24.女楽
日が過ぎて、咲き始めたばかりだった梅も盛りの頃を迎えた。一月の十九日だ。空は心地よく晴れ渡り、風はやさしく霞を招いた。
おぼろな気配がものの息づく生々しい春の陽気に紗を掛ける。それは、雅な遊びごとの底に流れる女たちの挑み心とよく似ていた。
私の住む春の町の寝殿に衣擦れの音が響く。女房たちに先んじて愛らしい女童が四人現れた。紫の上に仕える者たちだ。
桜襲の汗衫(貴族の童女の上衣)がことに目を引く。袿の赤や薄紫の袙(中に着る衣)を品よく覗かせ、紋の浮いた綾衣の上袴からわずかに出した紅の色が鮮やかだ。
様子もしつけも行き届いている。けれどその後に続く女房たちは年かさのものばかりだ。音に優れていることを言い訳にしているが、私の策の効果が多少はあることを示している。幼い女童はともかく、紫の上は年若い女房を人目の多いこの場で自分の傍に置きたくはなかったのだ。
明石の女御の女童もそろいの姿で、青色の上衣に蘇芳の汗衫を重ねている。
帝の威光を暗示させてか、唐綾の上袴にさらに山吹色の唐の綺の袙を合わせている。私的な女楽の意味を超えて、儀式ばった重さが無粋に思える。女房たちも過剰に装う。
それを避け、へりくだりを見せる明石の女は大げさには見えぬよう、少女たちの上衣は紅梅襲が二人桜襲が二人と分け、青磁の汗衫のみをそろえた。袙の紫の濃いもの薄いもの、単衣などは砧の打ち目の特に美しいものをこだわりを持って着せたのがこの女の性である。
私はことを構えないようにみなに命じている。挑みになど気づかぬ風にいつもの趣を変えてはいない。
女童の装束も、青丹の上衣に柳襲の汗衫、葡萄染めの袙など珍しくもないものを整えさせた。ただ、その気配のみは他に並びなく品位の高いものを選んでいる。
拍子合わせには髭黒の右大臣の息子たちや夕霧の長男が、笙や横笛を抱えて簀子に控える。
そこを隔てる御簾の奥の廂は、襖障子を取り払って几帳だけを隔てとしている。
源氏は当然のように中央に自分の座をしつらえた。
胸の奥の憎悪が鋭い刃に変わる。けれど私はそれをそのまま静め、無心の表情で物事を眺める。
みなが秘蔵の名器を渡されながら、一人だけ手習い用の琴を渡された時も怒りの絶頂にありながら、まるでそれを望んでいたかのように振舞った。
日は暮れかけて風は甘い。満開の白梅は去年の雪さえ思わせて、枝をしならせるほどに咲き乱れる。部屋の内から漂う香は鶯さえも迷わせる。
源氏に呼ばれた夕霧がひどく気をつかった装束で現れた頃、黄昏は夕闇の中に溶けかけていた。
弦を整えて筝の琴柱の位置を直し、役目は果たしたと言わんばかりの彼を源氏はからかい、琴の響きを促した。夕霧は逆らわず、わずかに音を立てた後に筝を返した。
それを契機に宿直姿の若君たちが、まだ幼いがこれから先が期待できる笛の音を奏で始めた。
琵琶を受け持つ明石の女の音が、ことに優れて人を導く。ほかに気圧される立場を微塵も感じさせず、わざと卑下して女房めいた薄物の裳を身につけてはいるけれど、品位は高くなまめいて奏でる響きは神さびている。
几帳の端からうかがえる様子は、柳の織物の細長に萌黄であろう小袿姿で、茵にさえ座らずに遠慮を見せているが、楽の音色は一歩も譲らず澄みきって他より優れている。花をも実をもたわわにつけて五月待つ花橘を思わせる。
紫の上も和琴を華やかに搔き立てた。親しみやすく愛嬌のある音だ。相当に修練を積んだことがわかる。そう思わせてしまうあたりが明石の女の腕まではたどり着けていないことを示しているが、それでも爪音の返しが今めいていて解釈も斬新でなかなかいい。
その調べも姿も春を思わせるのがさすがに彼女で、花にたとえるならやはり桜がふさわしい。葡萄染めらしき小袿に薄蘇芳の細長を重ねて、程よい丈の身体に豊かな黒髪が流れていて、匂うばかりに美しい。
明石の女御は帝のもとで管弦の催しに慣れているので、危なげなく筝の音を立ててはいるが、可憐にして優美という他はない。それでもゆの音の深さなどに、実母の音がわずかに重なる。
華奢な姿に腹だけがふっくらとしていて、あやめもいずれああなるのかと感慨深い。それでも面やせした風はなく、紅梅の袿にはらはらと髪がかかっているのが清らかで、夏の朝に比べるものもなく見かける藤の花の趣がある。
それぞれに美しい女たちのなかなかに秀でた調べだが、以前聞いた源氏の音はさらに深かった。いかに憎い相手であろうともそのことだけは認めるしかない。情緒も風格もいまだ完成を見せていない女御はもちろん、先の二人も何かが足りない。
