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 充分に休んだ。目を覚ますと源氏はすでに着替えを終えている。取り繕ってはいるが青い顔に、胸のうちが染み出ている。

 久しぶりに気が晴れた。何も気づかぬ風に送り出した。


 源氏の姿が消えるやいなや、取り乱した様子の小侍従(こじじゅう)が駆け寄ってきた。


「昨日の文はどうなさいましたかっ。今朝、殿がご覧になってらっしゃったものが同じ色でしたが!」


 面倒なので涙ぐんで見せる。それが一番手軽なやり方だ。彼女は苛立ちを抑えてぐいぐいと詰め寄ってくる。


「どちらにお置きになったのですか。あの時は他の者が参ったのでわけあり顔にいるのもまずいと下がりましたのに。それほど私は気をつかっていたのですよ。殿が戻るまで少しは間があったので、当然お隠しになる暇はございました」


 あまりのあつかましさに少し感心する。押し付けて逃げただけではないか。


「いいえ、見ている時に殿がいらっしゃったので急には隠しきれなくて、(しとね)の下に隠したことを忘れていたの」


 もちろんそこに文はない。小侍従はぜえぜえとしばらく息を吐いた。


「なんということを……彼の君も殿のことはあんなにおびえて用心なさっていたのに、まったくご配慮がない。それに、もともと宮さまがたしなみなく姿を見せてしまったせいです。そのせいで私はどれほど長い間恨みごとを言われ続けたと思うのですか。しかもお話だけのはずがこのような仲にまでおなりになるとは。お困りになるのは宮さまですからね!」


 柏木の口は止めてあるので、この女は私の真実の姿は知らない。怒ることもできぬ気の弱い姫宮だと思って言い募る。この理不尽なもの言いにさすがに言い返そうかと目を向けて、その眸に含まれる色に気づいた。


 恐れではなく痛み。この浅い気性の娘らしからぬ深い傷。

 怒りにまかせて罪を押しつけ、それでもなお癒えぬ乾いた心。

 そこに深い恨みがある。人として扱われぬ者が人を乞う悲しさ。


 小侍従は柏木に恋をしていたのだ。そうでなければ、責められながらも彼のもとに通うわけがない。

 目的のために甘言はこぼしても、ひとかけらも本心など与えぬ権高な男に心を向けていた。


 私とあの男のことが続いているうちはよかった。彼女は私に自分を仮託(かたく)して、その恋を成就させていたのだ。それが形骸でしかないことに気づくような娘ではない。彼女にとって私は自分だったのだ。


 内親王(ないしんのう)形代(かたしろ)にする恋とは、なかなか贅沢なものだ。

 苦い笑いが胸に広がるが、同時に柏木にはまったく感じなかった哀れみも溢れてくる。

 形代に過ぎない女は悲しい。しかし道具でしかない女はもっと悲しい。


 彼女は言葉でなぶるように責め立てる。私はうつむいて涙を見せながらそれを許した。

 様子に気づいた中納言(ちゅうなごん)が近寄ってくるまでそれは続いた。

 無表情な彼女が顔色を変えたので、あわてて下がっていく小侍従には見えない位置で首を横に振った。

 恋に破れた哀れな娘に追い討ちをかけるほど悪趣味にはなれなかった。



 懐妊し体調を崩した私に父や兄から見舞いの文が届くが、源氏は姿を現さない。

 事情を知らぬ女房たちは不満げな表情を隠さない。


 私は食をかなりの程度拒否した。もともと無理に取っていたので、かえって楽になった。けれど女房たちが強く勧める。


 薄い紫の(あこめ)白襲(しらがさね)汗衫(かざみ)を着た女童(めのわらわ)が、新しい(しろがね)の器に削った氷を入れ甘葛(あまずら)をかけたものを運んでくる。按察使(あぜち)の指示だ。

