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事は生じた。さて、それをどう扱うか。ほくそ笑みながら考えた。どのような見せ方をすれば源氏が最も怒り、傷つくか。愛しあう若い恋人同士の形か。それとも奪われたあわれな姫宮か。
時を隔てたその昔、源氏は父帝の后を盗んだ。あの男のことだからそれは別のことと考えるだろうが、いつの日かきっと思い出させてやる。
夕霧を手にできなかったことは残念だが、息子の年頃の貴公子を得た。
おまえのその矜持をこの牙で裂き、時代が変わったと教えてやる。
すべてを掴んだと傲慢な男よ、わが手の内でただ踊れ。
足元に、いつもはおまえが踏みしめる女の姿はない。
そこに何かがあるとしたら、おまえ自身の影だけだ。
その寒々しい頼りなさに震えるがいい。
私は哄笑を内面に隠し、おびえた内親王の顔で御帳台の奥に隠れた。
きっと乳母が騒ぎ立てることだろう。彼女たちはただでさえ源氏が高貴な正妻を捨て置いて、夫の装束一つ整えるにもその男自身の財産を使うしかない身の上の女の病に気を取られることを許してはいない。私の不調を大げさに伝えることだろう。
「あの人は今や最期が近づいているのです。幼い頃から育ててきたので、さすがに見捨てるわけにもいきません。お若いあなたへの心はこれから先に、きっとわかっていただける機会があると思います。いましばらく、あなたへのご奉仕を怠ることをお許しください」
あわててこちらに戻った源氏はさして苦しそうでもない私を見て、さっそく言いくるめようとした。
私は何かが起こったことを少しずつ感じさせようとして、顔も向けられぬ風を装う。だが源氏は、ただこちらへの渡りが途絶えたことを気にやんでいると思ったようだ。
戻りたくて気もそぞろなこの男は、それでも世間の手前しばらく二条院に帰ることができなかった。私は不安そうな様子のまま彼に接した。
今気づかれてもかまわない。だがもう少し先でもいい。
様子をうかがっているうちに、紫の上が亡くなったと知らせが届いた。
もはや取り繕うこともせずに、源氏は二条院に戻った。
女の死に対するわずかな疼痛。けれどそれは、身を灼く業火の前のか細い灯火に過ぎない。
臓腑のねじれるような感覚を味わおうとも、同じ状況なら私は何度でも同じことを繰り返すだろう。
もっとも、紫の上は息を吹き返した。やっかいな物の怪がようやく憑坐に移った後によみがえったらしい。物の怪は源氏に縁のある女であったようだ。
いつぞやのかそけき声の異界の女。あの方なのだろうか。
だとしたら、紫の上はもともと生きる運命だったのであろう。
偽ることしかできないと女は言った。きっとその言葉の通りで人を呪い殺す力なぞ持っていたのは、生きて耐えて恨んでいた時だけだったのだと思う。
死者など何もできない。泣いて偽ることだけだ。
死霊など珍しくもない皇族の裔の実感だ。
命はどうにか戻っても紫の上の容態は安定せず、源氏の嘆きは深い。出家こそ許さないが僧の前段階の五戒のみは受けさせたほどだ。
当然こちらは忘れ去られる。この間を利用して何度か柏木が訪れ、蜜の多すぎる薫物のように安っぽい言葉を重ねていった。私は自分の意思などあらわにはせず、夢にさらわれた女のように振舞った。
そして私の体調が変わる。どうやら懐妊したらしい。
どちらの子なのかと首をかしげた。この時期の回数と年齢からして柏木である可能性が高い。しかし確実であるとも言いがたい。
なんにせよ私の子であることだけは確定しているので、生活の不自由はさせない。
それにたとえ源氏の子であったとしても、奪われた事実さえ知ればあの男は勝手に邪推してくれるだろう。
食が細くなりいくらかやせた。顔色も悪いようだ。が、傍らに控える按察使の方がさらに色を失っている。
「予定にはなかったけれど、これでいいと思っているのよ。そんな不安は必要ないわ」
「…………あなたのお体が心配でなりません。このようなたくらみはなんとしてでも阻止するべきであったと悔いております。山の帝にも申し訳が立ちません」
「いまさら引き返せないわ。でも、罪は自分で背負うから気にしないで。それより他の人に追及される前にいつもの様子に戻ってね」
すがるような目で按察使は私を見つめた。こんな様では困る。
「ねえ、もう私を手伝ってはくれないの?」
艶を含ませて笑いかけると眠たげな眸に何かがよぎる。それは怒りにも悲しみにも似てはいるが、それだけでもないらしい。煙のように曖昧な仄暗い感情。
「…………御心のままに」
満足げにうなずき下がらせた。これから大きな闘いが待っている。充分に身を癒してほしかった。
さて、機会が訪れた。水面から吹き渡る風だけを待つ真夏の盛りの暑い一日だった。
紫の上の様子も落ち着き、源氏は二条院からこちらに向かった。出かける前に彼女に対して、来世までいっしょにと極楽の蓮の露に誓ったことも後に聞いた。
もちろん私はおびえた様子のままで、目を合わせることさえ避けた。殻にこもったように見せかけながら、それを自分への甘えととる源氏の尊大な自尊心を嘲笑していた。
年配の女房が彼に呼ばれ、私の体調が尋ねられる。身ごもったことを告げたようだが信じられなかったらしい。
あやめの一件を知らぬこの男は、長らくなかった不測の事態をいまひとつ呑み込めなかったようだ。
