22
帳に閉ざされた御帳台の中は薄く明るく、未明の空を思わせる。
身を横たえ、衾(平安布団)を頭まで引き寄せ光をさえぎる。闇の中でただあやめを思う。彼女の声。彼女の微笑。白い指先。悪意ある私の唯一の恋心。
涙などでなかった。痛みは大きすぎ、憎しみは強すぎた。私はそれに耐え、彼女の身の寄せ所を検討した。
この場においては置けない。目立ちすぎる。三条に父から譲り受けるはずの古い屋敷があるが、人の住まぬそこは荒れ果てていて若い娘を置くにはふさわしくない。
姉の女一の宮に頼りたかったが、彼女は斎院になることが決定している。妊婦の話を聞かせるわけにはいかない。
あるいはこの場にいない手の者のもとへやることも考えた。しかしあやめの先を思うとそれは不憫だ。
彼の光源氏の子を孕んだのだ。私がどんなに辛かろうが、縁の薄い相手に預けてその出生をおぼろにしてしまうと彼女には不都合だ。
自分の激しい鼓動が疎ましい。強い妬みが抑えきれない。あの男は彼女に触れ思うままにしたのだ。
疼痛に震える自分自身を無理やり引き剥がす。この場合私の考えるべきことは自分の感情ではない。あやめの進退だ。どうすれば彼女にとって一番幸せかを考えてやるべきだ。
結論はすぐに出る。源氏に告げることだ。子の数の少ないあの男は、劣り腹といえども見捨てはしないだろう。資産もあり手の者さえ隠し持ってはいても女一人の居場所さえ用意できない私と違って、落ち着いた里を用意できるに違いない。
しかし、人前にある程度は出せる明石の女とは違い、ただの女房よりも下の身分の彼女は隠されてしまうのではないか。
恐怖で心の蔵が疼く。二条の東の院あたりにお情けで囲われ、二度と会うことができなくなるかもしれない。
そうはさせない、考えろ。生まれた子を私の猶子(養子)とすることはどうだろう。そして引き続きあやめをこの場におけばいい。
いや、それは源氏が承服しないだろう。女房は顔を晒す。他の召人(情人)と違ってさしたる華やぎや教養を持たぬ彼女を、人目が多く浮いた空気のこの場には置かないだろう。
それに、と考えを続ける。隠れて悪意を醸すには都合のいい幼さだけが目立つ私の人柄。この表面を信じている源氏が、自分の子を猶子として私に預けるとは思えない。だとしたらあやめの子はどこに行くか。
紫の上のもとかもしれない。彼女は明石の女御を育てた実績があるし、出家を望むその意識を源氏はそらしたがっている。
女御の子、特に女一の宮の世話に明け暮れてはいるがこの女児はかしずかれるままに育つはずで、成長しても彼女の後見にはならない。いや男児であろうとも親王はかしずかれるもので、その養母に俗な世話など与えてはくれまい。
だからもし、あやめの子が男児であったとしたら源氏はその子を紫の上に与え、万が一自分が先立った後の将来の彼女の後見とみなすだろう。
花散里には夕霧がいる。過去の自分の経験から息子を紫の上から遠ざけたのだろうが、さすがにあやめの子が成長した頃合はその心配のいる年ではない。
「あなたは何も心配なさらなくてもいいのですよ」
あやめの件を言い出したとして源氏の言葉は想像がつく。提案をしてもさらりと流して、自分の思うように進めるに違いない。その前に手を打つ必要がある。
脳裏に図が描かれ始める。まず、紫の上の力を削がなくてはならない。源氏の愛情を奪う必要はないが彼女の心を傷つけ、あわよくば体の不調を招く。幼い子の世話など負担になるほどに。
口元に苦い笑いが浮かんだ。あの男はあやめを傷つけた。ならばその罪は、彼の最愛の者に贖っていただこう。
野に咲く花を気ままにむしる男が籬に囲う、守られた花に風をあてよう。
さて、毒のある言葉を考えよう。寵愛並ぶ者なきあの紫の上を悩まし、追い詰め、引き裂くような言葉を。
夜は更けた。源氏は今夜は東の対に戻っている。帳の外をうかがうと、部屋の隅に大殿油の淡い光が滲む。
今宵は按察使は恋人が来る予定だと噂されていたし、中納言も宿直ではない。女房たちはすべて眠り込んでいるようだ。
静かに身を起こし、音を立てぬように袿を羽織らず、白い練絹の単衣のまま御帳台からすべり出た。
年は明け春と呼ばれる季節になったがまだ寒く、夜だからなお更だ。床は氷のようで、空気は薄い衣の私を責め立てるほど冷たい。それでも胸は弾んでいた。
襖障子をそっと開き、踏み出したことのない北廂へ足を下ろした。
吊灯篭の灯りはほとんどが消えているが、わずかに一つ、二つ焔を揺らしているものもある。その明かりを頼りに静かに進む。
几帳がいくつか立てられて、その陰に休む女房の寝息が聞こえる。格子はすべて降りていて、月など見えないし霧の気配もないけれど、李煜の詞を思い出した。
花は鮮やかに月は暗く、軽い霧が立ちこめる
今宵こそ人目を避けてあなたのもとへ
襪(靴下)のまま石の階に出ていく
手には金縷のくつを下げて
きらびやかな建物の南の辺りでお会いして
あなたに寄り添って身も震える
私は出てくることさえ難しいから
今宵は思うままに愛してほしい
心でそっと口ずさみながら、憂いの色も深くなる。詞の二人がうらやましい。どんなにたまの密会であろうとも、お互いに求め合い気持ちが通じ合っている。
片恋の私にそれは許されない。和歌の方が今の私にはふさわしいだろうか。