 口にすると冷たくてほんのりと甘い。久々に残さず食べることができた。


「果実なども召し上がりませんか」


 兵衛(ひょうえ)が誘いかけると少納言(しょうなごん)も口を挟む。


内裏(だいり)の方から見事な桃が届いておりますよ」

「あなたたちで食べていいわ。この子たちにも分けてね」


 器を下げようとする女童を見つめて言うと、真っ赤になってぴょん、と頭を下げた。

 いつもなら小侍従がすかさず割り込む頃合だが、(ひさし)の端に座り込んで固く口を閉ざしている、様子からしてきっと柏木に事の次第を知らせたのだろう。

 暗い顔が不似合いで、少しだけ胸が痛んだ。



 大勢の殿上人(てんじょうびと)を従えて、派手な行列が帰って来る。奥まったこの部屋でも前駆(さき)の声がうるさいほどだ。


 春の町の寝殿(しんでん)に降り立った源氏は、簀子(すのこ)高欄(こうらん)の下に群がる人々に「久々に戻ったので、ゆっくりと挨拶をしたい方がいる」と、その者たちを追い払った。彼らはわけしり顔ににやつきながら六条院を去った。


 女房にさえ愛想を切らさずにいる様はなかなか見事なものだった。

 それでこそ、光源氏。狙うにふさわしい敵。肉を捕らえ肉を喰らう、賢くずるい大きな獣。


「しばらくお会いしない間にだいぶお痩せになりましたね。何ごとがあったのかと不安になってしまいますよ。ご心配をおかけしましたがあちらも調子を取り戻したようなので、こちらに目を配る暇ができそうです」


 他者には見えぬ角度でねめつけるような視線を向けてくる。真夏の空気をひどく冷やす、激寒の時期の氷によく似たまなざし。

 私はおびえて見せる。それしかできぬ幼い少女のように。


祈祷(きとう)などの配慮もされていないようですね。すぐに手配します。きっと罪をはらって身が軽くなることでしょう。いや、失礼。宮には罪など何一つおありになりませんね」


 おまえですら感じていない罪など、あるわけがないではないか。けれど私はそのような事情など知るはずもない立場だ。

 ひたすら心を悩ませ宿命を嘆く姫宮を演じながら、そこに今まではなかった毒のような艶を滲ませる。


 吐き気がおさまり、気分はいくらか落ち着いている。身体の線がわずかにやわらかくなったような気がする。それを感じさせる薄物をまとい、憂いを含んだ眸で許しを請うように見つめ返す。無残に傷つけられた内親王(ないしんのう)


 男が嗜虐(しぎゃく)の心を持たぬわけがない。やつれ果てて痛々しい姿は、その(くら)い心をひどく煽るはずだ。


 私は見たい。この男が欲望に負けてそこに堕ちる姿を。そのために(とが)なくして罪に堕ちたこの姿を選んだ。

 恋もなく、悪意もなく、罠に捕らわれた憐れな女。そんな相手をどのように扱うかが無性に知りたい。

 そしてそれは予想通りだった。


 人前ではむしろ今まで以上に丁寧に接する。事に気づかぬ女房などは「お子ができてやっとふさわしい扱いをお受けになることができた」などと涙ぐんだほどだ。


 しかし人目の途切れたときには酷薄としかいえない視線をあて、事情をほのめかす言葉を口にする。さらに何事もなかったように振舞うことを強要する。時には他者と比べていかに劣った存在か、それなのにその身分によっていかに不相応なかしづきを受けているかをあてこする。