夕霧の大将は紫の上の音に特に感じ入った様子だ。そういえば、彼について調べさせたときに面白い話をつかんだ。少年と呼べる年の頃に彼女を垣間見て、想いを抱いた可能性があるとのことだった。
それは野分(台風)の日のことで、散らされる花を気にした彼女が端近にいて前栽(植え込み)を眺めていたためだと聞き及ぶ。
そんな折は几帳も屏風も片付けるし、御簾は風に煽られるからありえないこともない。
そのように心を傾けて聞けば別だが力量は明石の女が上だ。紫の上の音は陽射しのように暖かく人の心を惹くが、その音に影はない。私が彼女のことを知らなかったら、悩みのない人の音だと思ったことだろう。
この方は音に感情を閉じ込めてその身を軽くすることをなさらない。その色は優しく美しいものだけを映している。
音が単なる遊びを超えて人外の領域に足を踏み入れる時、そこに闇は不可欠だ。絢爛たる花を咲かせるためには、泥濘の澱みが必要だ。
その端くれに差し掛かる明石の女の琵琶の音は、古式ゆかしい格と言えるものがある。それは今よりも荒々しいいにしえの、伊勢物語で言う『いちはやき雅』である野生の品位が長い時を経て、日に褪せ色を変え跡を微かに残して、ようやく神さびたといえる域に達したのだろう。心地よい音のみで作られているわけではない。
夕霧はそれを理解できない。源氏の子息とはいえ、雅ごとにはさほど堪能ではないようだ。
灯された灯篭が辺りを照らす。外では白砂が焔を映して濡れたように輝く。やっと、遅い臥し待ちの月が競うように現れ、冷え冷えとした光を投げかける。
春秋の趣を語る源氏の言葉に、夕霧が強い調子で春を援護した。源氏はそれを軽く流して、女たちを、すなわち自分を誇った。
驕るがよい。ただこの、春の夜の夢のような栄華を。花にも見まごう女たちの、飾られるためだけに競う虚しい挑み心を。世と離され、学ぶことさえ奪われた女たちにわずかに許されたおのれ自身の発露を。絢爛たる六条院は鎖された庭に過ぎない。
花ならぬこの私は、鶯の羽風にあえかに乱れる青柳でも気取ろうか。偽りだらけの爪音は、程ほどに上達した風を装って人を欺く。定められた奏法を少しも違えず、深い味わいの域には至らぬがそれでも安定したと言えるほどの音を響かせる。
並の技量で奏すれば不幸を呼ぶ、とされる七弦琴の調べでこの院を包む。
いやそもそも、女楽自体が不吉だ。再び韓非子を思い出す。
けれどあやめはすでにここにいないから不安はない。彼女は守られた場所にいる。
この遊びの少し前、無力さに打ちのめされていた私に中納言が声を掛けた。
預かりましょう、という言葉に驚いて見返すと、いつもの冷たい表情を微塵も変えずに言葉を続けた。
「死んだ妹の形見の品が始末できずに残っております。不自由はさせずにすむでしょう」
私はそれにすがった。中納言に何の得もないことはわかっていたが、それでもすがらずにはいられなかった。見知らぬ者に預けるよりも安心できた。早くに父を亡くしながら、生活のすべを揺るがすことのなかった彼女の手腕は信用できた。
見送ることもできなかった。病んだ女の挨拶など乳母たちが認めるわけもなかった。目に付かぬ程度に用意させた布や衣などを添えることしかできなかった。
自嘲の苦味が音に含まれる。いとしい相手のいないこの場は索漠たる荒地に等しい。花の色香も月の影も、ただそこにあるだけだ。
けれども指だけは思うとおりに動き、夜の帳を手繰り寄せた。
いや少し自由に弾きすぎたかもしれない。ついたどたどしさを忘れ、難しい五六の撥を季節に合わせて完璧にこなし、澄みきった音を響かせた。
源氏が驚いたような顔をし、すぐに師の手柄とばかりに得意げな顔に変わった。
いくつかの曲が終わり、少し疲れた面持ちの幼い若君を気遣って、今宵の遊びはおしまいとなった。
少年たちにはそれぞれ、源氏や紫の上から御衣などが与えられる。私は夕霧の大将に渡すことになっていた。身近な女房が杯を渡し、装束を運ぶ。
「師匠である私こそごほうびをいただきたいですね」
源氏の軽口さえ想定の範囲を出ない。按察使に軽く目をやると、すぐにあらかじめ用意してあった高麗笛を取り出して源氏に運んだ。
吹き鳴らすその音を契機に人々は席を立った。つられたらしい夕霧の笛の音が、微かに夜気を震わせた。
暁まで紫の上はこの寝殿の私の部屋にいて、それから去った。抱えた傷で足取りは重かった。