私はすべてが動き出すことを待っていた。そのための手は打った。今はただいつものように無為であることを全うすればいい。源氏が身近にいることに柏木は耐えられないだろう。賭けに負けることはありえない。
日々は熱気に焦がされて、じりじりと時だけを消費していく。不毛な状況に懐妊のための気分の悪さまで加わってなかなかひどい状態だが、耐えられないことはない。失ったものの痛みに比べれば風の前の塵芥、悩むほどのことではない。
それに、誰にも気をつかってもらえなかったのにあやめもこの不調に耐えたのだ。あの娘の辛さと同じならばむしろこれは歓び。初めて完全に感覚を共有できたのだ。苦しいわけがない。
意味のない日数を重ねるうちに案の定、柏木が限界に達した。
いまだ源氏が去らぬうちに小侍従を通して文をよこした。浅緑の薄様に二枚に渡って書かれている。
「わずらわしいものを見せないで。気分が悪いわ」
横になったまま断って見せても、たまたま人気がなかったためか彼女は強引だった。
「それでもぜひ。書かれていることがお気の毒で」
紫の上の名残を求めたのか源氏が東の対に渡っていたので無理やり広げられたが、事情を知らぬ女房が近づいて来たので、小侍従はあわてて几帳をこちらに寄せて席をはずした。
勝手なことをとあきれたが、都合はいいのでさっさといつも座っている茵(平安座布団)の下に差し挟んだ。少し巻いたその端を程よく引いて、自然にちらと見えるように覗かせる。これで源氏も気づくだろう。
柏木の字であることは玉鬘への文や、明石の女御が入内する時に書かせたもので知っているはずだ。胸を弾ませて彼の帰りを待った。
ところが意外なことに、この場に戻った源氏は文に目を向けない。それどころか別れの挨拶を始めた。
「こちらのご様子は落ち着いていらっしゃるようなので二条の方を見に行ってきます。あちらはいまだ危うくて、見捨てたように思わせるのも気の毒なので。私のことを悪く言う人もいるかもしれませんが、けして心を隔てないでくださいね。きっとそのうちには見直していただけると思いますので」
露骨に文に視線を向けるわけにもいかないので、沈んだ様子でうち伏して昼の御座に注意を運ぼうとするが、源氏もそこに横たわり、文の端には気づかない。
なぜ、気づかぬ。これだけ用意周到に事を運んだのに。
明らかに私の態度はおかしいではないか。
秘密を抱えて苦悩する姫宮を完璧に演出してあるというのに。
疑惑が走った。伝説的な色好みと噂される光源氏。それは本当のことなのか。
名のみことごとしく伝わっているだけではないのか。
目の前にわざわざ用意された他の男の文さえ気づかずして、何が色事の大家かっ!
憤然と構えていると、なんとこの男はこともあろうに居眠りを始めた。勢い込んでいた私はがっくりと肩を落とした。
日は暮れかけてひぐらしが鳴く。茜に染まった雲の流れをただ見ていた。それは静かに御簾の遠くに去り、私はここに残される。いつものことだ。辛いわけでもないはずなのに、妙に胸の奥が痛かった。
そんな頃合に、やっと源氏が目を覚ます。
「それでは、道たどたどしからぬ程に帰ります」
好きにしろと言いたくなったがこの騒ぎを繰り返すことは嫌なので自分を抑え、源氏の引用した万葉集の同じ歌を使って、衣を着替え始めたこの男を引き止めた。
決めたからにはけしてあきらめない。絶対に自分の意思を通す。
「月を待ってから帰って、とも言いますのに」
寂しげに、少しはにかんで。声に澄んだやわらかな色を含んで。
源氏は支度の手を止めた。
「月が出るまで何をしましょうか」
今度は少しあどけなく、直截的に引き止める。
「夕露に袖濡らせとやひぐらしの泣くを聞くきく起きていくらん(夕露と私の涙で袖を濡らせとおっしゃるの? ひぐらしと私のなく声を聞きながら起きて行ってしまうのね)」
ほろり、と一粒珠のごとき涙を浮かべて見せる。うつむくとそれが尾を引いて袖に滴る。
源氏の腕が肩に置かれる。うとましい。が、憂いに満ちた気配のままその腕にそっと寄りかかる。私の髪は生き物のように源氏に絡みつく。
「待つ里もいかが聞くらんかたがたに心騒がすひぐらしの声(つれーわ。モテすぎでつれーわ。あっちもこっちもメロメロすぎて泣いてるわ)」
二条院をちらつかせて恩恵を与えるかのようにここに留まる。その実、当然の権利だと思うことを実行することは自重しない。
別にかまわぬ。悪意の器である私自身なぞ、犬にだってくれてやる!
早めに眠った源氏の横で眠れぬままに御帳台の外に目をやると、按察使が傍に控えている。夏の薄い帳を通して、意識的に感情を排したまなざしでこちらを見つめる。
私は黙って彼女が片手に持つ扇を指差した。
按察使はすぐに理解して、二階棚の方へ行った。
源氏の愛用する蝙蝠扇を持って戻ってくる。
それをどうするべきなのか彼女はよく理解している。
それでも迷って握り締めている。
目だけで促した。
彼女から何かが溢れそうになる。
それを汲み取らず、口の端をわずかに歪めた。
非情で、道理から外れた女主。私は確かにそんな人物だ。
按察使はのろのろと昼の御座に向かった。
きっと、ごく自然に文が目に付く位置に扇を置くに違いない。
すべきことは終わった。後はそのまま待つことだけが仕事だ。
それには慣れている。なにせ私は無為に耐えうる内親王だからだ。