あやめも知らぬ恋もするかな。季節はずれの古今の歌が思い浮かぶ。
廂の端に、几帳も与えられずに横たわる女の姿がある。私は膝をつき、そっと彼女に声をかけた。
彼女は少し身じろぎし、それから驚いて顔を上げた。
「…………宮さま」
聞きたかったその声。見たかったその姿。けれど薄闇の中でもわかるほどやつれて顔色が悪い。
それなのにあやめは羽織っていた衣を脱いで私に掛けようとした。
「こんな薄着で、このような所まで……」
「おまえに会いに来たのよ。だめ、自分で被って。これは命令です」
困った顔をして動かない彼女の手から奪って着せかける。あやめの瞳が潤んでいく。
「わたしは宮さまに優しくしていただけるような者ではありません」
悲しみと悔いで痛々しいほどの彼女の声。私はあやめをまっすぐに見つめた。
「聞いたわ……辛かったでしょう」
彼女は首を激しく横に振った。それを止めた。
「子がいるのでしょう。無理をしないで。恨んでなんかいないわ。むしろおまえに謝りたい。こんな目にあわせてしまって」
否定する彼女の声を止めて微笑みかけた。
「ねえ、あやめはどうしたいの。その子はあの男のものだから、母として今よりは楽な立場につけると思うわ。認めないなんて私が許さないから。それ相当の用意はさせるわ」
あやめはやはり首を振った。
「知らせないでください」
珍しく強い声だ。彼女の目を見つめると、寂しい決意が居座っている。
「二、三度慰んだだけのひどく格下の者が孕んでも、お困りになるだけだと思います」
「あの男にとって子は貴重よ。大事にすると思うわ。ねえ、いっそ私の子にしてみない? 大切に育てるわ。ものすごく運がよければ、国母の親になれるかもしれないわよ」
それでも彼女はうなずかなかった。
「でも里にも困るでしょう。届出は侍従の縁者としているけれど、ろくに世話してくれるとは思えないわ」
「何か……つてを探します」
そんなものはありそうになかった。強く言ってそれを私が探すことだけは承諾させた。
「絶対にいい場所を見つけるわ。それにしても、どうしてこういうことになってしまったの?」
あやめはいつもより顔を伏せて消え入りそうな声で言った。
「あの方が漢籍を探して塗籠に入られた時、紙燭(明かり)を持つことを命じられたのです」
「色好みの源氏に近づいてしまったのね。それ以上語らなくてもいいわ」
囁きながらあまり長くはない彼女の髪に触れた。いつものあやめのかすかな匂い。
私の心は底まで歪んでいる。弱った相手に自分の欲望を押しつけていることに気づいて手を引いた。
触れるべきではない。清らかなものを汚してはいけない。源氏の手にかかったことは微塵も彼女を変えないが、女の形の悪意である私は忌むべき存在だ。これ以上その毒をあやめに近づけてはならない。
未練を断ち切って立ち上がった。あやめが心細そうに見上げてくれる。
有明の月にはまだ早い頃だが、私は部屋に帰らなくてはならなかった。
初めての暁の別れ。後朝の文を出すわけには行かないけれど。
「身体を大事にしてね」
「宮さまのほうこそ」
「じゃあ、私のためにあなたを大事にして。元気になって戻って来るのを待っているから」
葉陰に宿る滴めいた涙はついに解け、やわらかな頬の輪郭をたどった。
私も何かが溢れそうになったけれどそれに耐え、背を向けて肩越しに別れを告げた。
冷たい夜気が氷に似た私の心を、危うい際で保ってくれる。
「いつでもあやめを思っているわ」
振り向かずに本音を言った。心の欠片が砕けながらきらめいて、彼女の袂に入り込む。これ以上こぼれぬように、用心しながら居室に戻った。
知らせたくない、という彼女の意志は強固だ。けれど私はあやめの身の安定を図りたかった。
そのためには、今は隠しても時期によって明らかにすることができるように充分気をつかって支度をしたかった。
乳母なども手配せねばならない。時流に乗り遅れ、権門とのつながりをほしがっている一族がいい。しかしなるべく産み月に近いほうがいいので、まだ探し出すには早すぎる。これは少し間を置く方がいい。
けれど里はすぐに決めねばあんな寒い場所にいる彼女の体調が不安だ。
やはり離れた場所に住む手の者のもとか。だが、顔も見たことのない相手に預けることは気が進まなかった。
悩んだまま日をすごし、そんな様を見せずに源氏の横で琴を弾く。憎悪で乱れる心を凍りつかせて奥に鎖し、あどけない顔で指示に従う。いくらか上達の気配を見せ、けれども真実の技量を隠す。
そのはずだったが時には抑えきれず、指先に自分を滲ませてしまうこともあった。
「今の一節は実に奥深い。正直に言えば驚きました。これなら院もご満足でしょう」
指導の礼など述べることは幼すぎる内親王にはふさわしくない。ただ嬉しそうに微笑んだ。そしておっとりと探りを入れる。
「女楽ではどの方が何をお弾きになるのですか」
「紫の上が和琴、明石の女御が箏の予定です。花散里は遠慮して加わりませんが、琵琶の名手である冬の町の者が伴奏を努める予定です」
相変わらず花散里は引くことが上手い。無駄に自分を表さない。
「みなさまきっとお上手でしょうに。恥ずかしいわ」
「あなたには私がついています。ご心配なく」
消え入りそうな声に源氏はいつになく力強く応え、視線をやわらげて私を見た。