夜会が果てると源氏はすぐに東の対に戻った。彼女はそれを追うことを、私のために遠慮した。西の部屋に残り、穏やかに言葉を連ねて労をいとってくれた。
他の部屋の人を招いたため、居場所を無くした私の女房の大半を下がらせていた。
その上夜も更けて、彼女の連れてきた老女房たちは居眠りをしている者も多かった。女童たちは先に戻した。
紫の上は端正な面持ちを崩していなかった。与えた毒のある言葉もどれほどの効果があったのか、その美貌に翳りはなかった。私は傷を深める必要を感じた。
彼女が少し席をはずして戻ってきた頃合、私は衣擦れの音でその距離を測った。
戸にたどり着く直前、声がどうにか聞こえる位置のときに按察使が言葉を発した。
「冬の町の女房たちが語ったことは本当でしょうか」
やわらかな衣の音が凍る。中納言がそれに答える。
「わかりかねます。が、女御さまがそれまで実の母君にお会いできなかったということ自体は嘘ではないようです」
紫の上が明石の女からその娘を引き取った後、入内の頃までただの一度も見せることがなかったことを噂として話す。本当のことでもある。
そこへさしはさむ私の声。悪意など皆無に聞こえる無邪気な声。
「そうかもしれないけれど、きっと垣間見ることができるように計らってあげたに違いないわ。あの優しい方がその程度のことに気づかないわけはないもの。今夜も私のためにわざわざ残ってくださっているのよ」
だいぶ間を置いて戸が開いた。私は無心に見えるあどけない笑顔を彼女に向けた。少しの疑いも持たぬ信じきった表情のはずだ。底にある悪意など欠片も滲ませずに。
無邪気さはいつだって武具になる。それは相手に、自分の心を責める鬼を招き寄せさせる。神域までたどり着かぬ七弦琴よりよほど確かに。
朝方まで彼女は傍にいてくれた。どれほど逃げ帰りたかったことだろう。しかし自ら課した義務を放棄することのできない方だった。
彼女は確かに闘っていた。そしてその相手は私ではなかった。
有明の月の影は薄い。色を失った女の顔のように。
その頼りない光に照らされて、紫の上は源氏の待つ東の対へ戻っていった。
後に聞いた話だ。日が高くなるまで寝所にこもった二人は、御帳台から出てからも身を寄せて語り合っていたそうだ。
栄光と苦悩に満ちた自分自身の生涯を語った後、源氏は紫の上に誇った。
「須磨の別れの時を除いて、私はあなたの心を乱したことなどありませんよ。后や女御など高い身分の方たちさえ寵を争って心が落ち着くことなどないでしょうが、あなたは親元にいるようなものですからね。これ以上気楽なことはないでしょう。宮がいらしたことは辛かったかもしれませんが、そのせいで今までよりも私の心はあなたに向くことになったわけですから」
まこと、彼の男と私は一対であった。私が彼女を嬲り、源氏がとどめを刺す。
「わが身には過ぎたる待遇と人は思うでしょうが、嘆きばかりが身に添います。ぜひ、出家することをお許しください」
「それは絶対に許せない。一人で生きろというのですか。いかにあなたを思うか、最後まで見届けていただきたい」
言葉ばかりと涙ぐむ紫の上をなだめるために、源氏はさらに言葉を重ねる。
すでに死んだ女を彼は責めてみせた。夕霧の母、葵上を彼は非難した。六条の御息所を彼はそしった。そして自分の分の罪は彼女の娘の秋好む中宮への好意と後見で消えたはずと思い上がった。
さらに紫の上の弱みをつき、明石の女を利用して同じ罪に引きずり込んだ。
彼女にも確かに隙があった。この時代、地位の低い相手は人並みには扱われない。そのうえ恋の恨みがあった。この時は私の与えた傷により、明石の女御の義母としての立場が揺らいでいた。
紫の上は不安で、歪んだ感情にさえすがりたかった。心を見せぬかの女より、女御は自分の方を愛すると叫びたかった。
以前、父に聞いた。大抵の男は他者を貶め、それと比較して自分を高みに上げるほめ方を好むと。私の見た女たちはあまりそれを好まなかった。むしろ他者など存在しないかのように語らず、自分自身の美質のみをほめる言葉を好んだ。だから彼のやり方は、典型的な男のほめ方なのだと思う。
しかし紫の上は源氏の罠に陥った。
ひたひたと闇は訪れる。爛漫たる春にまぎれて。
異界の者が招かれる。定められた言葉に応じて。
「どれ、宮の琴の成功をほめて来ましょう」
最愛の相手に手を掛けたことに気づきもせず、源氏は席を立った。
後には女が一人残された。
女楽の次の夜の明け方、紫の上は倒れた。




