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夜毎、七弦の琴の調べが流れゆく。ただしそれは、偽った私の音だ。ようよう鳴らし方を知ったばかりのように危なげな音を立てていく。
「左手で目印の徽を押さえ、同時に右手で弾いてください。そうです。なかなかいい」
指示に従い、ほんの少しずつ上達してみせる。根気のいる作業だができないこともない。
たどたどしい手つきで音を鳴らす。薄皮をはぐようにその質を上げる。
心の底には本気で弾いてみたいという欲望がある。必死で稽古してあの凄まじい音の足元にでも近づきたい。けれど今のままではたった一音といえどもあんな音を出せそうになかった。
それならば仕方がない。初めて習うように基礎の基礎から学んで、源氏から何かを盗み出す。そう決意して素直に彼に従った。
隣室には音を聞きたがった明石の女御が戻っている。三人目の子をその腹に宿しているらしい。なぜ私には教えてくださらなかったのだろう、と不満めいた言葉を述べたことも知っている。
だがもはや気にかける必要はない。ごく普通に接しておけばいい。
紫の上は新年を迎える支度に忙しく、年が変わってからゆっくりと聞きに来るそうだ。彼女は源氏に夜の渡りが耐えがちになる許しを与え、傍目には落ち着いて見えるようだ。
大曲をいくつかの帖に分け、それをさらに分解して部分部分を丁寧になぞる。それぞれの季節の響き、日々の違いを音に込める。
時に偽りを忘れそうになるほど、私の意識は琴に集まった。
「短い間に大変に上達なさいましたね」
月が雪と競って冴えわたる夜に、たしなみのある女房たちと音を合わせ、おほめの言葉をいただいた。
嬉しそうににっこりと笑う。邪心の欠片も持たぬ顔で。
父の賀の宴は最初の計画より延期された。帝が大げさなほどの賀の祝いを華々しく行う予定なので、少し間を開けたほうがよいとの源氏の判断だ。二月の十余日と決まった。
残念だが琴の腕をもう少し上げたくもあったので不満を呑み込む。
「これほどになられたからには対の者などを呼んで女楽を試してみませんか。実際、彼女たちは世に上手と聞こえる人々と比べても勝ろうとも劣りませんよ。私も若い自分には、琴をよく知る人やその伝承もだいぶ学んだものです。けれど、これはと思う程のものはありませんでした。このごろの若い方はその頃よりもさらに浅いようです。琴の琴を学ぶ者もあまり聞きません。あなたの音程度にでも伝える者はめったにいないでしょう」
二十歳を超えてもあどけないとばかり言われる様子のまま、皮肉もわからず喜んでいるふりをする。女房たちさえその姿をそのままに受け取っている。
非礼な言葉に内心不愉快な私に気づいているのは、按察使と中納言ぐらいだ。あやめがいたらわかってくれただろうが、このところ調子を崩して下がり気味だ。
気がおさまらないので韓非子の一節を思い出す。『女楽にふけり、国政を顧みざるは、国を亡ぼすの禍なり』 国が滅びると困るが、彼は君主ではないから差しさわりはない。
「長くお会いしなかった院にお目にかかるのです。成長なされた、とおっしゃっていただけるように、よくご準備なさってください。
感情を呑み込んで再び音を響かせる。心根と違って思いもかけない澄んだ音が生まれ、今度は本当にそのまま微笑む。けれど人前では急に上達しすぎてもいけないので、次にはわざと一音はずした。源氏がそっと手を絡めて音を正した。
間をおいて出てきたあやめはまだ顔色が悪い。私がこちらで琴を習い始めたばかりの頃も、風邪を引いて二、三日寝込んだことがあった。しばらく音にとらわれがちで配慮が足りず、またいじめられたのかもしれない。湯殿で世話をしてくれる時、そっと囁きかけた。
「困っていることはない? 大抵のことはどうにかできると思うわ」
彼女を見つめながらそう言った。人がらみなら策謀によって片付けるし、衣や物品の必要があれば、季節ごとに与えるものの他にこの場にいない従者に用意させる。医者や薬師も彼女のためならば、喜捨として仕える者全員を診せてもいい。(なんかボランティアとしてこの時代の金持ちがやったらしいですよ)
