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退位した帝の住む仙洞御所は、高貴の墓場ともいえる場所だ。それはもちろんこの朱雀院でも変わらない。殿上人も伺候(参上)し女房たちも選ばれた者たちが仕えているが、現在の帝のいる御所の熱気はない。
すべきことも少ない。九重(皇居)では国を憂い民のために祈るため数々の儀式を執り行わねばならないが、この場では義務としてのそれは多くはない。季節の移りを忘れぬための行事があるだけだ。
そのためか、どこか虚を抱くような者が多い。品はよいが生気に乏しく、無表情に日々を過ごしている。女童でさえそれから逃れられない。私はそんな場所で育った。
里方ではぐくまれた兄弟たちはこの虚を持たないが、院の中ではありふれている。長く住む女たちの誰もが護符のように身に着けた空虚さを微塵も寄せ付けないのは、私の祖母である大后(元弘徽殿の女御)と、その妹で朧月夜と呼ばれる尚侍だけだった。
今は大后はいない。狷介孤高な彼の方は静かに世を去った。
その方を失っても父の朧月夜への寵愛は揺るがなかった。しかしそれでも、世を捨てて出家することを決意した彼の心を変えることはできなかった。
私にはわからない。全てをあいまいにする薄絹のような虚によって守られ、それを楽しみ、全ての現実から遠ざかっていた父が何故にそこから逃れようとするのか。法衣をまとい髪を剃り経を唱えるとしても、そこに何かが見出せようとは思えなかった。
寺といえども墓場よりはなまなましい浮き世があるだけだ。疑問を口にすると「業が深いからね」と彼は答えた。
世の中のすべては移り変わる。ここだけは変わらず雅やかに澱み続けるはずだったけれど。私は身の振り方を決めなければならない。
前帝の鍾愛の娘である私に、あまたの求婚の文が舞い込み始めた。人を払った寝殿の奥で父と共にそれを眺めた。
青磁の色の薄様に記されたものは蛍兵部卿(兵部卿は|親王《しんのう》の職の一つ。この話では彼は桐壺帝の三男)の宮の文だ。さすがに趣味人とされるだけあって艶な手蹟(筆跡)だが、気取りすぎだ。
ことさら細やかに折られた紫苑の色のそれは、以前内大臣でこの秋からは太政大臣となった方(大昔は頭中将)の息子、柏木。これはなかなか立派な字だ。生真面目な書き振りの文は、求婚と共に私の家司(家政を司る職)の仕事も望む大納言のものだ。他にもいろいろある。
どれもつまらなかった。それでも父は私の意向を尋ねた。
「それなら源氏の息子の夕霧はどうだね。その父君と違ってまじめな青年だ」
「あの方は、長らく思っていらっしゃった太政大臣の脇腹の娘(正妻以外から生まれた子)と結ばれて、水も漏らさぬ仲とか」
彼女の母君は大臣とは別れている。その後に按察使大納言と再婚したため、雲居の雁と呼ばれるその方は父方の祖母である大宮に引き取られたそうだ。夕霧もそこで育ったため、二人は幼いころから親しかった。当然の帰結だ。
「耳が早いね」
最近病がちな父は少し面やつれしている。人としての気配がわずかに希薄になったその様子は、なるほど出家にふさわしいのかもしれない。
「だからあの方を考慮する気はないわ」
それだけが理由ではない。彼に嫁ぐと、雲居の雁の父である太政大臣が私の父に不信感を持ちかねない。それは避けたかった。
脇息(ひじ掛け)に寄りかかった父は、語らぬ言葉を含んだ瞳で私を見つめる。気づいているのかもしれない。
「いっそ帝に入内するかね。君なら誰よりも時めいて見せるだろう」
私は肩をすくめた。そんな簡単なことなど気をそそらない。
「…………あんな下っぱ」
父はつい噴き出した。
「天下の帝、しかも賢く人柄もよく美しいと評判の方にそんなことを言うのは君だけだよ」
「綺麗なだけのただのお飾り。源氏の傀儡(あやつり人形)だわ」
奇妙なほど帝はあの男におもねっている。今年の秋に準太政太政天皇というこれまでは前例のない地位さえ与えた。度が過ぎていると思う。その財源は、わが父がその祖父の時代の治世の歪みを正すため、中宮を置かずに調整した分を使ったらしい。
「それではどうしたものかな。私がこうしてあるうちの方が有利に事を進められるよ」
髪を下ろした後はすべての執着、全ての縁を絶たねばならない。とはいっても完全に見捨てられるわけではないけれど、父の他に有力な後見(お世話係)を持たない私にはなかなか深刻な事態のようだ。
考えた。ただ安泰な人生を送るのみならば、どれを選んでも変わりがない。相手にそつなく合わせることなどたやすい。けれど私の中の悪意は、そんな生易しい道を選ばせてはくれない。
御簾越しの外を眺めた。廂や孫廂の先に遠く、人の手によって整えられた庭がある。白砂に散りかかるあでやかな紅葉。変わらぬ五葉の松。葉を失った寒々しい桜の古木。じかに触れることなどけしてない、薄い帳をまとった前栽(植え込み)。
目の前にあっても鳳凰や麒麟のように架空の存在と変わらない世界。
「………………決めたわ」
趣深く虚構めいたそこを見つめたまま父に告げた。
「あの男の所へ嫁ぐわ」
彼は驚いた。
「あの男って、まさか源氏かね」
「もちろん」
きっぱりと言い放ち父を見据える。
「六条院へ行きます。手を打ってね、お父さま」
「君は彼が嫌いなのではなかったかな」
「その通りよ。だから行くわ。止めたって無駄よ」
承諾のみを待つ決断を父に突きつけた。あきれたような、面白がるような父の顔。虚のかわりに悪意を秘める私は、姿かたちだけはあどけない内親王(認定された皇女)だ。慣れた墓場から追われる代償として、人が中空にある陽のように思う存在をただ消閑の具として欲した。
長い沈黙の末に彼は答えた。見慣れたあの苦い微笑み。
「そうだね。あの瑕のない珠に皹を入れてみるのも楽しそうだ。どんな顔をするやら。さらに光るもよし、砕けてしまうもよし」
なかなか手ごわい瞳をなさる。彼もまた、愛のあまりに他のすべてを顧みなかった桐壺帝の末裔。やわらかな中に氷の破片も抱いている。
「それも一興。何とか話を通してみよう。彼自身も最初の正妻は愛情深い相手ではなかったことだし、あなたがそれを選ぶのなら否定はしないよ」
私の意志はそのまま受け止められた。父は言葉をたがえないだろう。人が動き出す。時が流れる。周りの者の思惑に乗せられるように見せかけて、私たちは人を操る。東宮さえ駒として使役する。
はかりごとはなかなか、高貴にふさわしい遊びだった。
次は週末予定