きながら、それでも狙った的を貫いたことには満足した。
激昂のあまり源氏はついに自らも涙ぐんだ。
「まったく、年は取りたくないものよ。人に見てさえいとわしかった様をこの私が晒すとは。さぞやあなたは不快な老人だと思うことでしょうね」
おまえが老いたことを見下げてはいない。それを口実に人をなぶることを見下げている。
出家に至らぬことを軽蔑はしない。深い道心とやらの自分と比べて、他者を貶めることを軽蔑する。
硯を引き寄せ、無理やり私に文への返事を書かせる。手を震わせて脅えきった様子を見せても容赦せず、言葉の一つ一つを口にして思い通りにさせようとする。従いながら心の奥で思った。
男よ、この私を侮るがいい。それは自らに突きつけた刃だ。
「霜月は私の忌月となります。そうでなくともあなたの姉上の見事な賀の後に、その病み疲れた姿を見せるわけにもいきますまい。師走の暮れに至らぬうちには何とか賀を行いましょう。それ以上お悩みなさらずに身をつくろってください」
引き際にだけわずかに視線をやわらげなめるように私を見たが、これだけ罵倒し脅しておいてくつろげると思えるのなら阿呆だ。
父のための賀の支度も押し迫り、試楽の日が訪れた。いまだ二条院より戻らぬ紫の上もこのために姿を見せた。
皇子を産んだばかりの明石の女御も六条院に帰り、玉鬘さえ現れた。ただ、花散里だけは充分に練習を見たからと夏の町から出なかった。
夕霧はもちろん舞いや楽を整えることに忙しい。そこに、件の男の影が射す。
病と言い立てる柏木は訪問を避けたかったらしい。しかし彼の父たる致仕の大臣はそれを許さず源氏のもとに行かせた。
迎えた源氏は今までと同じくこの男を御簾内に入れた。打ち解けた様子で話しかけ、賀の仕上げを依頼した。
青ざめたまま柏木はそれを承諾し、絶えた訪れの言い訳をしつつ朱雀院の真意を推察した。
それは確かに父の意に適っていた。言葉を伝え聞いて、初めて柏木を評価した。
彼は賀の仰々しさを取り払い、静かに父と私を対面させることを勧めてくれた。
趣味のことでは柏木は夕霧よりよほど洗練を見せる。同様に際を超えた域の父の好みを上手く捉えることができた。
そのことは源氏も認め、楽を奏する者や舞人の装束などの彼の趣向を取り入れた。
青白橡(コウジカビのようなくすんだ青緑、と書かれていますが色見本を見ると薄めたカーキ色に見えますね)に蘇芳襲(青みのある赤のかさね)の装束の童が、冷えた空気の中で懸命に舞い踊る。
釣殿に続いた廊を楽所として、白襲に身を包んだ伶人(楽人)が音をつづる。
賀の当日はこの童たちは赤白橡(少し赤みがかかった黄色。濃い肌色っぽい)の装束を着るらしい。だから今日の衣装は試楽のためだけのもので、ただ物見の目を楽しませるために用意された。
幼い子どもの舞はあどけなくて悪くないが、体の重い私は見ているうちに調子を崩した。
そのままそれを隠していると、按察使が気づいて肩を支えて奥に連れて行った。
御簾越しに宴の様子をうかがうつもりだったが素直に従った。これ以上賀が延びても困る。彼女にもたれたまま眠ってしまったので、その後のことは知らなかった。
もし私がその場にいたら止められたかもしれない。あるいは柏木の不安をすくい上げてやることもできたかもしれない。けれどそれは無意味な仮定だ。
私は自分が傷つけられることを求めた。けれど柏木がその範疇にあるとは考えなかった。彼の身分、立場によって充分にそれを避けられると判断したからだ。
源氏の嫌味を受けるとしても、私が日常的に受ける待遇よりもよほど些少な扱いであると想像した。
それは間違いではなかった。ただ、柏木は私の予想よりひどく脆弱な男だった。
宴で何があったというほどのことではない。源氏は戯れに見せかけて柏木に杯を重ねさせた。
その際、逆さまにいかぬ年月の流れを嘆いて見せた。私の経験からの想像だが、同時に凄みのある視線で彼をねめつけたに違いない。
だが、それだけだ。受け流せばすむ話だ。内裏に行くことさえまれな源氏から遠ざかることはたやすい。
なのに柏木はそのままひどく病みつき、その母の懇願により妻の二の宮の元さえ離れて致仕の大臣の邸に身を移した。命さえ危ないらしい。
敗北の苦い味が胸に広がる。この私への執着よりも源氏への恐れの方が強いのか。そして、事が露見した程度であきらめきれる思いなのかと。
重臣である柏木の重病により、父の賀はさらに伸びた。しかしさすがに日がなく、年の暮れに差し掛かる師走の二十五日にようやく行われた。人にそしられぬほどの華やかさだった。
久しぶりに会う父はやつれた私に驚きもせず、昔と変わらぬ優美な微笑を見せた。
ーーーーそろそろ助け出してあげようか
視線が確かにそう語る。私は苦笑してわずかに首を横に振った。
ーーーーこれでも楽しんでいるのよ
自分で始めた遊戯から逃げるつもりはない。それに、得たものがないわけでもない。
用意させた琴の琴を微かに奏でた。ほんの一節。それだけで父は理解した。
私の心。私の闇。短かった恋の時めき。失わざるを得なかった大事なもの。
私の意志。私の覇気。悲しみ。水晶のように凍りついたままの感情。
すべてが混沌と音に溶け込み、嫋々と薄闇の中に消えていった。
傍らの源氏がこちらを凝視したが、体調を理由にそれ以上は奏でなかった。
私を心底見くびるこの男は、奥深い音は偶然の生み出したものと自分を納得させたようだ。
誦経の重々しい響きがすべてを呑みこむ。父のために五十の寺で誦経されているが、特にこの山の寺で行われるものが手厚い。
仏をたたえるその声音がかがり火さえ揺らして荘厳な響きで辺りを包む。
偉大なる大日如来は人の用意した供物を拒みもせず受け入れもせず、ただ形代の仏像のみをその場に置いていた。
その日の私は無意味な形骸だと思っただけだった。