あやめの目は少し潤み、何か言いかけた。そこへ小侍従が現れて言葉を奪った。
「遅くなりまして申し訳ありません。まあ、おまえは気が利かないこと。その湯帷子を早く寄こしなさい」
口を挟むと帰って彼女を傷つけることになりかねない。黙ってやり過ごした。
人が減った折りに再び訪ねたが、彼女は首を横に振った。
「何もありません。少し病みついて不安になっただけです。ご心配をおかけしました」
琴よりもやさしい水音のような声。しかし私の心はその水の上に数を書くような心もとなさに揺れる。
顔色はまだあまりよくない。このまま傍において置きたい気持ちを抑えた。
「下がって少し休んで。気分がよくなったらまたすぐに来てね」
囁きながら隙を見て、彼女の袖に手近にあった柑子(みかん)をいくつも差し込んだ。驚いた顔をするのに笑いかけた。
私のもとには贅沢な唐菓子や果実はいくらでもある。ほとんどの女房が遠慮のない態度でそれを口にするのに、あやめは直に与えられたとき意外はそんなまねをしないことをい知っていた。
「お見舞い」
彼女の瞳が露を含むのを見て、あわてて言葉を足した。
「そろそろ人が来るわ。平然として」
猫を招いてひざに乗せ、遊んでいたふりをする。陽気な娘たちが笑いさざめきながら入ってくる。
あやめは少し額を下げてそれを迎え、彼女たちと入れ替わって静かに部屋を出て行った。
雅やかな調度品も御簾越しの自然も、女房たちの衣装の色目も美しい。風に揺れる几帳の裾も、火鉢に施された象嵌も、繧繝縁の畳のふちも目を喜ばせる。
けれどそのどれも、あの源氏の琴の音には似ていない。
人はどうだろう。あやめの姿。声。違う。私にとっては最高の美を持つあの淡くはかない風情は、あくどさをも含むあの音とは違いすぎる。
水面に張り詰めた薄氷の冷たさ。それは確かに存在する。
琴を前に考え込んだ。あの音に似たものを単品で見つけることは難しい。
さやかな月影も梢を揺らす風も含み、なおかつ女の恨みも男の嘆きも込められたあの音。
物の怪や悪鬼や死霊を飼い、神を宿し仏に祈る音の大幣。
美は醜であり醜は美である。そんな異質な考えが、あの音に対してだけは浮かび上がってくる。
目を閉じて、気配だけを尖らせた。
一音響かせる。悪くはない、だがそれだけだ。
表層はもっと今めかしい華やぎを要するし、その奥には底知れぬ深淵を垣間見せねばならぬ。
今の私には何かが足りない。仕方なく、技量のみを磨く。これも必要なことではあるが。
隣の東面の明石の女御は、東の対の紫の上を訪れて留守だった。源氏はたぶん朧月夜の君のもとだ。
女房たちを鶯の初音を聴きに行かせて減らし、思うままに琴を響かせた。
少し疲れて指を離すと、中納言が、ざくろの果汁と蜜をあわせたものを熱い湯に溶かして運んできた。ほんのりとした香りと目を喜ばす赤い色。やさしい甘みに体がほどけていく。
気の利いたものを用意した礼を述べようとすると、いつもの無表情に加えて何か固い気配がある。
「どうかしたの?」
彼女にしては珍しく、逡巡する様子だ。けれどすぐに覚悟を決めて、私を正面から見つめた。いつもと変わらぬひんやりとした声だ。
「…………あやめに源氏の手がつきました」
私は白瑠璃の杯を静かに下に置いた。
「誰か別の娘と間違っているのではなくて」
並よりも身分の低い彼女は、源氏のいる時には廂の端に下げさせている。うつむきがちの彼女の顔さえ彼は知らないはずだ。
そしてこの部屋には若く華やかな女房が多い。さして際立つ容姿も機知に富む才も持たず、話に答えることさえない彼女にあの男が目をつけるとは思えない。
「事の起こりはわかりませんが、塗籠に何度か引き入れて寵を与えていたようです」
荒涼たる月の色。それが胸の中に落ちてくる。
全身に広がる疼痛。息が苦しい。心の蔵が激しく音を立てる。
中納言は無常に言葉を重ねる。
「そしてあやめは孕んでおります」
何かが、胸の内で割れた。私は乱れのない自分の声を他人のもののように聞いた。
「そう。そのことへの指示は後でします」
何か言いかけた中納言をさえぎった。
「少し疲れたので休みます。源氏が戻ったらそう伝えておいて」
答えは聞かずに御帳台に向かった。妙にそこは遠く感じた。




