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 私の怒りが伝わったわけではないはずだが、長く表立った態度を出さなかった父が珍しくその意思はっきりとを表した文をくれた。


「この世の名残としてあなたに会いたい。大げさではない形で訪ねてほしい」


 これは父の真意だと思う。もちろん私はすぐに向かいたかった。けれど源氏はそれを認めなかった。


「配慮のないことで申し訳ありません。ですが何の折もなくただ参るのも心苦しいので、何か趣向を整えてお伺いしましょう」


 上皇の要望に、それを言わせるまで気づかなかった自分の恥を晒されたと不愉快に思ったらしい。


 面倒な男だ。裏など読まずに言葉に従えばいいのに。なまじ体面ばかり気にするからややこしくなる。

 それにこれは私の文だ。会いたいと言われているのも私だ。一人で行けるわけもないが、自分勝手に決めないでほしい。しかし彼は当然のように自分本位にことを進める。


 父との対面は年が明けてからと決まった。彼の五十の()の祝いとして正式な形で訪れる。

 その支度に源氏は奔走した。身内の男童たちをこれを機会にお披露目しようと企てて、訪問の軸を稚児(ちご)舞いとした。


 髭黒(ひげくろ)の右大臣や夕霧の大将、(ほたる)兵部卿(ひょうぶきょう)の子どもたちなどが舞うことが決まった。

 他にも大人の舞人や楽人としてふさわしい者を選び、それぞれが練習に明け暮れた。


 私はただ胸を躍らせて、久方ぶりの父との面会に思いをはせた。そこへ、さらに伝わる父の言葉。


「おいでがあるのなら、彼女の琴の音を聞いてみたいですね。それぐらいは身につけたことでしょう」


 言葉にこめた皮肉の色。それを受けて兄までが口を出した。


「さぞかし上達なさったことでしょう。院のもとで弾かれる音を聴きたいほどです」


 すでに遊びごとの域を超えて、(まつりごと)と化したその事態に源氏は焦った。


「もちろん折ごとに教えてはいますし上達はなさっているのですが、院のお耳にかなうほどまでは達していらっしゃらないようです。このままでは彼女が、きまり悪い思いをなさるかもしれません」


 ただ会いたいから、大げさではなくと添えた言葉にわざわざ逆らって故意にのせた儀礼。普段は穏やかに話を流す父が不快を滲ませた。非常に珍しいことだ。

 すっかり彼をなめきっていた源氏はそれに慌てたのだろう。さっそく琴を教えに現れた。



 朱雀院(すざくいん)にいた頃、唐国の王維(おうい)の詩を好む私のために父は(きん)(こと)(七弦琴)を教えてくれた。詩はもちろん書にも絵にも楽にも才を示した彼は、この琴を愛したそうだ。


 季節に合わせて変わる弾き方で、やっかいだけれどそれは、自然に近寄り溶け合ってその一部となるための約束のようなものだ。冬には冬の春には春の温度があり、息づかいがある。


 ある程度上達した私に、父は少し寂しそうに微笑んだ。


「源氏ならもっと深い音を、あなたに教えることができるのだが」

「最近は王家の血筋の老女房にも習っているの。他の人には聞かせていないけれど、ほめてくれるわ」

「彼女の音は聞いたことがある。けして悪くはない。だが何かが足りない。品位、華やぎ、そう分けることのできない奥底の色合い、魂を震わせる深みがない」

「あの派手好きで女好きで、意外に執念深くて見栄っ張りな男の音にそれがあるとでもおっしゃるの?」


 その時も父は噴き出した。水面に映る(かえで)のさざめきみたいな笑いを見せた。


「大変な言われようだね」

「これでも抑えているのよ。で、源氏の音はそんなに素晴らしいの? 大后のおばあさまが凄かったことは少し知っているけれど、あのあざとい男の音など表面だけに思えるわ。お父さまのひいき耳じゃなくって」


 思い出すような顔で彼は遠くを見た。遠い過去の幻を、眸を向けた方向に招きよせるみたいに。


「おばあさまの音はいつも本当にすばらしかったよ。あの方はたとえ人からそしられようとも、権門の姫として生まれその義務を全うし、後ろ暗い所を持たない方だった。だからその音は悲痛な色も歓びもすべてを含んだが、凍りつく闇の底にある色合いを感じさせなかった。たとえ神と対峙しても、正面からまっすぐに響かせる音だった」