 そのくせ時々、ひどく苦悩している顔で空を睨んでいる。


 かまわぬ。存分に痛めつけるがいい。そしてその人となりがいかに浅ましいか見せつけよ。

 おまえが、人を離れた帝の位置に準ずるその身分にどれほどふさわしくないか示せばいい。

 おのれを省みず他を責める自分の愚かしさに呑まれてしまえ。



 うつろなまなざしの内親王は泣くことも許されずに日々を過ごす。

 その父の五十の()の催しは故意に延ばされる。

 葉月は夕霧の母の忌月(いみづき)として。長月は私の祖母である大后の忌月として。神無月は私の調子がはかばかしくないことを理由として。


 以前はしきりに六条院に伺候(しこう)していた柏木は、病と称して訪れがない。

 気の小さいことだと私は呆れる。人目を気にする源氏に何ができようか。せいぜい隙を見つけて睨みをきかせるか、毒のある言葉でなぶる程度だ。

 帝の(ちょう)も充分で、いまだ力を持つ致仕(ちじ)の大臣の愛息である彼を世俗の地位のことで追い込むことはできない。彼の昇進を妨げたりしたら、それこそ人の口の格好の的だ。


 だからあの男は脅える必要などない。何もなかったように振舞うか、いっそ女を共有することに慣れた男のさめた共感を漂わせて見るか、動じずに見返してやればそれ以上はどうにもできない。


 差しさわりのない相手の数には限りのあるこの時代、正妻だけは別だが、それ以外の女には同時期に幾人かが訪れることなど少なくない。そんな際は互いに礼儀を守り、そ知らぬ顔でやり過ごすのがありきたりの作法だ。


 ところが源氏は若い時分はともかく、人のものに手は出しても自分がその立場に追い込まれるとは考えもしていなかったようだ。

 盗まれた相手が私でなかったとしてもその肥大した自尊の心に傷はついただろう。

 けれど騒ぎ立てることも報復も封じられているのだから、開き直ればいいだけの話だ。


 延ばされる一方の上皇の賀に不安を抱いたのか、初めは源氏の後にと考えていたらしい致仕の大臣が、この月に姉の女二の宮の名のもとで厳かな祝賀の催しを披露した。

 大臣その人が奔走しなかなかに盛大であったようで、その際には柏木も見事に役目を果たしたらしい。

 が、その後は再び病だとして引きこもっている。


 柏木に心を預けることはないが、その正妻である姉に対しては想いがある。

 以前、密会の夜にかの男は囁きかけた。


「あなたと比べると二の宮はまるで落葉のようです。姉妹とさえも思えない」

「無礼なっ。皇女をなんと心得る!」


 怒りをあらわにした。私はこの姉が嫌いではなかった。


 感情を表さず作り物のように振舞っていると、他者の人柄がよく見える。

 父に連れられてあまたの女御(にょうご)更衣(こうい)のもとを訪れていた幼い頃、父の前でだけやさしく振舞う女は少なくなかった。兄の母、承香殿(しょうきょうでん)の女御などもその一人だった。


 けれど二の宮の母たる更衣はそんな様子を見せなかった。趣はないが今めいてなかなか才がある、と評されていた方だがけしてその奥にある闇は見せず、私には優しく接してくれた。


 父の私への情愛は飛びぬけていた。その次には二の宮が気に入られていたとはいえあまりにも差がありすぎたから、彼の更衣が不満に思わなかったわけはないのだ。


 だけどその方は暗い部分を私にぶつけたりはしなかった。それだけで私は充分だった。

 心の奥など知らなくともよい。表面だけでも完璧に振舞ってくれたその方は敬意に値した。そうすることのできない女人は数多かった。


 そして姉の女二の宮は真の皇女だった。優しく奥ゆかしく芯が強い。こちらは心から私をいつくしんでくれた。


 なのに私は彼女を裏切った。悔いたりはしないが、その夫と共に陰で笑うつもりはまったくなかった。

 あわてて謝る柏木に冷たい視線を当て、それから気を変えてやわらかく囁いた。


「……姉には優しくしてあげて。こんなことになってしまったけれど、私にとって大事な方なの」


 柏木はそれを誓った。あまりあてにはならぬが他に任せるわけにもいかなかった。

 だから、神無月の祝賀の成功は、父のためだけではなく彼女のためにも心から喜べた。




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