 静かに話す父の燻るような苦さと優美さ。悲哀の色にもよく似ている。ゆっくりと視線を私に戻したけれど、まだ思い出の中にいるみたいだ。


「私も彼もそれが基礎となっている。だがあれは、彼女にしか出せない音だ。耳だけがよく奏する力を持たない私以上に、技術も能力もありながらたどり着けない彼のほうが苦しんだかもしれない」

「源氏はおばあさまの音を聞いたことがあるの?」

「幼い時は彼女のもとにもいたからね。だから彼は彼女からいろいろな影響を受けているのだよ。人からすれば傲岸(ごうがん)とも取れるが、自分で自分を許容するあの性格もよく似ているよ」


 人からの評判を気にするかどうかが大きく違うので、あまりそうとも見えなかった。


「そのためか源氏は琴の琴についてはいろいろな人を訪ねて研鑽していた。彼女とは違う自分の音の模範としたかったのだろうね。しかし結局は誰も参考とはならず、過去の記憶と自分の腕だけである境地までたどり着いたよ」


 やはり父の意見は変えられずむっとしていると、彼はまた視線を宙に向けた。


東宮(とうぐう)の立場は非常に重んじられるけれど、たとえようもないほど寂しい位置だ。ましてそれが帝ともなると綾錦に彩られながら、胸のうちは氷より凍てついている。まだ若かった時、その重さと冷たさに耐えられないような日々があった。そんな時に彼の琴を聞くことがあって心が震えたよ。この人も、ひどく孤独なのだと」


「あのいつも人に取り囲まれ、それでも飽き足らずに女を集めまくる人が? そうとは思えないわ」

「表面のことは知らないけれど、寂しいからそうするのではないかな。それは置いておいたとしても彼の琴は素敵だよ。技術的にも最高の楽人の域に達している。ぜひ聴かせたいな。彼を嫌っているあなたが、どんな顔をするか知りたい気がする」


 からかうような表情に戻り、そしてまたあのほの苦く優美な笑みを浮かべた。



 六条院でも稚拙に偽って琴を弾くことはある。そんな時に訪れがあれば、確かに源氏は助言の言葉を口にした。

 けれど手を取って教えることはなかったし、彼の琴の音もいまだ聞いたことがなかった。父の皮肉は源氏の手に七弦琴を取らせた。


 ひどく寒い夜だった。まだ満ち足りぬ月が、(ひさし)に凍りつくような光を投げかける。目を向けていると訪れた源氏が、やはり視線を月に流した。


「冬の月ですね」


 人の嫌うそれが好きだとは言えず、ただ目だけで微笑んだ。源氏は笑みを返し、両の手を琴にかけ音を響かせた。


 もの寂しい月の色。それが音と化した。

 蒼ざめた美しい女の顔。捕らえられた死霊。天に満ちる霜。烏の鳴き声。芥子(けし)の香り。闇。光。白い花のような若い女。夕暮れ。幼子。権高な美女。高貴な女の影。琵琶(びわ)。潮の香り。手招く竜王。それに捧げられる女。波頭を思わせる桜。山桜。駆けていく少女。霞。花橘。蛍。


 琴の音はすべてを含み、すべてを捨てる。

 それは異界の音だった。神を招き仏を招き魔を招く。

 そしてそのどれをも留めず、どれにもすがれずただ過ぎていく。


「まあ、なんと華やかな」

「今めいていらっしゃいますわね」


 女房の声でわれに返った。

 華やか。今めく。彼女たちの耳にはそう響いているのか。


「どうかなさいましたか、宮さま」


 按察使(あぜち)の声がいくらか遠くに聞こえた。私は気力を振り絞って常態を取り戻した。


「あまりに凄くて。別の場所に連れて行かれたようでした」


 源氏は少し意外そうな顔をした。それから礼儀正しく私に尋ねた。


「それは光栄ですね。いい場所でしたか」

「ええ。でも寂しい所でした」


 なぜ素直に答えたのか、自分でもわからない。

 源氏はさらに不思議そうな表情を一瞬だけ出し、それから言葉を肯定した。


「そうでないとは言えませんね。私は寂しい人間ですから」

「あら、ご冗談を」

「本当に。どなたよりも明るく、光をお集めになる方でいらっしゃるのに」


 女房たちが口々に言う。源氏は取り合わずその声を聞き流した。



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